君とすきな人が百年続きますように〜♪(ハナミズキ/一青窈)
リニモのはなみずき通り駅を下車すれば、目の前に常照寺がある。
森長可公生誕450年の今年、長久手合戦ゆかりの地に立ち寄らずに兼山に行く事は到底不可能な事だった。
常照寺の入り口には「三将之墓所」と書かれた立派な石がある。でも、境内の裏手にその三将之墓所の実物を見に行くと、小さなケシゴムのような五輪塔。その墓の並びを示す板看板も真ん中でバキッと折れてしまっているので、真ん中と左側が誰の墓なのかを推測しなければならないコナンワールド。
これらの墓は豊臣方について命を落とした池田元助・森長可・池田恒興の3名の供養墓。板が割れる以前から通っていた甲斐があった。雨がそぼ降る中、手を合わせる。
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三将之墓所(池田元助・森長可・池田恒興)
小さな墓石な上に、名前の書かれた板が割れて
いる(左側)…。 |
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常照寺
三将之墓所の立派な石碑。 |
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次は、リニモ長久手古戦場駅にて下車。池田元助(長可の義理の兄弟)の庄九郎塚にお参りして、そのまま緩やかな坂道をかけ登って森長可の戦地である武蔵塚に急ぐ。別に急ぐ必要はないのだけど、ドラマなんかで見るように、ついに再会を果たした愛しい人にかけよってしまうシーン開催中。ただし、ここでは恋しさに突進したところで台形コンクリに全身を打ちつけるだけである(やってないよ)。
冷静に考えれば四角い台形コンクリに棒が刺さった不思議な形状の武蔵塚。池田家のように子孫が明治に建てた石碑を真ん中に持ってくることはせず、コンクリを盛って対応する不思議。
本日の武蔵塚は、上には桜の若葉、下にはオオバコに囲まれ、空中にはアタマムシ(集団で飛来するちっこい虫)が飛びまくり、初夏の彩りを帯びている。また、ここに来る事ができた。
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武蔵塚
緑まぶしき季節。
この棒は、尾張藩士が建てたもの。
コンクリ固めは誰がやったのか…。 |
さぁ逃げろ!森軍レリーフ
悲劇の主人公・森長可が撃たれたレリーフは
作ってくれてない罠。 |
そこから歩いて烏(カラス)ケ狭間という場所を探す。
長可と同じく豊臣方についていた堀秀政隊が死に物狂いで踏ん張っていた場所だ。そして、森長可の軍がいた場所についても「長可君は烏ケ狭間の巽(たつみ)に当たりて小山有るに、二町程引退き備えを段々に立て給ひ(『森家先代実録』を判り易く書き下し)」と表記されている。武蔵塚からそう遠くもない…。そして先ほどの庄九郎塚も、もともとは烏ケ狭間に建てられていたのを区画整理で現在地に移動させられている。
烏ケ狭間だったっぽい場所は、武蔵塚から信号渡ってすぐだった。住所は「鴉ケ廻間」となっていた。なぜ、時代を変遷すると、「烏」という字が「鴉」というかっこいい字になるのか。それはともかくこの場所は、戦国時代には沢があったのに今は完全に埋め立てられて工場になっていていた。ぐるりと歩いてみたものの、もはや昔々の面影は無し。壊滅寸前の堀Qが采配を振るって味方の兵を励ました事もマボロシのよう。
そこから更に足を延ばせば鐙掛けの松に、血の池公園や長久手城跡など、古戦場ゆかりの場所がある。血の池公園の手前でミニチュア交通ワールドが出現して困惑させられるけど(訪問した人だけがわかる)。
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血の池公園
合戦後、兵士らがここにあった池で鑓や刀を
洗って血で染めた公園。池はもうない。 |
鐙掛けの松
池で洗いものをする時に鐙をかけておいたという
松があった。
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長久手城(加藤さんのお宅)跡
徳川方に味方した加藤景常の城。
『尾張名所図会』では「加藤氏宅趾」と書かれて
