信長とともに見た紀行
                      

                                                     2008年9月20日 in 滋賀→京都→大阪→兵庫 

曼珠沙華とサギが並んで美しかったので
シャッターチャンスと喜ぶと、
トンと溝に沈むサギ。

■ 曼珠沙華の色は赤く濃く

 今日は、森蘭丸の父・森三左衛門可成のご命日だ。心配していた台風も逸れて青い空。そんな日に、父のゆかりの地を旅できることは幸いである。
 京都駅から湖西線に乗って滋賀県に入る。可成が最後に守った宇佐山城のあった山を車窓から眺めると、麓の田園風景には真っ赤な曼珠沙華。なんだか心惹かれてしまう。

 比叡山坂本駅で下車。まずは、可成の眠る聖衆来迎寺へお墓参りだ。そんな、道すがらの田んぼの畦にも曼珠沙華が咲く。これでもかといわんばかりの鮮やかな赤が並ぶ。それでも、可成の胸を開けばその血の色は更に赤きものを。


 しかし、一見、のどかに見えて、実は歩道は狭苦しく、ガードレールのない横スレスレを車がスピードをあげて走ってゆく。車に跳ねられて肥料にならないように用心しながら歩いてゆく。間もなくして比叡辻に至る。父はこの地で生涯を終えた。
 頃は元亀元年(1570)9月。打倒信長のために決起した浅井・朝倉・石山本願寺の連合軍は3万近くに膨れあがり、しかも比叡山のバックアップを受けながら織田信長のいる大坂に向かって南下を始めた。
それを数千の兵で止めようとしたのが、宇佐山城を守っていた森可成だった。その兵を更に割って、宇佐山城籠城組と迎撃軍に分けて、自らは山を降りて、3万の兵の前に立ちはだかった。
 その時は、桶狭間のような奇跡は起きなかった。
森可成は敵兵の鯨波の中で壮絶な最期を遂げる。かの地には今、ヤマト車検の宇宙の看板なぞも堂々たる風情で建っており、父の信長への赤心の思いは、宇宙へまで昇華し、イスカンダルをも貫く。
 
 比叡辻にあった可成の亡骸を弔ってあげたのが、天台宗の寺院・聖衆来迎寺だった。ご存じのとおり、後に信長は比叡山に報復を果たすが、この寺は森可成の墓があったお陰で焼き打ちの難を逃れたという。

 坂本城の城門だった山門をくぐって来迎寺の境内に入り、森可成の墓所に至る。
命日にお墓参りできた事に感謝。そして私は色々な想いに耽って墓の傍にいるうちに、ヤブ蚊に何箇所も刺されまくって、気持ち悪い肌になる。それでも、「私の血がいつまでも父の墓まわりを飛びまわるならOK。」と前向きな気持ちになってしまう。父のご命日の日付の入ったご朱印を頂戴して、来迎寺をあとにする。

聖衆来迎寺の森可成の墓
森蘭丸の父という肩書つきの大変立派な
お墓。
聖衆来迎寺の山門
明智光秀の坂本城の城門をここに移したと
いう。
*ご朱印*
聖衆来迎寺の寿寿の方の墓
彼女は塩川国満の娘と言われる。
織田信忠の側室で秀信を生んだ。
可成よりもかなり小さい。
 

  比叡辻にあるセブン●レブン大津坂本店で栄養ドリンコを飲んで蚊に血を吸いあげられたハンデを取り戻す。再びJRに乗り、山科駅で東海道本線に乗り換えて京都の長岡京駅にて下車。

 この地は、今はタケノコと細川ガラシャが有名なようで、長岡京駅の前にはタケノコの石像が生えており、タケノコが示す矢印に従えば、勝龍寺城跡へ続くガラシャ通りがあった。

タケノコ・ポン!! 墓石ポン!!

