森家があれば眼が蘭蘭
                      

                           2008年5月31日-6月1日 in 愛知・岐阜 

 太田の渡し近くにいたアメンボーグ!

■ 5月31日(土) 濡れても、湿っても森家ストーキング


 君とすきな人が百年続きますように〜♪(ハナミズキ/一青窈)

 リニモのはなみずき通り駅を下車すれば、目の前に常照寺がある。
森長可公生誕450年の今年、長久手合戦ゆかりの地に立ち寄らずに兼山に行く事は到底不可能な事だった。
 常照寺の入り口には「三将之墓所」と書かれた立派な石がある。でも、境内の裏手にその三将之墓所の実物を見に行くと、小さなケシゴムのような五輪塔。その墓の並びを示す板看板も真ん中でバキッと折れてしまっているので、真ん中と左側が誰の墓なのかを推測しなければならないコナンワールド。
 これらの墓は豊臣方について命を落とした池田元助・森長可・池田恒興の3名の供養墓。板が割れる以前から通っていた甲斐があった。雨がそぼ降る中、手を合わせる。
三将之墓所(池田元助・森長可・池田恒興)
小さな墓石な上に、名前の書かれた板が割れて
いる(左側)…。
常照寺
三将之墓所の立派な石碑。
 


 次は、リニモ長久手古戦場駅にて下車。池田元助(長可の義理の兄弟)の庄九郎塚にお参りして、そのまま緩やかな坂道をかけ登って森長可の戦地である武蔵塚に急ぐ。別に急ぐ必要はないのだけど、ドラマなんかで見るように、ついに再会を果たした愛しい人にかけよってしまうシーン開催中。ただし、ここでは恋しさに突進したところで台形コンクリに全身を打ちつけるだけである(やってないよ)。
 冷静に考えれば四角い台形コンクリに棒が刺さった不思議な形状の武蔵塚。池田家のように子孫が明治に建てた石碑を真ん中に持ってくることはせず、コンクリを盛って対応する不思議。
 本日の武蔵塚は、上には桜の若葉、下にはオオバコに囲まれ、空中にはアタマムシ(集団で飛来するちっこい虫)が飛びまくり、初夏の彩りを帯びている。また、ここに来る事ができた。

武蔵塚
緑まぶしき季節。
この棒は、尾張藩士が建てたもの。
コンクリ固めは誰がやったのか…。
さぁ逃げろ!森軍レリーフ
悲劇の主人公・森長可が撃たれたレリーフは
作ってくれてない罠。


 そこから歩いて烏(カラス)ケ狭間という場所を探す。
長可と同じく豊臣方についていた堀秀政隊が死に物狂いで踏ん張っていた場所だ。そして、森長可の軍がいた場所についても「長可君は烏ケ狭間の巽(たつみ)に当たりて小山有るに、二町程引退き備えを段々に立て給ひ(『森家先代実録』を判り易く書き下し)」と表記されている。武蔵塚からそう遠くもない…。そして先ほどの庄九郎塚も、もともとは烏ケ狭間に建てられていたのを区画整理で現在地に移動させられている。
 烏ケ狭間だったっぽい場所は、武蔵塚から信号渡ってすぐだった。住所は「鴉ケ廻間」となっていた。なぜ、時代を変遷すると、「烏」という字が「鴉」というかっこいい字になるのか。それはともかくこの場所は、戦国時代には沢があったのに今は完全に埋め立てられて工場になっていていた。ぐるりと歩いてみたものの、もはや昔々の面影は無し。壊滅寸前の堀Qが采配を振るって味方の兵を励ました事もマボロシのよう。

 そこから更に足を延ばせば鐙掛けの松に、血の池公園長久手城跡など、古戦場ゆかりの場所がある。血の池公園の手前でミニチュア交通ワールドが出現して困惑させられるけど(訪問した人だけがわかる)。

血の池公園
合戦後、兵士らがここにあった池で鑓や刀を
洗って血で染めた公園。池はもうない。
鐙掛けの松
池で洗いものをする時に鐙をかけておいたという
松があった。