いるので当時の規模があっさりと偲ばれる。 |
そこらを散策してから、「耳塚」に初挑戦!香流川を渡り、耳塚を探す。地図を見れば消防署の近くだ。長久手の合戦の時、敵の首のかわりに「耳」を切り落として印としたらしく、それを埋葬したのが「耳塚」と伝わっている(と、本で読んだ)。で、今はなぜかそんな塚が「耳の病に効く」ということになっている。
けれど、長久手の合戦の所以で「耳塚」と言われてもピンとこない。
長久手の合戦の折は、徳川家康は敵の「首」は打ち捨てにさせ、(「耳」ではなく)「鼻」を削いでそれを敵を討ち取った証にさせた。この合戦、徳川軍としても敵の首を取ってる余裕が無いほど追い詰められた状況だったらしい。
で、長可も本多八蔵という男(長可と気づいていない)に鼻を削がれてしまった事が書かれていたりする…(涙)。イケメン(当社比)に対しても容赦無い時代である。だから、「鼻塚」ならまだしも「耳」を印とした「耳塚」、という話は聴かない。でも、行ってみる。
細い路地に入りこんだとたん、民家の生垣にドッキングしていた「耳塚」と書いた石を見つけ、「おおっ!」と、熱心にデジカメ撮影しまくった。もしも、これが本当は「鼻塚」であって、いつしか「耳塚」と誤って伝わっていたりすれば、ここに長可の鼻も入っているかも…などと考えつつ、手も合わせた。しかしこの後、郷土資料館でもらったパンフにより、本物の耳塚は、ここよりもっと奥にあることを知ることとなる。私が撮影した石はダミーであり、「影武者」であって、私は恐るべき罠にはめられたのだった。しかも、パンフの解説によれば、「耳塚は来歴は不明ですが」と書いてある。あれ?!長久手の合戦は関係無し?!読む物によって書かれていることが違う!Σ(゜□゜;
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耳塚と書いてあったので耳塚と思いこみ撮影。
実際の耳塚はもっと塚っぽい形状。
ここまで歩いてきたのに無念なり。 |
愚かな私は本物の「耳塚」を見る事なくしてそのまま折り返し、長久手古戦場公園を目指して歩く。途中、浅井屋製菓さんに寄って「古戦場もなか」をゲット。店内にあった長久手産の長久手茶というのも大地の色々な物を吸収してそうで買いたくなったけど、とりあえず、今回は”もなか”だけ。
そして長可の岳父の討死した場所勝入塚に向かう。今は塚の石が見えなくなるほどに青々とした紅葉がのびざかり。
最後に郷土資料館に寄ったけど、『長久手町史 本文編』が目につく。こともあろうか5つのパターンの長久手合戦図屏風の縮図がオマケについており、ガマンできずに「これください。」と購入してしまった。本体は768ページ。かなりどっしりとして分厚くで、でかい。そして資料館の人に「袋がないなぁ。悪いね。」と言われて『長久手町史本文編』を胸に抱きしめて行動することにあいなった。
一旦、名古屋駅に戻ってコインロッカーの荷物を出してエコバックに長久手町史を入れJR東海道線に乗り、関氏(森家の親戚)ゆかりの一宮を通過し、織田信長がゆかりまくっている岐阜に着く。そして岐阜駅から更に高山線に乗り換えて織田信長が勝山城と改めた猿啄城跡のある山の景色を抜けて、列車は「美濃太田駅」へたどり着く。
どしゃ降りじゃないか。観光協会の方に”太田の渡し”に行きたい事を告げると駅からは徒歩20分とのこと。木曽川沿いに歩く事を奨められた。
かつて江戸の宿場町として栄えた太田を歩く。メインストリートにはかつての江戸の賑わいを思い起こさせるような山羊座の銅像や、蟹座の銅像や乙女座の銅像が並ぶ…って、なぜ十二星座の銅像を作ってんのだ宿場町!!
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太田のメインストリートの「獅子座」像
旧・宿場町で咆哮されても困る。 |
ようやく木曽川沿いまで来た。雨が強くなっても、川辺ではセキレイが遊んでいる。段々と私もびしょ濡れで、中島みゆきの哀しい歌がよく似合う状況になりつつある。歩いて40分かかって、やっと太田の渡し跡にたどり着いたら目の前に巨大な水たまりが立ちはだかる罠。しかも、なぜかと渡し跡の敷地には古生代の化石が並んで化石林公園と化している。化石に、水たまり。今、私の愛が試されている!!!
