赤いコンニャクを買いにツアー

                2009年2月7日 in 近江 

近江八幡名物赤こんにゃく
(シャア専用ではない)

信長が着色?

 箕作城には2度登る。 


今回の旅予定(当初)
 (1)箕作山城跡(東近江市五個荘)にサクサクッと登る。
 (2)安土城跡に登ってまったりする。
 (3)近江八幡で織田信長の墓参り(西光寺)をする。
 (4)さらに近江八幡名物の赤コンニャクを買う。

 朝、夜行バスで京都駅に着いて琵琶湖線に乗り滋賀県に移動する。そして能登川駅で下車した。
 駅前に観光案内所があるのを見つけたので「箕作城跡に登りたいのですが。」と道を相談。一応下調べはしてきたものの、いまいち下車すべきバス停が判らないし、現地ならもっと濃厚な情報があるかも知れないので情報収集。そこにやってきたタクシーの運転手さんが箕作城の場所と登り口の地図を書いてくださった上に、私の乗りこんだバスにやってきてバスの運転手さんに「あの子は、国道石塚のバス停で降りるのでよろしくお願いします。」とお願いしてくださった。

 箕作城(みつくりじょう)は、観音寺城に拠点を置く近江佐々木氏の支城。永録11(1568)年、織田信長上洛の際に、佐々木氏が箕作城を含む支城システムを活用して信長をボコボコにしようとしたものの、逆に信長軍に瞬殺されてしまったという城だ。敵は箕作城を開けて退散。結局、佐々木さんも観音寺城を捨てて甲賀に逃れることとなる。
 『森家先代実録』によれば、9月12日の朝、信長が坂井政尚と森可成、小姓馬廻の五百騎で箕作城の視察をしていたら、箕作城から足軽が出てきたので、森軍・坂井軍がぶつかっていき敵八十あまりを討ち取って城中へ敵を押し込めた出来事があったらしい。

箕作山遠景
本丸跡を含む数か所に何本か鉄塔が刺さって
いた。
箕作山内部
遺構っぽいのを見つけられずじまいで無念。


 そこで、私は森可成を思って箕作城へ登ることにしたのだ。
 国道石塚バス停で下車。目印の神崎中央病院を目指して歩き、背後にある箕作山の林道に入りこむ。アスファルト舗装の林道を歩きつつ、山頂へあがりこむ道の入口を探す。よく判らんけど、土に板をはめこんだ階段があったので、これだと信じて登る。ここ久しく誰も足を踏み入れていないのか、途中より山道は乾燥した枯草が積もっていて、踏めば一緒に滑り落ちてゆく。なんか、難攻不落だ。
それでも、林道から30分ほど登って山頂に到着した。やったぜ本丸!!!
…って、いい汗かきながらも、本丸ですら遺構らしい遺構がまったく見当たらなくて、というか本丸にしては手狭すぎて、私は本当に城跡に立っているのか判らんのである。登る山を間違えたのだろうか。
 坂井政尚の嫡男の久蔵(可成の娘・鴻野さまのフィアンセになるけど姉川の合戦で討死)が、今でいう中学生くらいのはずなのに、この戦いの時に堀ぎわで勇ましく敵と戦い、信長に感心されたというが…堀っぽいものなんて途中で見かけなかったぞ、どこよ!!!
「箕作山城跡」の石碑もあると聴いていたものの見つからない。登って来たのとは反対側の道にお宝満載であることを期待して降りてゆく。降りてゆく。たまにコケる。
 気づけばハートを熱くするものを何も見つけないままに下山していた。あまりに何もなさすぎて、怒りで自分で堀を造りそうになった。
はっきりいって、ものすごい消化不良だ。
 その前に、私がやってきた「ここはどこ?」。地図を見ても自分がどの道を下山してきたのかピンとこないので、散歩していたおじさまに「ここはどこですカッ!!!」と尋ねる。
 事情を打ち明け「石碑すらも見つからなかったんです。」と地図を出すと、「昔、登ったきりだけど…」と、石碑のある道を一緒に探してくださることになった。ありがたい。しかし…
「一度、山頂に登ってから降りて行ったほうが判りやすいな。」という提案をされ、私は二度目の登山とあいなった。登山口は山の麓をグルリとまわり、先ほど一人で登ったのと同じ道から登った。おお、さすがに二度目の登山は足がガクガクして、たまにすっころぶ。いや、一度目の登山でもすっころんでいたけど。しかも、しょっちゅうバラ科の植物が足や腰に巻きついて動けなくなり「なぜか前に進めない!」と騒ぐ我。
 そうして山頂を極めた。やったぜ本丸(二度目)!!
おじさまが地図をみながら、隠れていた道を見つけ出してくだすった。その道は高配がかなり急だったものの、何とか降りてゆき、2人とも無事に下山完了。
「肝心の石碑なかった!!!!」Σ(゜□゜;
石碑の写真も印刷して手元にあるが、「もしかして、実は高さ1cmの石碑とかでものすごく細心の注意してみないと見つからなかったのかも。」そう思って諦めるより他なかった。
 10時過ぎよりサクサクッと箕作城跡に登ってすみやかに午後より安土登城計画のはずが、この時すでに昼の3時近い。手のひらに書いた(箕作城跡から能登川駅への)帰りのバス時刻「11:40」がなんと虚しいことであるか。
 私の騒動に巻き込まれてくださり、ありがとう、おじさま。おじさまはその後の帰り道も気遣ってくださった。
「今から、どうするの。」
「能登川駅に戻って、安土城跡へ行こうと思います。」
「能登川までわざわざ戻るよりも、ここから歩いた方が早いよ。30分くらいだから。」
 なんだ、ここから1時間以上かかるかと思ったら、意外と安土は近いらしい。箕作山の麓まで降りて5分ほどすれば、なるほど、もう安土町の領域だった。だが、観音寺山が邪魔で私が安土と認識するためのランドマークである安土城跡が見えない。
とりあえず、また単身に戻り、安土城跡の手前にある安土駅に向かうことにした。

