何はともあれ篠山口駅に着く。改札口を出るなり、黒豆チックなキャラ「デカボー」がいて撮影会となる。そしていよいよ、篠山観光。篠山口駅から篠山城までは6キロほどあるらしく、「どうすりゃいいんだ。」と、いうことでまずは駅の中にある観光案内所に行くと、扉を開くなり、受付の人が立って
「篠山観光に行かれるのですか?!」
と焦った感じ。「はい」と返事したとたん、
「篠山行きのバスが39分に出るので早く下に降りて2番のりばへ行ってください!!!」
時計をみると、12:39。発車時刻は、今、この瞬間じゃないカッ!!Σ(゜□゜;
「次のバスは何分ですか?この辺で食事できるところがあれば時間を潰しますけど。」と聞き終わらぬうちにもう首をブンブン振られて、「ここに食事できるところはないから!次は30分後だから早くッ!!!」とおっしゃるので、もう、何も考えずにそのままダッシュで駅を降りて、バスに飛びこむ。
「で、どこで降りればいいのだろう…。」
繭さんがバスの運転手に尋ねてくれて、「二階町」バス停で下車。
ようやく篠山市の中心街に来た。しかし、まずは腹ごなしだ。
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丹波篠山名物イノシシ。
これに、丹波名物「山の芋(トロロ)」をかけて
食べた。 |
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丹波篠山名物イノシシ
オコトヌシ様、タタリ神なんかになら
ないで!! |
と、いうことで、お昼ごはんに猪肉を食べた。その名はたしか「しし肉とろろ丼」。
切ないほど少ない肉量の丼を満喫し、その後、歴史美術館へ。まずは情報収集ということで、歴史美術館で「森忠政が普請した場所を教えてください。」と真正面から森家への愛を叫んだけど、本日は学芸員さんが不在で情報つかめず。
館内の展示で松平氏のあとに篠山城城主になった青山氏について知る。
青山氏って誰なのか知らなかった。家紋は無字銭(何も書いていない銭のカタチ)だそうで、無字の銭の家紋がついた武具や調度品が並ぶ。私にはまるで馴染みのない家紋だった。
道なりにあった春日神社に参拝後、いよいよ篠山城入り。
この篠山城は、来るべき大坂の豊臣氏との対決に先立ち、豊臣を包囲し、かつ、西国の大名たちと豊臣家を分断するために徳川家康が慶長14(1609)年に急ピッチで築かせた城。
一方では、築城に当たらせた大名ら(関ヶ原からいきなり徳川の味方をしはじめた大名達とか)に築城で金を使わせてその力を削ぐという計略であり、その篠山城築城には、森忠政も参加させられた。もちろん、築城させられた時の費用はすべて自腹。家康に睨まれてたんだね、森忠政。かっこいい。
篠山城築城については、家康が不機嫌ということで工事が早められたり、堅固になりすぎるといかんというので家康から天主閣の造営を中断させられたり、工事が遅延すると「あのヒト、きっと家康に改易されるんじゃあない?」と噂が立ったりしたという。みんな、翻弄されてるね!堅固になりすぎてはいかんって、家康はどんな「ゆるキャッスル」を所望していたのか。
もともと家康に睨まれている普請担当の諸大名は何かやらかしたらお取り潰し…絶対に、絶対に問題を起こしてはならない!と緊張が走り、「喧嘩なんかしたらどっちも許さん。」、「勝手に帰国すんな。」と大名が家臣らに厳命を下す中、森家においては家臣同士が喧嘩して番所で刃傷沙汰をやってしまったっぽい。
やるなと言われれば、ついやりたくなる、それが人というもの(違う)。しかも、それはちょうど忠政が普請の様子を視察しに篠山へきた時節の事件らしい。喧嘩を起こした者も一人は切り結んで死に、生き残ったほうを切った者たちも、忠政にまるっと切腹させられた(この話は亀山城普請の時という説もあり)。
篠山城 |
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廊下門跡
ここから城に入ってゆく。
家康の命令で天守閣造営は中止となり、
とうとう天主閣は築かれなかったとのこと。
(天主台は今もある…。) |
大書院裏側
平成12年に再建された大書院を裏側から撮影。
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篠山城の石垣
今回、立ち入りできずに肝心の外周の石垣を
見ることができなかった。 |
石垣に刻印されたマーク
○に「小」の字。どこの大名家の石工か私には
分からないけど、きれいな○にカンゲキ。 |
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森忠政の普請場は、森家の石工が施した刻印(自分の石であることを示す印)で判定できるかも知れない。津山城の石垣にあるのと同じ刻印があれば、それは忠政の連れてきた石工の刻印であり、そこが森家の普請場である。それを見つけ出して森家が担当した石垣を両手で抱きしめたい。
篠山城に入って石垣を眺めると、いろいろな刻印がある。場所によっては「わざと同じ俺様マークをきれいに並べてみたんじゃないのか…。」という一角があったりする。生きてここで仕事した証を後世までさりげなく示したかったのかもしれない。
繭さんも嬉しそうに刻印を探していた。色々なマークを見つけ出すのって、宝探しのような楽しい作業だ。よって再建大書院よりも、石垣ガン見である。石垣の刻印を探して裏手まで回ると、城主だった青山氏を祀る青山神社というのがあり、どこかのガイドさんが「東京の青山通りは…」と何か解説していたものの、青山通りよりも森家普請場のほうが大事である。でも、津山城の石垣と同じ刻印が見つからない…。
とりあえず大書院に入ると、ミニシアターがあり、どえらい解説とともに、築城を命じられた大名の一人として「森忠政」の名がシアター画面にでてきて、ついつい涙を誘う。ああ、「森忠政」の名は、画面によく映えるなぁ。かっこいい。
