森家を慕い津山を想う旅                   

             2008年12月19日-21日 in 津山 

商店街シャッターのイラスト「津山城築城」

■ 12月19日(金) 津山城跡でふしぎ発見!

 夜行バスで岡山駅に着き、JRで津山に向かう。
夜行バスが予定よりも早く着いたので、一本早い津山行き列車に乗る事ができ、思わず誕生寺駅に途中下車した。
 誕生寺駅は無人駅で、しかも自動切符発売機がない。駅前の川●さん宅で切符を買うのだ。あらかじめ誕生寺駅から津山駅までの切符を購入しておく。

 今回は冬の衣料やスーツなどもいっぱい詰めたので大荷物だ。粗い舗装のアスファルトの上でキャリーバッグ(大)をガッコンガッコンいわせながら誕生寺を目指す。ここは浄土宗の祖・法然上人の誕生した場所ゆえに誕生寺なのだ。
 誕生寺に至る道の手前には念佛橋がある。話は鎌倉時代に遡るけど、法然上人の弟子となった熊谷次郎直実(かつて平敦盛を殺っちゃった人)が師の生家を前にしてこの橋で号泣して念仏を唱えたことに念佛橋の名は由来する。自分が憧れてやまない人のいた地がついに視界に入った時のその感激とその高揚は、森家ストーキングをやってる私にもなんとなく判る気がする。
「やっと会えた!!」という魂を揺さぶる、あの、例えようもない喜び。
ちなみにこの時まだ、法然は生きてて、法然のお使いで熊谷はこの地に来ていたんだけどね。

 念佛橋を渡り、山門をくぐって誕生寺の広い境内に至る。先ずは、寺務所に行ってご朱印をいただく。誕生寺のご朱印は全部で三種類!コンプリートすると何かが起こるのかも知れないけど、とりあえず今回、私が選んだのは「観音様」のご朱印。森忠政が養母・大野木殿の供養に建立した生光院御霊屋は、現在は観音堂に転用されているので、これも何かのご縁なのだと思ってこのご朱印を頂戴した。

観音様のご朱印。

 その後、観音堂へお参りする。ここにお祀りされている通称「お七観音」は七回お参りすれば大願成就するとのことで若い女性の間で静かなブームとなっているそうだが、私はその静かなブームに乗らずに森家を慕って手を合わせた。そして驚いた。観音堂の木枠の扉から中に森家のご位牌が二つ並んでいるのを見つけたのだ!!思わず木枠に取りつく。ご位牌は鶴丸のご紋つき。森家の物に間違いない。
いや、いつもちゃんと見えるようにしてあったのに今までは私がマヌケにも気づかなかっただけかも知れない。とにかく早朝から、感激。今回もいい旅になるのは間違いない。

誕生寺森家関連

誕生寺観音堂
もとは、森忠政の寄進した御霊屋だった。
現在は観音堂なるも、中には森家のご位牌が
あった。
大野木殿と重政の墓
血はつながらぬものの、お祖母と孫同士が
仲良く並んで眠る。実はどっちがどっちの墓石
か判らぬ私。

森重政(忠政長男)のご位牌
27歳の若さで父に先立ち世を去る。
「捐館 瑞應院殿前光禄桂林俊芳大禅定門」
大野木殿(忠政養母)のご位牌
画像がナナメなのは私のせいかも!
「生光院殿心譽祖榮大禅定尼」

 忠政の長男・森重政は大坂の陣の時くらいから病んで、一時期はこの誕生寺に、そして後には真経(さねつね)村で療養したものの、薬効の甲斐なく27歳で父に先立ってしまう。真経に葬られていたのが、後に誕生寺に改葬された。
 大野木殿は、塙九郎左衛門(原田直政)の妻であり、忠政は7歳になった時この家に養子に行く話となったが、塙九郎左衛門の討死により養子縁組は立ち消えとなる。さらに大野木殿自身が柴田勝家の娘だったために、のちに秀吉に息子を殺されて彼女は侘しい暮らしをしていたが、美作国主となった忠政に津山に迎え入れられることになる。そして彼女の遺言でこの誕生寺に葬られた。