 民家の連なりを歩いていると、突然に勝龍寺城跡が登場する。現在は、櫓などが建てられてそれなりに城跡へやって来た感がある。
 この勝龍寺城は細川家(藤孝・忠興)の居城だった事のほうが有名だし、光秀の娘ガラシャもこの城に嫁いできてるし、本能寺の変をしでかして山崎の合戦で猿に敗れた明智光秀はこの城へ撤退しているし…一般的にはそのほうが有名なのかもしれない。
 しかし私にとってはあくまでも森可成がメインである。細川家がこの城を織田信長から拝領する前は、三好三人衆の一人・岩成友通がこの城を横領していて、そこを永録11(1568)年に織田信長が森可成や柴田勝家に攻め込ませたのである。だから私もここへ来た。

          三好三人衆の信長迎撃布陣

山城国勝龍寺城(岩成友通)、木津城(三好政康)
摂津国:芥川城(細川昭元・三好長逸)、池田城(池田勝正)、越水城(篠原長房)
大和国:多聞山城(松永久秀)
河内国:津田城(三好義継)、高屋城(三好康長)

赤文字は今回の旅行で訪問する城


勝龍寺城跡
城内にも遺構がいくつか残っている。
細川藤孝が織田信長にこの城をもらって大改修
したが、平成に入って更に大改修された。
勝龍寺城・北門跡
明智光秀は、この門から勝龍寺城を撤退した
という。居城の坂本城を目指したが、途中で土
民に殺された。

 意気揚揚と城内に入ってみると、世界は細川メインになっていて、設置された銅像も細川忠興&ガラシャのラブラブカップルの像であり、湧き出る地下水は「ガラシャおもかげの水(飲用可)」と命名されて、池には鯉が泳いでいる。私から言わせてもらえば、岩成友通と森可成の敵カップル銅像ではいかんのか、「友通おもかげの髭剃り水(飲用可)」じゃいかんのか。池にはポニョが泳いでいてはダメなのか?
 再建物のひとつである隅櫓にはなぜか中学生らしき男の子が一人で縦笛の練習をしているので、櫓に行きたくても近寄りがたい。先に資料館(?)を見てから隅櫓を含む城内を散策することにした。資料館に入ると、城跡からの発掘品や解説パネルが展示してあり、さらに石垣から出て来たという墓石も展示してあって「城の石垣に墓石を使っていたのは織田信長だけじゃなかった事がわかります、ほら。当時の築城者にとっては墓石活用は当たり前のことだったのかもしれませんね。」みたいな感じの解説がついていたけど、むしろその発掘された墓石(展示品)に一円玉を乗せまくり、墓石の割れ目に一円玉をさしてみる現代人の行動に注目したい。

 その後は近所にある勝龍寺にお参り。織田信長関係の何かがあるかなとお参りしたけど、気づいたのは大坂の陣で釣鐘を持っていかれた話くらいだった。再びガラシャ通りに沿って駅に戻ってJRに乗る。阪急電車に乗り換えて、向かうは池田駅

■ 森可成と 村重しゃくれアゴの謎。

 池田駅では、前回の旅行でも現地案内でお世話になった繭さま[URL]と合流した。

 再会して早速ではあるが、池田駅の近くには何故か荒木村重(有岡城謀叛人)の墓と伝わる祠があるらしいので、アバウトな地図を片手に捜してみる。すんなり見つからないのでだんだんムキになって住宅の壁と壁の間のスキマまで捜す。地図から予測できる場所を全部回ったのに墓を見つける事ができなかった。私達はアラーキに会いに来た訳ではないので、墓は後回しにして第一目標物である池田城跡に向かう事にした。遠くには信長が中腹に陣を置いたと伝わる五月山が綺麗。山にはウォンバット(動物)もいるらしい。

『信長公記』をひもとけば織田信長は森家の人物を伴って池田の地に何度か来ている。

1、永録11年、信長は勝龍寺城を落した後、池田城を落としに来ている。森可成も行動をともにしていた模様。城主の池田勝正が徹底抗戦の構えを見せたので激戦になったが、信長が町を焼いたら勝正は超・やる気を無くして降伏してきた。
 その後、池田勝正は信長の家臣として頑張るが、弟や家臣の荒木村重にクーデターを起こされて池田の地を追われ、そのうち歴史舞台から消えた。