ズブ濡れ覚悟で、積極的に水たまりに足を踏みこんだ。靴の中がズブズブ。
『森家先代実録』には、何箇所かこの「太田の渡し」が登場する。一番のヒットが”森長可の叔父さんの森可政が、岐阜城に人質になっていた娘を盗み出し、金山に帰るために太田の渡しを渡って、船をぶち壊し、船人をぶった切って帰ってきた。”というものである。もう一つは、森長可が蘭丸らのお葬式をして棺おけを火にかけたら決起して木曽川を渡って肥田玄蕃の米田城に攻めこむのだけど、森軍が木曽川を渡る時にこの太田の渡しが出てくる。そのせいで400年以上の時を越えて水たまりにつっこんでしまった私であるが、実際にこうして太田の渡しに来てみると、兼山から米田に行くのには、あまりにも遠回りな気がしてその記述が間違いと感じはじめた我。それにこの渡し場、果たして戦国時代から創業してたのか。(師匠にも尋ねたところ、森可政が岐阜から帰るのに渡ったのは「前渡の渡し」だったのではという見解で、さらに長可が米田城攻めで渡ったのは今の兼山湊のすこし下方(他の文献ではそうなっている)ではなかったかという見解でした。)エトランジェの私にとっては、実際に太田の渡しに行って見て初めて疑問に思えることだった。
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太田の渡し跡(江戸時代)
ここから船で向こう岸(今渡)に渡していた。 |
太田の渡し(慶応〜昭和初期)
太田橋(画像左の青い橋)が完成して、渡しは
役目を終えた。 |
駅までの帰りの道も雨ザァザァ。折りたたみ傘は役に立たず、濡れそぼって手にする地図もパルプと化した。そして美濃太田駅にたどり着くと、急に雨が止むマジック。可児駅まで出ていくと兼山の師匠が車で迎えにきてくれて、ワゴンに収容してもらう。
この先、兼山直行をやめて可児のホテルに寄ってもらう。靴の中は水が入って沈没寸前。足にドライヤーをかけて、着替えもして、ようやく「生乾き人間」に昇格することができた。
師匠と一緒に兼山歴史民俗資料館を見学。展示内容が色々と変わりつつある。
「これが、兼山での塩の専売特許を認める長可の書状だ。やっとコピーしてもらった。」
でも、私の見るところ、その書状、長可の花押が違う気がする。
「ま、この書状は写しだろうけど、兼山の商人は森家がこの地を去った後の時代でも、この書状を証拠品として藩主につきつけて”我々は過去に長可様からちゃんと塩の専売を許可されてるんだ!”と、藩主に認めさせて、江戸時代も塩を専売し続けた。だから昔は長野あたりでも兼山からしか塩を買えなんだ。」
なのだそうだ。ビバ!長可!ビバ!兼山商人魂!
隣接する生き生きプラザでは蘭丸絵はがき展を観賞した。今年も力作ぞろい♪今年は森長可のイラストが多かった。さすが、生誕450年。(写真を撮るヒマがなかったです。)
明日の蘭丸供養祭でお世話になる方々へのご挨拶をしに行く。「今日は一人なの?」と尋ねられる。誰とも連絡をとってないので他の人たちがどうなってるのか、今どこで何をしているのか全然知らない。
その場でケータイに電話すると愛平さんの元気な声。
去年も兼山でご一緒した愛平さん…既に兼山入りしていてすぐ傍にいた(蘭丸酒を購入中)。
夜、愛平さんと私は師匠ご夫妻に豆腐料理のお店に連れて行ってもらう。車中の会話がはずむ。
うきき:「愛平さん、今日はどこかに行ったの?」
愛平さん:「岩村城跡に登りました。」
車内、みんな「エッッ??!!!Σ(゜◇゜; 」
この大雨の中を日本一標高の高い場所にある岩村城跡へ登るとは恐るべし(やはりズブ濡れ)。木曽川の水たまりにツッこんだ私なんてまだまだ序の口…。
そして、ヘルシーな豆腐料理に舌鼓♪
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古戦場もなか
午前中に長久手で購入。
包み紙ほしさに買う箱入り。 |
ホテルで、前回の高野山ツアーで夕飯をご一緒した繭さん[URL]とロビーで再会。ステキなお茶までいただいた。私はバブ森の香り(しょぼっ!)を2コ進呈。私も部屋に戻ってお風呂にお湯をためていて、「あら、まだ繭さんにお渡しするものがあったのに。」と、どの部屋に泊まっているか電話すると、隣の部屋からケータイ音が響く。
すごい、みんな別々にホテルを予約したのに、愛平さん・私・繭さんと、部屋がみんなお隣り同志だった(そしてみんなバブ森の香りを持っている)。
繭さんに部屋から出てきてもらったら、オートロックがかかってそのまま締めだされていた。私は長久手でゲットした「古戦場もなか×2コ」と森家コピーをささっと渡して自分の部屋に戻る。
すごいな。今宵は、森家ストーカー3部屋続きでお風呂からバブ・森の香りが漂う。
就寝…のはずが、ナイーブな私はどうも眠つけない。座禅してみたけど、臍下丹田に力を入れてみたけど、まるで眠れない。仕方なく夜中に海外ドラマ「デスパレートな妻たち」をつけて、ストーカーに猟銃をぶっ放すブリー・バン・デ・カンプ夫人を見つめていた。
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