たぶんこれが観音寺城のある山。
山の高さに登る気を失くす。

 

 スピーディ安土城跡
 
 箕作山から安土駅を目指して歩いて歩いて歩く。
安土町のマンホールのフタ
信長の鉄鍔(まけずのつば)をデザイン?
思わずめくって持ち帰りたくなる。


 足が棒なばかりか、おケツの付け根あたりからおかしい。でも、歩くしかないのだ。何が私をそうさせるのか分からぬが、限界へのチャレンジなのだ。基本的に私の旅は体力勝負なので、このオチがふさわしいのかも知れない。

安土駅前信長公像
踊ってるのかな。


 1時間かかって、フラフラになって安土駅にたどり着いた。おじさんの「30分」とは一体何を想定した時間だったのであろうか。駅前のレンタルサイクルに行くと「安土城跡は4時が最終入城だから急いで!お金は後ででいいから。」と店のかた。そんな時刻は3:45。映画のピンチシーン並みのギリギリ設定だ!!!Σ(゜□゜;

 安土の道は慣れているので、迷う心配もなく最短コースでシャーーーーッとチャリンコを走らせて10分後には安土城跡の城の受付にかけこむ。
「5時には閉めますので、それまでにここへ戻ってきてくださいね。」とのこと。要するに1時間で見て回らねばならないのだ。城に入ったまま出てこなかったり、そのまま住みついたりとかするのは厳禁のようだ。何もない箕作城跡に5時間かけたこの私が、天下の名城・安土城を1時間で見て回らなくてはならないとは、なんという運命!!  


 いつもならのんびりまったりと行く道のりを、急ぎ足で天主跡めざして階段を登る。疲れているので足がもつれてほどけなくなってしまう。急ぎつつも、階段で一休みしつつ、森蘭丸邸跡石碑へ。本来の屋敷跡があったずっと奥の敷地への立入禁止は以前からだけど、もはや石碑周辺自体もどんどん人を拒むような場所になってきているような…。

左:津田信澄邸跡石碑
右:森蘭丸邸跡石碑
今は立ち入り禁止ゾーン
  森蘭丸邸跡石碑
かたむきつつもひたむきに頑張って
いるような感じの味わいがある。
信長公本廟
信長ゆかりの太刀、烏帽子、直垂などの遺品が
埋葬されている。


 天主跡に登りきって、ようやくゆったりとした気分になって琵琶湖を眺める。当時、安土城からは坂本城長浜城などの家臣キャッスルが見えていて、何かあれば各地から即連絡がとりあえたという。家臣らの動きが手に取るようにわかる「まる見えシステム」。光秀が庭でゴム飛びの練習をしているのも望遠鏡なんかで見えていたかもしれない。そんな琵琶湖ネットワークも、本能寺の変の際には何の役にも立たなかったけどね!

天主跡
信長は何かにつけ「天」の字が大好きなのだ。
天主跡
この地面は天主の地階・穴蔵部分にあたる。


 ふと思う。森可成が戦死した坂本の比叡辻も安土城の天主から見えるのかな…と。幾度か、信長はここの天主からの風景に、ふと、自分の為に亡くなった家臣・可成のことを思い起こしたことがあるだろうか。

三重塔
天正年間に信長が甲賀から
テイクアウトしたという。
二王門(裏)
これも信長が甲賀からテイクアウト。
二王門(表)
森蘭丸もきっと目にした金剛力士像。


 信長時代からの建築物である三重塔二王門を見物して、忠実に5時前に受付に戻る。「そう見寺」のご朱印をいただいて、安土城跡をあとにした。 

桝形虎口
大手門から西にのびる石累は近年、発掘整備
されたもの。画像右奥に折れて道は続く。


 チャリンコをこぎながら、この後の計画を立てる。もはや5時で日没も時間の問題。近江八幡で夜の闇観光は無理であろう。しかし、今回の旅の目的の一つ、赤コンニャクは捨てがたい。