 お参りをした帰り、お寺の方が私の大荷物を案じてくださって、車で駅まで送ってくださろうとした。なんてお優しいの!熊谷号泣!!!Σ(T□T;
超★都会暮らしの私には、人の愛がことさら身に染みる。でも、自分の足で駅に向かって大丈夫なのでお礼を述べて誕生寺を後にした。
…でも大丈夫じゃなかった。気付けば普通のペースでは次の電車に間に合わない際どい時間になっていたのだ!次を逃すともう1時間待たなくてはならない。大慌てで駅へ急いだ。途中からは駆け足となる。背後に引くキャリーバッグがかもし出す轟音のすごいこと。それで、どうにか間に合った。なんだか私はいつもこういうパターンが多いけど、ともかく、めでたく車上の人となり、津山駅にたどり着くことができた。

ありし日の津山城イラスト
JR津山駅に掲げてある。森忠政の築いた津山城が荘大な城だったことが忍ばれる。

 宿泊予定ホテルで待ち合わせたハナちゃん[URL]と再会。さっそく、一緒にリアル津山城に登る。先ずは、津山城主にして美作国主であらせられまする森忠政公にご挨拶。

森忠政公像
男のダンディズムの権化。

 今日はこれ以上望めないというほどに空が青い。備中櫓の白壁とのコントラストが何とも美しくて写真を撮り続ける。本丸跡まで登りつめれば、かつて忠政が住みなした本丸御殿跡。ここに忠政が住んでいたのだ、感動しないはずがない。
 天守跡に向かって歩くとその周辺が発掘調査中の模様。掘られた穴を見下ろすと、「古墳?」のプレートがあった。発掘調査で「古墳?」なるものを発見してしまったようだ。
Σ(゜□゜;
津山城を建ててしまったその土の下敷きになって、ファラオ(違う)が悠久の眠りについているのか!

津山城跡
石垣だけでも十分に圧巻。
津山城跡備中櫓
青い空に映えて白が見事。
発掘現場
プレート文字(左から)「築城時の造成土」
「築城時の山の表面」「古墳?の盛土」。
忠政は古墳の存在には気づいていなかった
ようだ。
  五番門
この先の見えない怖さ。

 ハナちゃんが天守台の麓で白い物を拾う。

津山城跡に出現した謎の陶器

 白い器に変な突起物のついたこの陶器。
「これ、何だろうね。」
私が思うに忠政がグレープフルーツの汁を絞る時に使っていたのではないだろうか。
手作り感あふれる突起物の微妙な曲がり具合といい、均一ではない釉薬のかけ具合。
「少なくともこれは現代の物ではなさそうね。」
「裏に銘があるかもなぁ。」
 とりあえずは洗ってみようということになり、指先冷たい冬の空の下、津山城本丸で凍てつくような水道水で陶器を洗うと、土のついた裏面には、穴が開いていることが判明。デジカメとケータイで撮影。考古学に詳しい ゆっきいさんに写メールしてこの陶器の謎をもちかけた。
「とりあえず、このブツは隠そう。」
陶器を草むらに隠して津山城を後にした。

 そんな悠長なことやっている割には、次のスケジュールは津山ロータリークラブ様で私の森家スピーチご披露本番なのである。実は、私はこの事が第一目的で津山にやってきたのだ。
 偶然にも講話をする台には鉢植えの蘭の花が置かれていた。「蘭だ、蘭だ♪」と何だか嬉しくなる。お昼ご飯までご馳走になりつつ
「森家を慕い津山を想う」
というスピーチをして、いかに私が森家を愛し、津山を愛しているか、どんなに森忠政が苦しい人生を立派に生き抜いたのか、みなさんがどれほど素敵な場所にお住まいなのかを語った。そして質疑応答で森忠政の銅像話が持ち上がる。修復された本源寺の像を見るに実際の森忠政は首のついたイケメンということで幕を閉じた。
 