長久手城(加藤さんのお宅)跡
徳川方に味方した加藤景常の城。
『尾張名所図会』では「加藤氏宅趾」と書かれて
いるので当時の規模があっさりと偲ばれる。

 そこらを散策してから、「耳塚」に初挑戦!香流川を渡り、耳塚を探す。地図を見れば消防署の近くだ。長久手の合戦の時、敵の首のかわりに「耳」を切り落として印としたらしく、それを埋葬したのが「耳塚」と伝わっている(と、本で読んだ)。で、今はなぜかそんな塚が「耳の病に効く」ということになっている。
 けれど、長久手の合戦の所以で「耳塚」と言われてもピンとこない。
 長久手の合戦の折は、徳川家康は敵の「首」は打ち捨てにさせ、(「耳」ではなく)「鼻」を削いでそれを敵を討ち取った証にさせた。この合戦、徳川軍としても敵の首を取ってる余裕が無いほど追い詰められた状況だったらしい。
で、長可も本多八蔵という男(長可と気づいていない)に鼻を削がれてしまった事が書かれていたりする…(涙)。イケメン(当社比)に対しても容赦無い時代である。だから、「鼻塚」ならまだしも「耳」を印とした「耳塚」、という話は聴かない。でも、行ってみる。
 細い路地に入りこんだとたん、民家の生垣にドッキングしていた「耳塚」と書いた石を見つけ、「おおっ!」と、熱心にデジカメ撮影しまくった。もしも、これが本当は「鼻塚」であって、いつしか「耳塚」と誤って伝わっていたりすれば、ここに長可の鼻も入っているかも…などと考えつつ、手も合わせた。しかしこの後、郷土資料館でもらったパンフにより、本物の耳塚は、ここよりもっと奥にあることを知ることとなる。私が撮影した石はダミーであり、「影武者」であって、私は恐るべき罠にはめられたのだった。しかも、パンフの解説によれば、「耳塚は来歴は不明ですが」と書いてある。あれ?!長久手の合戦は関係無し?!読む物によって書かれていることが違う!Σ(゜□゜; 

耳塚と書いてあったので耳塚と思いこみ撮影。
実際の耳塚はもっと塚っぽい形状。
ここまで歩いてきたのに無念なり。

 愚かな私は本物の「耳塚」を見る事なくしてそのまま折り返し、長久手古戦場公園を目指して歩く。途中、浅井屋製菓さんに寄って「古戦場もなか」をゲット。店内にあった長久手産の長久手茶というのも大地の色々な物を吸収してそうで買いたくなったけど、とりあえず、今回は”もなか”だけ。
そして長可の岳父の討死した場所勝入塚に向かう。今は塚の石が見えなくなるほどに青々とした紅葉がのびざかり。
 最後に郷土資料館に寄ったけど、『長久手町史 本文編』が目につく。こともあろうか5つのパターンの長久手合戦図屏風の縮図がオマケについており、ガマンできずに「これください。」と購入してしまった。本体は768ページ。かなりどっしりとして分厚くで、でかい。そして資料館の人に「袋がないなぁ。悪いね。」と言われて『長久手町史本文編』を胸に抱きしめて行動することにあいなった。


 一旦、名古屋駅に戻ってコインロッカーの荷物を出してエコバックに長久手町史を入れJR東海道線に乗り、関氏(森家の親戚)ゆかりの一宮を通過し、織田信長がゆかりまくっている岐阜に着く。そして岐阜駅から更に高山線に乗り換えて織田信長が勝山城と改めた猿啄城跡のある山の景色を抜けて、列車は「美濃太田駅」へたどり着く。
 どしゃ降りじゃないか。観光協会の方に”太田の渡し”に行きたい事を告げると駅からは徒歩20分とのこと。木曽川沿いに歩く事を奨められた。
 かつて江戸の宿場町として栄えた太田を歩く。メインストリートにはかつての江戸の賑わいを思い起こさせるような山羊座の銅像や、蟹座の銅像や乙女座の銅像が並ぶ…って、なぜ十二星座の銅像を作ってんのだ宿場町!!