2、天正6(1578)年、荒木村重が信長に反逆の意志を見せると、信長も有岡城攻めに出陣(森長可も出陣して城攻め)する。時を重ねて三木城も反逆(長可はこちらも攻めた)。信長自身は廃城になっていた池田城跡を工事して本陣を置いた模様。本陣はそのままにしておき、正月に信長自身は一旦安土に帰省。やっぱ戦国でも正月には帰省するものなのか。そして信長、翌7年にまた池田の本陣に戻ってくる。森蘭丸も信長に同行した模様。そして信長はこの池田を拠点に鷹狩りにでかけたり、箕面の滝見学に出かけたり、また鷹狩りに出かけてみる。時には馬廻り衆や小姓たちと一緒に「御狂」というスポーツに興じる。「御狂」でスカッとしたら、また鷹狩りに出る。
 かくして信長は、実に元気よく遊んでいたようだ。余裕だ。でも、戦いに明け暮れた人生、そういう日があってもいいよね。森蘭丸も「御狂」に参加したのかな。
 そして森蘭丸が多田の塩川伯耆守へのお使いを言われて『信長公記』に初めてその名を記されたのもこの年のこと。

 それを踏まえて池田城跡に行く。高台にあるので坂道を登って行った。まずは、敷地内にある勤労者センターで池田城の復元ジオラマや発掘品や解説バネルを見る。
 そこで、私は、荒木村重に関して恐るべき勘違いをし続けていたことに気づく。

荒木村重
『太平記英勇伝』の錦絵に描かれた村重。
反逆のくりかえし人生。

 この荒木村重画像はだいぶ後世の錦絵ながら、書籍でよく見かけるのでおなじみのものである。私は常々、この人のしゃくれアゴが気になっていた。どういうことなんだ、梅さんなのか、頭がい骨はどういうことになっているのだ、と。そのうえ更にケツアゴラインが入っているのも気になっていた。こんだけ強調するからには、史実でもすんごいアゴだったのかと思っていた。
 まぁ、村重のアゴがどんなにしゃくれていようが、さらにそこにケツアゴラインが走っていようが、切断覚悟で指をさしこみたくなる森長可のケツアゴの魅力には叶うまい。荒木村重のケツアゴなんて、黒ひげ危機一髪の短刀を差しこむと、両耳の穴から更に小さい荒木村重が飛び出す程度の造りであるものと見える。

 しかし、「しゃくれアゴ」ではなかったのだ。この絵の荒木村重は「信長が刀にまんじゅうを突き刺して荒木村重に差し出してきたので、忠誠心を示すためにクチでまんじゅうを受けとってハムハムいたすの図」であったのだ。村重画像のパネル解説を見て初めてそれを知る。
 私は村重のアゴと思って生きてきた物が、実はアゴではなく、まんじゅうだったのだ。ケツアゴと思いしラインは、信長が刺した刀の跡だったのだ。何ということ!!!!目から鱗。
村重、ごめぇえええええんん!!!Σ(゜□゜;
村重、なんてすばらしい忠誠心のカタマリなのだ。
でも、信長に「はい、あ〜んして(刀)。」と、お菓子を食べさせてもらえたなんて、羨ましいことである。

 勤労者センターで信長池田城攻めの図録『町を放火候なり』などを買った時に、スタッフに「池田駅の近くの荒木村重の墓を探しているんですけど場所がわかりませんでした。」と相談すると、スタッフの女性は「フフフフフ」と、含みのあるスマイルをなさる。
「池田駅の傍にはもうないんですよ。歴史民俗資料館に移動しました。」
な、なんと!まんじゅうハムハム・アラーキーの墓(祠)は今や、歴史民俗資料館に引っ越し!!!Σ(゜□゜;

池田城跡
 現在・池田城址公園になっている。
画像の建造物は、城風味にした展望休憩舎。
池田城の礎石跡
何の礎石かよく判らないけど、とにかく礎石。
この広場でアイスクリンを食す。
池田城跡から眺める五月山
 池田城を攻めた時に信長があの山の中腹に
陣を敷いたという。
池田城の地層断面(勤労者センター内)
画像の中央あたりが、永禄永録11(1568)年
信長の攻撃時の地層と推定される。
池田城復元ジオラマ(勤労者センター内)
昔の城といえば、こんな感じが普通。
天守閣なんてない。
大広寺の池田氏墓
池田知正(勝正弟)と知正の養子・
三九郎の墓。
(一番左が三九朗墓・ひとつ置いて右が知正墓。)