 ありがたくも夜にはセレブなおじ様方に「うききを囲む会」を催していただける事になり、ハナちゃんと一緒にご招待を受けた。それまでの間に津山のご城下を歩いた。   
 妙願寺にもお参りする。森忠政の母・妙向尼がかつて美濃金山に建立した寺院で、忠政とともにこの津山に移ってきた。
 慶長8(1603)年8月2日(妙向尼のご命日)には、森忠政が初めてこの津山妙願寺に訪問している。

妙願寺

妙願寺本堂
この本堂は再建のもの。
庫裏と客殿は江戸初期の建築で市指定重要文
化財。
各務氏先祖墓
詳細不明ながら、森家ゆかりの各務家の
方と見ゆる。
墓石には各務家の家紋もある。
忠政公お手植えの松
二代目。
お手植えの松ってよく見かけるけど、
昔の有名人って、記念植樹してまわるの?
妙向禅尼之像
妙願寺に残る画像を元に作成された石像。

 「うききを囲む会」は料亭で催された。海鮮鍋が美味しかった〜♪
 今日は津山の方々に私の森家話に耳を傾けていただけたし、私をハッピーに導いてくれるハナちゃんと一緒にご飯を食べれたし、酔ってる相手に森家のお宝を見せていただく約束を取りつけることができたし、初日よりなんとも幸せな心地する。
 津山の夜は激しく寒いけど、心を温かくしてホテルに戻った。

■ 12月20日(土) 津山城跡にゴリ夢中

 まだ日の明けぬうちに起きだしてホテルの窓より外を見ると、町全体に霧がすごい。
「ひぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!なんてロマンチーーーーック!!!」Σ(゜□゜;
もう、夢中で外に飛び出してマフリャーを巻きながら津山城跡に走る。白い風景の中から、だんだんと森忠政像が現れる。
 今すぐ城内に入りたい!今すぐに!と思ったのに、この城跡は営業時間というものがあり、時間外は閉鎖されている。どうにか入ろうとするには入城口の扉は高く、更に扉の上には先のとがった金属が立っている。無理矢理に登れば、あの金属に刺さって発見され「モズのはやにえ」と勘違いされそうだ。
 悲しいけれど、津山城跡の周囲をグルグルと回って辛抱することにする。それでも、十分な見ごたえがあるのだ。
津山城へ続く階段
まだ誰もいない城へ1人突入する喜び。
霧の津山城跡
何とも幻想的。

厩屋敷跡
画像に写りこむそれらしき建物は…トイレなんだ
けどね。
厩堀
手前の池が厩堀。背後には厩屋敷
があった。霧がかって見えづらいけ
ど、奥には津山城の石垣が連なる。
 

 厩堀から津山城の石垣にかけてデジカメ撮影していたら、早朝にもかかわらず、犬の散歩をしていた方に声をかけられる。嬉しくも昨日の私のスピーチを聴いてくださった方だった。
 そこで色々と立ち話をして、薬研堀の不思議を伺う。薬研堀はいくら雨が降っても増水せず、冬も凍ることがないという…。

薬研堀
冬鳥の休み場になっていた。
私もいつかここで泳いでみたい。

 城の東側に出て宮川に沿って歩む。あまりの寒さに指先の感覚もないけど、水辺には鴨やアヒルがたくさんいて楽しい。

千代(せんだい)稲荷神社
鶴山の中腹にあったものを、津山城築城の為に
森忠政が移転させたことに始まり、森長武が城
の東(現在地)に移すまで移転を繰り返した。
宮川
城の東を守るこの流れは下流で吉
井川に合流する。
 


 いったんホテルロビーで凍った身体を溶かしてから津山市郷土博物館に向かっていると、ケータイにメールが入った。関西の繭さん[URL]からだ。

繭さんメール:『津山行きのバスに乗っちゃうことにしました。』

Σ(゜□゜;当日にいきなり宣言かい!!
でも、予想だにしなかった繭さんが会いにきてくれるというので超・ワクワク♪
 博物館でまた色々と教わり(お仕事の邪魔)、森家に関係ある話から関係ない話までを伺った。
 ひと昔以前の津山の写真などを見せていただいたら、今は桜の木が並ぶ津山城跡は松の木だらけだった。お城だけではない、城下にも松が茂る。今は城内にも城下にもそんな面影はない。
「なんで松なんでしょね、砂防や風避けでしょうか。」とお尋ねしたところ、食べられるから、とのこと。
松は非常食になるのだと初めて知った。津山ではまた別の方から「城下の松は何か事がおこれば道に切り倒して敵の侵入を食い止め時間稼ぎをする」目的があると伺ったので、他にも色々な知恵を含んでの結果として、津山には多くの松が植えられていたのだろうな。すごい。