太田のメインストリートの「獅子座」像
旧・宿場町で咆哮されても困る。

 ようやく木曽川沿いまで来た。雨が強くなっても、川辺ではセキレイが遊んでいる。段々と私もびしょ濡れで、中島みゆきの哀しい歌がよく似合う状況になりつつある。歩いて40分かかって、やっと太田の渡し跡にたどり着いたら目の前に巨大な水たまりが立ちはだかる罠。しかも、なぜかと渡し跡の敷地には古生代の化石が並んで化石林公園と化している。化石に、水たまり。今、私の愛が試されている!!!
ズブ濡れ覚悟で、積極的に水たまりに足を踏みこんだ。靴の中がズブズブ。
『森家先代実録』には、何箇所かこの「太田の渡し」が登場する。一番のヒットが”森長可の叔父さんの森可政が、岐阜城に人質になっていた娘を盗み出し、金山に帰るために太田の渡しを渡って、船をぶち壊し、船人をぶった切って帰ってきた。”というものである。もう一つは、森長可が蘭丸らのお葬式をして棺おけを火にかけたら決起して木曽川を渡って肥田玄蕃の米田城に攻めこむのだけど、森軍が木曽川を渡る時にこの太田の渡しが出てくる。そのせいで400年以上の時を越えて水たまりにつっこんでしまった私であるが、実際にこうして太田の渡しに来てみると、兼山から米田に行くのには、あまりにも遠回りな気がしてその記述が間違いと感じはじめた我。それにこの渡し場、果たして戦国時代から創業してたのか。(師匠にも尋ねたところ、森可政が岐阜から帰るのに渡ったのは「前渡の渡し」だったのではという見解で、さらに長可が米田城攻めで渡ったのは今の兼山湊のすこし下方(他の文献ではそうなっている)ではなかったかという見解でした。)エトランジェの私にとっては、実際に太田の渡しに行って見て初めて疑問に思えることだった。

太田の渡し跡(江戸時代)
ここから船で向こう岸(今渡)に渡していた。
太田の渡し(慶応〜昭和初期)
太田橋(画像左の青い橋)が完成して、渡しは
役目を終えた。

 駅までの帰りの道も雨ザァザァ。折りたたみ傘は役に立たず、濡れそぼって手にする地図もパルプと化した。そして美濃太田駅にたどり着くと、急に雨が止むマジック。可児駅まで出ていくと兼山の師匠が車で迎えにきてくれて、ワゴンに収容してもらう。
この先、兼山直行をやめて可児のホテルに寄ってもらう。靴の中は水が入って沈没寸前。足にドライヤーをかけて、着替えもして、ようやく「生乾き人間」に昇格することができた。 


 師匠と一緒に兼山歴史民俗資料館を見学。展示内容が色々と変わりつつある。
「これが、兼山での塩の専売特許を認める長可の書状だ。やっとコピーしてもらった。」
でも、私の見るところ、その書状、長可の花押が違う気がする。
「ま、この書状は写しだろうけど、兼山の商人は森家がこの地を去った後の時代でも、この書状を証拠品として藩主につきつけて”我々は過去に長可様からちゃんと塩の専売を許可されてるんだ!”と、藩主に認めさせて、江戸時代も塩を専売し続けた。だから昔は長野あたりでも兼山からしか塩を買えなんだ。」
なのだそうだ。ビバ!長可!ビバ!兼山商人魂!
 隣接する生き生きプラザでは蘭丸絵はがき展を観賞した。今年も力作ぞろい♪今年は森長可のイラストが多かった。さすが、生誕450年。(写真を撮るヒマがなかったです。)

 明日の蘭丸供養祭でお世話になる方々へのご挨拶をしに行く。「今日は一人なの?」と尋ねられる。誰とも連絡をとってないので他の人たちがどうなってるのか、今どこで何をしているのか全然知らない。
その場でケータイに電話すると愛平さんの元気な声。
去年も兼山でご一緒した愛平さん…既に兼山入りしていてすぐ傍にいた(蘭丸酒を購入中)。
 夜、愛平さんと私は師匠ご夫妻に豆腐料理のお店に連れて行ってもらう。車中の会話がはずむ。
うきき:「愛平さん、今日はどこかに行ったの?」
愛平さん:「岩村城跡に登りました。」

車内、みんな「エッッ??!!!Σ(゜◇゜; 」
 この大雨の中を日本一標高の高い場所にある岩村城跡へ登るとは恐るべし(やはりズブ濡れ)。木曽川の水たまりにツッこんだ私なんてまだまだ序の口…。 
そして、ヘルシーな豆腐料理に舌鼓♪

古戦場もなか
午前中に長久手で購入。
包み紙ほしさに買う箱入り。

 ホテルで、前回の高野山ツアーで夕飯をご一緒した繭さん[URL]とロビーで再会。ステキなお茶までいただいた。私はバブ森の香り(しょぼっ!)を2コ進呈。私も部屋に戻ってお風呂にお湯をためていて、「あら、まだ繭さんにお渡しするものがあったのに。」と、どの部屋に泊まっているか電話すると、隣の部屋からケータイ音が響く。
すごい、みんな別々にホテルを予約したのに、愛平さん・私・繭さんと、部屋がみんなお隣り同志だった(そしてみんなバブ森の香りを持っている)。
 繭さんに部屋から出てきてもらったら、オートロックがかかってそのまま締めだされていた。私は長久手でゲットした「古戦場もなか×2コ」と森家コピーをささっと渡して自分の部屋に戻る。
すごいな。今宵は、森家ストーカー3部屋続きでお風呂からバブ・森の香りが漂う。

