父が信長とともに見た夢★紀行
2008年9月20日 in 滋賀→京都→大阪→兵庫
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曼珠沙華とサギが並んで美しかったので シャッターチャンスと喜ぶと、 トンと溝に沈むサギ。 |
■ 曼珠沙華の色は赤く濃く |
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今日は、森蘭丸の父・森三左衛門可成のご命日だ。心配していた台風も逸れて青い空。そんな日に、父のゆかりの地を旅できることは幸いである。 京都駅から湖西線に乗って滋賀県に入る。可成が最後に守った宇佐山城のあった山を車窓から眺めると、麓の田園風景には真っ赤な曼珠沙華。なんだか心惹かれてしまう。 比叡山坂本駅で下車。まずは、可成の眠る聖衆来迎寺へお墓参りだ。そんな、道すがらの田んぼの畦にも曼珠沙華が咲く。これでもかといわんばかりの鮮やかな赤が並ぶ。それでも、可成の胸を開けばその血の色は更に赤きものを。
坂本城の城門だった山門をくぐって来迎寺の境内に入り、森可成の墓所に至る。
比叡辻にあるセブン●レブン大津坂本店で栄養ドリンコを飲んで蚊に血を吸いあげられたハンデを取り戻す。再びJRに乗り、山科駅で東海道本線に乗り換えて京都の長岡京駅にて下車。 この地は、今はタケノコと細川ガラシャが有名なようで、長岡京駅の前にはタケノコの石像が生えており、タケノコが示す矢印に従えば、勝龍寺城跡へ続くガラシャ通りがあった。
民家の連なりを歩いていると、突然に勝龍寺城跡が登場する。現在は、櫓などが建てられてそれなりに城跡へやって来た感がある。
意気揚揚と城内に入ってみると、世界は細川メインになっていて、設置された銅像も細川忠興&ガラシャのラブラブカップルの像であり、湧き出る地下水は「ガラシャおもかげの水(飲用可)」と命名されて、池には鯉が泳いでいる。私から言わせてもらえば、岩成友通と森可成の敵カップル銅像ではいかんのか、「友通おもかげの髭剃り水(飲用可)」じゃいかんのか。池にはポニョが泳いでいてはダメなのか? その後は近所にある勝龍寺にお参り。織田信長関係の何かがあるかなとお参りしたけど、気づいたのは大坂の陣で釣鐘を持っていかれた話くらいだった。再びガラシャ通りに沿って駅に戻ってJRに乗る。阪急電車に乗り換えて、向かうは池田駅。 |
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■ 森可成と 村重しゃくれアゴの謎。 | ||||||||||||||||||||
池田駅では、前回の旅行でも現地案内でお世話になった繭さま[URL]と合流した。 再会して早速ではあるが、池田駅の近くには何故か荒木村重(有岡城謀叛人)の墓と伝わる祠があるらしいので、アバウトな地図を片手に捜してみる。すんなり見つからないのでだんだんムキになって住宅の壁と壁の間のスキマまで捜す。地図から予測できる場所を全部回ったのに墓を見つける事ができなかった。私達はアラーキに会いに来た訳ではないので、墓は後回しにして第一目標物である池田城跡に向かう事にした。遠くには信長が中腹に陣を置いたと伝わる五月山が綺麗。山にはウォンバット(動物)もいるらしい。 『信長公記』をひもとけば織田信長は森家の人物を伴って池田の地に何度か来ている。 1、永録11年、信長は勝龍寺城を落した後、池田城を落としに来ている。森可成も行動をともにしていた模様。城主の池田勝正が徹底抗戦の構えを見せたので激戦になったが、信長が町を焼いたら勝正は超・やる気を無くして降伏してきた。 2、天正6(1578)年、荒木村重が信長に反逆の意志を見せると、信長も有岡城攻めに出陣(森長可も出陣して城攻め)する。時を重ねて三木城も反逆(長可はこちらも攻めた)。信長自身は廃城になっていた池田城跡を工事して本陣を置いた模様。本陣はそのままにしておき、正月に信長自身は一旦安土に帰省。やっぱ戦国でも正月には帰省するものなのか。そして信長、翌7年にまた池田の本陣に戻ってくる。森蘭丸も信長に同行した模様。そして信長はこの池田を拠点に鷹狩りにでかけたり、箕面の滝見学に出かけたり、また鷹狩りに出かけてみる。時には馬廻り衆や小姓たちと一緒に「御狂」というスポーツに興じる。「御狂」でスカッとしたら、また鷹狩りに出る。
この荒木村重画像はだいぶ後世の錦絵ながら、書籍でよく見かけるのでおなじみのものである。私は常々、この人のしゃくれアゴが気になっていた。どういうことなんだ、梅さんなのか、頭がい骨はどういうことになっているのだ、と。そのうえ更にケツアゴラインが入っているのも気になっていた。こんだけ強調するからには、史実でもすんごいアゴだったのかと思っていた。
池田城跡をあとにして、五月山に登る。いや、ただ池田氏の菩提寺であった大広寺にお参りしようとしたところが、そこは五月山の麓にあるのだった。 池田駅から、阪神電車に乗って夙川駅に向かう。夙川は「しゅくがわ」と読み、兵庫県の名だたるセレブタウン・芦屋にも近い街。夙川駅から越水城跡をめざすが、やっぱり高地にあった。城跡めざして登ってゆく坂道には高級住宅が連なる。500年以上も前からここはセレブの居住地だったのだ。
越水城跡は今は小学校になっている。この城は『森家先代実録』なんかには「小清水城」と表記されている。かつては三好長慶が居城としたこともある城だ。永録11年に信長が森可成らを引き連れてこの城を襲いに来た時は、篠原長房が立て籠っていたものの、逃げ出したようだ。 日没を迎え、夙川駅近くの繭さんセレクトのお店で夕食を楽しんだ。森家や歴史の話をたくさんする。繭さんも、とっても情熱的な女性で、びっくりするくらい色々な史跡に積極的に出かけている。その元気を分けてもらえて、私ももっと頑張ろうと思う。 |