 お昼ごはん時間にはハナちゃんにお迎えに来てもらって商業施設アルネへ行く。アルネでは先に到着していた しまちゃん、そしてしまちゃんのお子様 ちびまうすズと合流した。
今日のお目当てはアルネで開催される作州ふるさと交流物産展「とくとく市」
私は、以前より津山名物「ホルモンうどん」を食べてみたかったのだ。初ホルモンうどんはここで食べることになった。いつも史跡めぐりでお世話になっている ゆぅさんとも偶然に合流でき、みんなでテーブルを囲んで楽しいお昼ごはんとなった。
 ホルモンうどんは、野菜とホルモンとうどんを焼いて焼き肉のタレで味付けしたもの。ホルモンをクッチャクッチャ言わせながら食べるのが美味しい。

 食後はアルネで開催されていた県北書作展(森家とは関係なし)を覗いた。この後には、津山リージョンセンター「津山市文化財調査報告会」があるので、みんなでそこに行く予定だ。
 その前にそろそろ繭さんが津山に到着する時間。しまちゃんとはいったん別れ、ハナちゃんと一緒に津山駅へ繭さんをお迎えに行く。
「(お昼ごはんに)どこかオススメがあれば教えていただきたいです(+キラキラ絵文字)。」と楽しみにしていた繭さんに物産展で買った”おこわ”と”アップルパイ”を車内で渡して「これ食べて。」と強制。しかも、「時間ないんで、今、食べて。」
 日帰り予定の繭さんのために、ハナちゃんが急きょ津山城跡へ車を走らせてくれる。急いで津山城跡に登って、天守台跡のベンチで繭さんが”おこわ”を完食するのを待つ。
「食べ終わりました!」
の一声で、また急いで津山城跡を下って観光センターで土産を買ってから、いよいよリージョンセンターへ。
・・・のはずが、私の要望で「美作百味菓匠館 大文字」に寄ってもらう。

美作百味菓匠館 大文字
いちご大福がものすごく美味しかった。
桃のお菓子はなかった。

 今朝、仕入れた情報によれば、京都の豪商だった大文字屋から暖簾分けした「ニ文字屋」というお店が森忠政時代より津山にあるらしく、現在はこのニ文字屋さんが「大文字」に屋号を変更して和菓子屋さんをなさってるのだ。
 京都にあった本家本元の大文字屋には、森長可も忠政もお世話になっていた。森長可は「さはひめ」の茶壷を購入するのに大文字屋にお金を用立ててもらっているし、忠政はこの大文字屋で桃を食べて苦しみ始めて亡くなっている。
 私達には時間もないのでお店に入るなり真っ先に早口で店の由来を尋ね、ニ文字屋だった時代に津山で開催した興行の様子を描いた版画(当時は呉服を扱っていた)を見せていただき、お礼を述べて慌ただしく出てゆく。

 大文字で買い求めし、いちご大福を食べながらリージョンセンターへ急ぐ。
会場に行くなり受付で「うききさん、昨日、津山城に登って発掘現場に入ったらしいですね。」と半ば確信を持って言われる。
Σ(゜□゜;話してないのに、バレてるし!!!!
ま、まさか、天守台の麓に転がっていたが無くなっていることまで気づかれてしまったのだろうか!! 