 就寝…のはずが、ナイーブな私はどうも眠つけない。座禅してみたけど、臍下丹田に力を入れてみたけど、まるで眠れない。仕方なく夜中に海外ドラマ「デスパレートな妻たち」をつけて、ストーカーに猟銃をぶっ放すブリー・バン・デ・カンプ夫人を見つめていた。
 

■ 6月1日(日) その1 蘭丸供養祭


 命短ければ、それだけ涙を見ることも少ない。(西洋のことわざ)

兼山湊から見る木曽川
美しい水の色。

 眠れないまま夜明け前に講演の練習。薄暗いシングルルームで壁に向かって一人しゃべり続ける怪しい人であるが、今日の供養祭での講話を私が勤めさせていただけるのだ。 
 森家の菩提寺・可成寺で森家のことをお話できるなんて、なんて幸せなことなのだろう。しっかりやらねば。失敗は死あるのみ。
練習を終え、N●Kで「阿蘇山野焼きドキュメンタリー」を見ながら、気持ちを新たにする。
 
 
朝6:00に愛平さんとホテルを出て、コンビニで朝ご飯を買って兼山に行く。昨日とはうってかわっていいお天気でよかった♪
 兼山湊で美しい木曽川の水(飲んでないよ。)を眺めながら、朝ご飯。デザートは「古戦場もなか」。木曽川をカモがスーッと流れるように泳いで行く。水には外界の木々や岩が鏡のように映りこむ。「森家の風景百選」に選ばれるべき美しい風景だ。

 森家の菩提寺・可成寺に行って、森家のお墓参り。
私に人生を与えてくれた人々の御霊が眠る場所。またこうして兼山に来させてくれてどうもありがとうございます。
 続いて妙向尼やご実家の林家の菩提を弔う常照寺へのお墓参り。講話では、林家のお話もさせてもらう。

 で、その後はやっぱり金山城跡へ登るのだ!私はスーツだけどね!上着は脱いで登ってゆく(そしてシワだらけにした)。金山城跡であれば、朝日の木漏れ日も格別。咲く花も、キノコも、役目を終えて転がる石垣も、イノシシのウコンも、何もかもが愛しい(やっぱりイノシシのウコンは除く)。すでにヤブ蚊が飛んでいたけど、愛平さんばかり刺されて私には寄ってこなかったので問題無し。

金山城本丸跡
画像ではわからなくとも清々しい朝の風景。

 杉が洞搦手をすべりそうになりつつ降りる。長可の金山城ご招待にまんまとやってきて、この麓で討たれた久々利城主・土岐悪五郎の思い出話をしながら下山。汗だくだけど、今から可成寺で蘭丸供養祭が始まるのだ。
 

可成寺
供養祭の本日は、紫ののぼりもはためく。

 お寺に入ると、森長可公生誕450年記念の品をいただいた。
読経と焼香の後は、筑前琵琶の音色が響く。
初参加の繭さま、そしていつものメンバー、瀬田さん、団地猫さん、Kijokazuさん〔URL〕も供養祭の顔ぶれの中にあった。
 そして、私の講話の順番がめぐってくる。よかった緊張していないぞ。講話のタイトルは
「森一族 〜蹇蹇匪躬〜」
蹇蹇匪躬(けんけんひきゅう)というのは、”家臣というものは、自分の為でないことに苦しんだり悩んだりして主君に仕えるものだ”というカンジの意味。
 そして、話し初めて3分後に次の話題をド忘れして頭が白紙になり、どうしようかと思って下手なスマイル。そこからは途切れずに話せたけど、もはや自分でもよくわからない流れに乗ってそのまま話続けた。こんな私であるけれど、森蘭丸がいかにすごい人であったか、そして森一族がどんなにステキな人々なのか、織田信長と一緒に何を夢見ていたのか、自分の思う事を伝えられたらと頑張って話しをした。
追えば追うほど、知れば知るほど、森蘭丸の人生はいよいよ華やいでゆく。 

 講話が終わってみなさんとお話したり、質問を受けたり。今日の供養祭では、昔、武者行列で森蘭丸役をした女の子とも再会できたけど、すっかり大人の女性らしくなっていた。「3足1000円の靴下です。1足は私が履いています♪」と靴下を2足くれた。鶴の靴下!猿の靴下!