赤コンニャクとのなれそめ
 (1)おととしだったか、多賀大社の門前のお土産屋で赤コンニャクをみつけ、遠目に「マグロの切り身」として認識する。
 (2)彦根のお土産屋でこれがマグロではなく赤コンニャクと知り、「井伊家の赤備えに便乗したコンニャク」と思い、「やりすぎだ。」と思う。
 (3)家に帰って調べると、これは伝統的な近江八幡名物の「赤コンニャク」で、織田信長が赤く染めさせたとか、近江商人が考案したとかいう説を知る。

これはぜひ買わなくてはならない。でも、近江八幡へはもう行く時間がない。
 そこで、安土城跡からの帰り道に普通のスーパー「フレンドマート安土店」に寄ってみる。コンニャクコーナーには普通に赤コンニャクが置いてあった。滋賀県民は普通にこんなものを食しているのか。お弁当にもこれさえ突っこんでおけばイロドリもバッチリだな。今回は赤コンを2袋買って帰って、リュックの中身がいきなり重くなる。
 レンタルサイクルを返却して、ついでに安土駅のそばで夕食を食べようと思ってご飯が食べれるところを店のかたに尋ねる。
「駅周辺にはないです。」と、キッパリ回答されてしまった。”楽市楽座”とか”天下布武”とかいう名前のレストランがあってよさそうなものを。お膝元の安土らしく”信長定食”とか作れ。要予約でいいから”天下御膳”とか提供せんかい。
「普通でない料理を食べさせてくれるところならありますけど。」と追加された。
「普通でないって何ですか?」
「普通の食べ物じゃないんです。」とのこと。
 詳細は不明ながら、今日の私は、お昼ごはんも食べずに歩き疲れているので普通の食べ物が食べたい。結局は、お隣の駅の近江八幡駅に寄ってみることにした。近江八幡には、駅周辺にも食事する場所が豊富にあるだろうから。
  

 近江八幡、月光の墓。

 
近江八幡駅に到着。もう、すっかり日没で暗い。食事をとるために駅を出て地図を見る。そうしたところ、織田信長のお墓がある「西光寺」の文字が飛びこむ。ああ…信長のお墓参りに行きたかったという後悔。「やっぱりここまで来たので、日没でもダメもとで、お寺まで行ってみよう。」と、結局、西光寺を目指して歩き始めた。20-30分の道のりだっただろうか。駅の繁華街をはずれて道がどんどんと暗くなってゆく。ああ、リュックの赤コンもずっしり重たい。孤独だ…。
「私は何をしているのだろうか。」と思いつつも、目に見えぬ磁石に引き寄せられて歩いてゆく。バスが何台も横切る。バスに乗れば早いという単純な発想も、私には通じない。

 西光寺にたどり着くと、ミラクルで門が開いていた。もしくは門なんてなかったのか?嬉し恥ずかし、な気持ちで真っ暗な境内の墓場に入ると、書籍で目にしたことのある織田信長の墓が月光に薄暗く照らされていた。
 この墓は、豊臣秀次が安土城下よりここへ移してきたものという。 
 それはともかくも、織田信長の墓には説明看板も何もないばかりか、墓石の隣に間を置かずに焼却炉が設置してあるこの扱いは、なにゆえなのか(汗)。みんなのヒーローに何てことを。
。現地へきてびっくりした 月光のもとで、織田信長のお墓に手を合わせる。むろん、焼却炉には手を合わせなかった。
西光寺
高感度撮影してみました。
信長がかつて安土城下に建てたお寺が近江
八幡に引っ越してきたものだとか。
  織田信長の墓(西光寺)
旅のしめくくりにふさわしい墓。


 最後のひとふんばりで頑張って来てよかった。墓に会えた。月をお供に帰途につく。そして空腹にガマンできなくなる。そうだ、腹がすいては戦ができぬ。

 駅に戻る途中で、疲れがピークに達して、うどん屋に飛びこんで、味噌煮込みうどんを食べる。ようやくお腹も満たされ、月明かりとともに近江八幡駅まで戻り、京都駅へ帰る。

 帰りの夜行バスに乗るために京都八条口に行くと、永楽屋というてぬぐいのお店があった。店の解説に「始まりは”大黒屋”という名で織田信長公の御用商人として綿織物商を営みやがて元和元(1615)年に”永楽屋伊兵衛”として創業」とか、「永楽屋 細辻伊兵衛商店の由来は戦国時代、織田信長から命をうけ先祖が出陣した際、 直垂(ひたたれ)に永楽通寳の紋が入っていたことからその名を取って付けたといわれております。」とあるので、つい店に入って永楽通宝マークの入った手ぬぐいを購入。
 同じく八条口にあった辻利で抹茶ソフトクリームを食べて、夜行バスに乗る。

激しい疲れで、筋肉痛確定だけど、たまには、ぐったり疲れ果てるまで歩くのはいいことだ。今回もよい旅をした。赤コン食べるぞ!袋から出すとなんか赤い粘土みたいな感じ。