本日の調査報告会内容
講演1「近年の津山市指定文化財(彫刻)の修復事例について」岡山県立美術館 中田利枝子先生
講演2「豊臣秀吉の築城遺跡“韓国の倭城”」大阪市文化財協会 黒田慶一先生

 【講演1】では、愛染寺の仁王像と、本源寺の森忠政公像や森家御霊屋天井の龍の絵を修復した詳細をスライドショーとともに解説してもらえた。
【忠政公像についての主な修復点】
・彩色は接着力が弱い膠(にかわ)接着だったせいで取れそうな状態だったので、膠と漆で修復した。
・畳座が無くなっていたので昭和3年の写真を元に製作した。在家の人は畳座に座らせることが多い。
・背面にあったはずの裙(くん)という畳んだ帯部分が無くなっていたので、作製して新しく取り付けた。
落ちこんでいる首も本来の位置にとめ直した。(←超・重要)

 修復されて首ができて頭の高さがあがった森忠政公像はいよいよ威厳に満ち満ちて、美しいご尊顔。

 【講演2】は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に日本軍が韓国に築城したさまざまな倭城の遺構にについての解説。各地にかなりの数の城を建てまくっているので、分布図を見て驚いた。個々の城についても教わったものの、情報が多すぎてここですべてはご紹介できないので、印象深い部分をピックアップ。
・倭城を造ることで、石垣の城を作る技術があがった。
・戦国時代の戦争のやり方:先ずは城を造ることから始まる。
・戦国時代の鉄砲狭間(鉄砲を撃つために壁に穿たれた穴)は蜂の巣状に穴があけられていた。
・備前のすり鉢をたくさん持って行っている。
・朝鮮から持ち帰った朝鮮の瓦が月山富田城(島根県)にもたくさんある。

 余談ながら、秀吉の朝鮮出兵に関しては、森忠政は肥前名護屋城に在番して朝鮮には渡海していないものの、この時期森家を去って豊臣秀吉の黄母衣衆となっていた叔父さんの森可政(のちに津山で家老になる)は渡海している。
 私はこの後、黒田慶一先生を囲む会(勝手に命名)に参加するので、しまちゃん母子に繭さんをお預けしてお別れした。繭さんはごく数時間の津山滞在(笑)だったけれど、彼女も私と同じく、森忠政の魅力と津山の人々の優しさに心打たれ津山をより深く愛してしまったことだろう。
 

 会場でお会いした ゆっきいさんにについて確認すると
「これは”碍子(がいし)”じゃろ。」
「何ですか、ソレ?」

がいし 1 【▼碍子】
電線など、導体をその支持物から絶縁するために用いる絶縁体。
硬質磁器や合成樹脂などで作る。

 電柱についてる物らしい!津山城遺物ではない!ましてや森忠政のグレープフルーツ絞り器でもなく、むしろ異物!!オーパーツ!!Σ(゜□゜;
…津山城にも昔は電線が走ってたそうです。


 囲む会では、美味しいスキヤキ風の鍋料理を味わいつつ、黒田先生やみなさんから倭城の話や津山の史跡の発掘状況やお酒の造り方や碍子(がいし)の詳しい話を伺うことができた。現在は津山城跡も発掘しているし、忠政が入国時に入城していた構城も発掘しているし、今後の情報に大いに期待♪他にお二人の女性もいて、一緒に色々なお酒を楽しんだ。たしなむ、程度に。

■ 12月21日(日) 追い回し河原で追い立てられる。

 今日は津山最終日。切なくて夜も眠れず、買ったお菓子を撮影して朝を迎えた。
やはり早朝から城下に飛び出す。
城の西方面を歩く。森忠政が美濃から伴ってきた職人の住む町だった美濃町!鍛冶のいた鍛冶町!武家屋敷のあった田町!小姓のいた小性町
美濃町界隈
早朝の静けさ。
  ケンコウ牛乳
地元業者?!イラストはキンタロウ
さんかな?