 池田城跡をあとにして、五月山に登る。いや、ただ池田氏の菩提寺であった大広寺にお参りしようとしたところが、そこは五月山の麓にあるのだった。
 大広寺も寺々の奥の奥に建っていて、何度か「着いた。あ、違う。」とぬか喜びしつつ入って行った。境内に入ると、山中ゆえ墓地は高い場所まで段々に並んでいる。「すごい、あんな高いところにまで墓がある。」と上を見上げた。しかし、肝心の池田氏の墓がわからない。古い墓も多くてわからないのだ。こういうこともあろうかと墓写真つき資料を持参していたけど、なくなってしまった。墓地にしゃがみこんで本格的にリュックの中をひっかきまわしても資料は見つからない。傍では、ヤブ蚊に攻撃を受ける繭さんが俊敏な動きをしている。
 やっぱり資料を紛失したようなので、素直にお寺の方に池田氏の墓を訪ねた。池田氏の墓は一番高地にあり、行ってみるとゴージャスに看板つきであった。さっき「あんな高いところにまで墓がある。」と言ってた敷地がそうだった。説明看板の前には古い墓が五基ほど並んでいたが、説明看板によると、池田氏の墓は二基しかないとのこと。どれだ。お好みで自由に選んでいいのか?説明看板は「東側の墓は…」「ひとつはさんで西側は…」と墓を説明するので、東西南北のわからぬ私達にはどれがどれだかよく判らない(涙)。「きっと、これよね。」と推測でお参りする。池田氏の菩提寺の瓦には揚羽蝶。森家と密接な関係にあった池田恒興の池田家と同じ揚羽蝶紋らしいけど、両池田家は血縁関係があるのだろうか?

 池田駅から、阪神電車に乗って夙川駅に向かう。夙川は「しゅくがわ」と読み、兵庫県の名だたるセレブタウン・芦屋にも近い街。夙川駅から越水城跡をめざすが、やっぱり高地にあった。城跡めざして登ってゆく坂道には高級住宅が連なる。500年以上も前からここはセレブの居住地だったのだ。

阪急電車・甲陽線
 線路内に入り阪急電車を真正面から
撮影してみる。脱線事故で運休してた
ので撮影可能だった。
越水城跡
永正3(1516)年に瓦林正頼氏(名字読めぬ)が
築城したことに始まり、織田信長より攻められた
後、さりげなく廃城。

 越水城跡は今は小学校になっている。この城は『森家先代実録』なんかには「小清水城」と表記されている。かつては三好長慶が居城としたこともある城だ。永録11年に信長が森可成らを引き連れてこの城を襲いに来た時は、篠原長房が立て籠っていたものの、逃げ出したようだ。
 さて、そんな城跡は、小学校になっていた。一角に、石碑と説明があるだけだ。私は、はるばる福岡から、この石と銅板を見にきたのか。
 野球クラブっぽい児童たちがいる中で、撮影開始。説明には城の歴史が一通り書かれ「11年に織田信長の上洛により、越水城の戦略的価値が消えました。」とあっさり見捨てつつも、さりげなく小学校の歴史説明が続き、「最早越水城は遠い思い出ですが、戦国の世以来こんこんと清水が湧き、城や地名のもととなった3ヶ所の泉こそ越水城を語り継ぐ証人として大切に保護したいものです。」と、微妙にロマンチックに締められていた。結局、越水城が好きな人は、水を大切にすればいいということなのだろうか。3ヶ所の泉の場所は軍事機密なのか、書いてくれてなかった。それから繭さんと一緒に、小学校の外周を一周。

 (今日のまとめ):信長が上洛を果たし、天下を制圧するまでの重要な道のりを、いかに森可成は支えたことか。
信長は、天下を掌握した暁には、一番苦しい時期を乗り越えてきた可成と一緒に喜びを分かち合いたかったに違いない。
しかし、可成は信長の一番苦しい時に彼のために世を去り、また信長の天下布武の夢も中途にして潰えた。可成の遺児を道連れにして。

 日没を迎え、夙川駅近くの繭さんセレクトのお店で夕食を楽しんだ。森家や歴史の話をたくさんする。繭さんも、とっても情熱的な女性で、びっくりするくらい色々な史跡に積極的に出かけている。その元気を分けてもらえて、私ももっと頑張ろうと思う。


 こうして森可成のご命日は、充実した日で終わった。こうして森家に没頭し、そして遠慮なしに森家の話ができるのは本当に幸せなことだ。