しかし、最大の収穫は近隣の城の八上城の波多野氏は
・八上城=「やかみじょう」
・波多野氏=「はだのし」
と発音するらしいことだった。明智光秀はこのことを…。
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八上城跡のあった丹波富士(高城山)
篠山城天守台より撮影。中世に勢力をもった
波多野氏の居城。明智光秀に攻め滅ぼされた。 |
高城屋敷門
八上城の屋敷門だったと言われる門。
青山歴史村の横にいきなりあった。 |
篠山城の石垣の外周にある刻印もチェックしてまわりたかったけど、現在は工事もあって立ち入りできない状態。城の受付で食い下がっても断られた。
来月4月4日からの築城400年祭の時には、あの工事も終わって石垣をゆっくり見ることができるに違いない(嫉妬)。とても無念である。でも、森忠政の愛を叫んだら『お城の探検と石垣の符号探しマップ』をもらえた。しかし、4館共通入館券を紛失した我。
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無念…。
森家普請場を見つけたかったのに
無念でごじゃる…。 |
次は青山歴史村へ。そこに向かう途中に不意打ちで波多野氏の八上城の城門があったのはともかく、ここは歴史村といっても敷地内には屋根のある建物が2つだけ…いや、その前に気になるは「青山」という文字。
室町時代に成立したという『鼠草子』絵巻の展示は楽しかった。「畜生辞めたい!」という大いなる志を持って17歳の人間の少女と結婚したネズミ(100歳)のサクセスストーリーは、妻に逃げられ夢破れて出家し、同じく出家しようとしていたネコさんとともに和歌を詠み交わしつつ高野山に登ることで幕を閉じる。
そして、青山歴史村というだけに、やっぱりあった青山氏ゆかりの展示品。甲冑とか狩衣とか色々な品々。歴史美術館でも見た無字紋入りの世界。
そして最後に、武家屋敷群のある御徒町経由で篠山城の馬出の遺構を見に行くことにする。しかしながら、今日は寒い。
篠山に来てから、森家に集中している時以外は「寒い」「寒い」の連呼である。途中で見つけたカフェに飛びこみ、「黒豆コーヒー」で暖まり、古い陶器を置くオーナーとの話に花が咲く。そしてカフェを出たとたん「寒い」。
冬用のジャケットを着ているのだけど、それでも寒い。手がかじかむ。
そして歩き進んでふたたび篠山城へ。裏手から侵入して石垣の刻印を見たかったけど工事中の柵を乗り越えるか、堀を泳いで渡るか…結局は断念。森忠政の普請場がこの視界に入っていることを信じて今日の見おさめとする(※注1)。
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篠山城石垣
なぜか水の無い内堀。 |
篠山城石垣
見事なものだ。 |
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篠山城石垣
西側の内堀と石垣。 |
篠山城石垣
石垣に近寄りたいのに、工事中で侵入できなか
った。 |
篠山城には珍しくも城から突出した「馬出」がきれいに遺っている。
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東馬出
屈折した地形を堀で囲むことで城への通路を
複雑にする。 |
篠山の夕暮れ
篠山城の東堀。城跡画像は左に切れた。
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お土産屋さんで丹波名物の黒豆を使ったお菓子を買った。それからバス停でバスを待ちつつも、やっぱり寒いので堪えきれずに飛びこんだ和菓子屋さんで「黒豆どら焼き」を買った。
森忠政の割り当てられた普請場を確認することなく大阪駅へと帰途につく。
来月より始まる篠山城築城400年祭で、森忠政がもっと露出されることを期待しよう。そんで津山市と篠山市が姉妹都市となって、森忠政の銅像がもう一体鋳造されて篠山城に堂々と飾られるのもよろしかろう。
大阪では、アツアツのお好み焼きを頬張って、またまた繭さんと歴史話に花を咲かせた。
帰りの夜行バスに乗る前にお手洗いに行くと人が並んでいたけど、前の女の子がダンスをして身体を左右に揺らし、私に向かってバックして飛び跳ねてくるのでどうしたものか判らず、一緒にバックしたりして大変に緊張した。
途中まで繭さんに送ってもらい、私は福岡に戻るため夜行バスに乗る。
繭さん、篠山にご一緒くださり、本当にどうもありがとうございました。m(_
_)m
いつかまた、私は篠山城に行くのかも知れない。その時こそ、私は森家の普請場を確認できるのかも知れない。そして森家が担当した石垣に血がにじむほど頬をすりよせ、かつ、頭突きして喜ぶのかも知れない。石垣と石垣のすきまに腕を突っ込んでヘビを引きずり出して「お前が羨ましいよ。」と言うのに違いない。
そうだ、きっとそうに違いない!
【補足】
※注1 篠山市に問い合わせをしたらこんな感じでした。↓
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■篠山城の築城に森忠政が助役大名の1人として普請に参加していることは分かっておりますが、森家に関する古文書資料等は当市にはありません。
■篠山城の築城には15ヶ国20の大名が参加(史料により若干の違いがあります)したことが分かっております。
■そのうちの山内家は『山内家文書』に篠山城築城時の様子について細かな記述があったり、いくつかの大名家所蔵の古文書史料に篠山城築城の記述があることが分かっておりますが、森家の普請の様子についてはこちらでは把握できていません。
■石垣の刻印には池田輝政の刻印がある以外は大名特定できるものはない状況です。
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