 吉井川の河川敷に降りて、川沿いに津山城方面に戻る。早朝だけど、早歩きで散歩する人が結構いた。

今津屋橋の下の津山城アート


 津山城の南を流れる吉井川と東を流れる宮川の合流点にたどり着く。
これもまた博物館で教わったけど、ここは追い回し河原といって、昔はもっと広い敷地で、馬場だったらしい。

追い回し河原
馬場跡。

 この空間をできるだけわかり易く撮影しようと川と川の合流地点の端ギリギリまで下がっていると、シャカシャカという音が近づいてくる。デジカメから顔を離すと、上下にウインドブレーカーを着たおばちゃんが機械的な動きでまっすぐ私に向かってくる。止まってくれる様子がないので思わず逃げた。おばちゃんは先ほどまで私がいた場所にトンと足を踏み込んでクルッとUターンして、またシャカシャカとまっすぐに去って行った。津山には不思議がいっぱい!(・・;)
 「この河川敷から宮川のほうにも歩いていけるのかなぁ…。」と、宮川方面に降りてゆくと、ギリギリ人が一人通れそうな暗がりからいきなり別のウインドブレーカーおばちゃんが出現!!めちゃめちゃ驚いた。
私はどうやら朝の散歩人たちの邪魔になるので退散!
津山城方面に戻ろう。河川敷を登って宮川にかかる橋を渡っていくと、東大番所跡があった。

東大番所跡 
出雲街道の東西二ケ所の入口ににおかれた番
所の東のほう。番兵が常駐していた。

 いったんホテルに戻って靴を脱ぐと、足から血が出てストッキングが赤く染まっている。床にも血痕。
「ナンジャコラァアアアア!!!」Σ(゜□゜;
足が冷たくてどこから出血しているかも感覚が無く、「ま、いっか。」と足を洗って再び外出。
 

 また津山城跡に登った。発掘なさってる方に最新情報を含む色々なお話を伺うことができた。

切手門跡
 この石段の下には初期の頃のスロープ
状の石段が埋まっている模様。
多門櫓の雨落溝
このU字の溝石は加工のしやすい豊島(てしま)
石でサイズも岡山城と同じ規格とのこと。
既製品を購入したということか…。
長櫓石垣の端の下方
ちょうど発掘中で、土の中の石垣の様子も判っ
た。土に隠れていた石垣部分はラインをきれい
にする仕事をしていなかったらしく荒い。
  隠し部屋?!
外から梯子をかけて出入りした隠し部屋チック
な場所。(三角形部分)

 お昼にはハナちゃんとしまちゃんとお昼ごはん。ハナちゃんを見つけて駆け寄ったら、足がブリブリッと音を立てた。Σ(゜□゜;ス、ストッキングの足先に穴があいた!!!

 お店に着くとハナちゃんとしまちゃんがお土産をくれた。ただでさえお世話になる一方なのに…(;_;)。いただいたのは、市販のカレー粉一生分と、ホルモンうどんに使うとよい焼き肉のタレと、二代目の森長継の造った衆楽園にちなむ和菓子「衆楽雅藻」。
 この後は人前で靴をぬぐ予定があるのでストッキングに穴が開いていては(しかも、また血痕つき)一大事と一足先に食事を終えてホテルに走って足に絆創膏を貼り、ストッキングを履き替えた。

 ハナちゃんしまちゃんと別れて、私は古文書を読ませていただくために人様のお宅にお邪魔する。玄関で恐る恐る靴を脱ぐと、足の出血問題無し!ストッキング問題無し!よかった!!
 JR津山駅の出発時間ギリギリまでもお邪魔して森家の話で盛り上がり、車で駅まで送っていただく。
 一人に戻って急に寂しい気持ちに襲われつつ、いざキャリーバッグを抱えあげて岡山行きの4番ホームまで行こうとすると、自分への土産(お酒とか森家資料とかカレー粉とか)で、ありえないほど異様にキャリーバッグが重くなっているのにビックリ!!!そもそもキャリーバッグそのものが荷物でパンパンになって丸く変形してんじゃないカッ!!!
Σ(゜□゜;
フンガー!!!と荷物を抱えて、階段を上り下り。すでにホームに停車していた列車に乗り込む。

 ああ、今回も朝から夜まで本当に楽しいことこの上ない旅だった。素敵な出会いもいっぱいあったし、すべては私の一生の宝。
津山のみなさま、どうもお世話になりました。繭さんもありがとう。