 続くプログラムは烏龍太鼓。大地を揺るがす力強い太鼓の響きに頭上からホコリが降ってきて本堂のお掃除もできて一石二鳥。かくして供養祭は無事終了。私にはお昼ご飯にお寿司まで用意していただいていた。本当に夢のよう。

■ 6月1日(日) その2 愛知でなんだか門探し
 ご飯が終わり、みんなはどうしているのかと瀬田さんに電話すれば
瀬田さん:「あ、うききさんの存在忘れてた。」

生き生きプラザで、瀬田さん(コブつき)と、団地猫さん、愛平さんに合流。「あれ?Kijokazuさん(鉄道好き)は?」と尋ねれば、去ってしまわれたとのこと。また線路でも見つけて行っちゃったんじゃないのかしら、という意見で満場一致して終わる。
 和菓子屋の梅園で瀬田さんが店ごと買ってしまいそうな勢いのショッピングを眺めつつ、その後は車二台で愛知県の大口町に向かう。
 慶長5(1600)年、森忠政が徳川家康から勝手に拝領した川中島に移って金山城は廃城となる。その金山城の材木を木曽川で流して、犬山城が建てられたという説がある。説とはいっても、複数の文献にその事が事細かく書かれているし、もう犬山城は金山城ってことでOKじゃないか。そんな私は、犬山城に登っても「金山城だぁ♪」と思いつつ登っている。犬山市内にある瑞泉寺の山門は何度も見に行ったけど、これも金山城にあったものだと伝わる。
その他にも犬山城から移築された門が城外に現存している。
 でも、この後のスケジュールで一緒に来てくれたみんなにもあらかじめ「ごめんなさい。」なのだけど、すっかり金山城門気分で訪れた徳林寺の移築門は完全に犬山城時代に作られたものなので金山城とは関係無かった…。

犬山城の移築門まとめ
瑞泉寺山門(愛知県犬山市):犬山城の移築。旧・内田門。元・金山城門と言われる。 
徳林寺山門(愛知県大口町):犬山城の黒門を移築。→江戸後期の門で、金山城とは関係ナシ。
専修院山門(愛知県):犬山城の矢来門を移築。行ってみたものの、詳細がよく判らない。
運善寺山門(愛知県一宮市):まだ行ってないので詳細不明。

徳林寺山門
明治9年に23円で犬山城からこの寺に
売られてきた。調べてみたら、天保期以降の再
建門なので、金山城とは関係なかった…。
専修院山門
もと犬山城二の丸の矢来門。屋根の作りが
めずらしい高麗門形式。明治9年にこの寺に
ドナドナ。金山城とは関係ない?


 夕方に近づき、瀬田さん母子とお別れの時間になる。瀬田カーにお世話になっていた私は団地猫さんの車に乗りかえて後部座席に座らせてもらう。今日からは法改正で後部座席もシートベルトをしなくてはならないので、シートベルトを締め…締めようとしてるのにカチッといわない。壊れてるじゃないカッ!Σ(゜□゜;
でも、私のせいで団地猫さんが交通違反になってはいけないので、引力のあるシートベルトを左手で引っ張って正しく装着したフリをしつつ旅を続けることにする。…って、車で信号待ちしていた時に、後方にいた瀬田さんが車から降りてきていきなり高部座席のドアを開けて焼肉のタレを渡されておおいにびっくりした。瀬田さん、他にも防虫剤とか、マンボウグッズとかもくれてありがとう!でも、子供のいる車の中で「貴様とオレは同期の桜〜♪」って歌が流れるのはどうかと思うよ!
 
 小牧・長久手の合戦で森長可が陣を張った犬山市内の青塚古墳に連れて行ってもらう。三層の盛り土の一番上の層は長可が盛ったらしい。長可はやる事なす事ことごとくドラマだ。今はこの古墳も美しく整備されて芸術品にまで昇華している。
どうやって「立入禁止」をかいくぐって古墳の上に登ろうかと、怪しげな計画を立てる愛平さん…みんな森長可に夢中で忘れてしまうが、一応、古墳って、墓だよ!

青塚砦跡
森長可が陣を張ったばっかりに、何度も来てし
まう前方後円墳。
  物狂峠
森軍と池田軍が越えた峠を車で
走る。


 5時に営業終了ということで古墳を追い出される。森軍と池田軍が進軍した物狂峠越えルートを走ってもらい、森長可が敗戦を喫した哀しみの羽黒古戦場の地へ。今は、ほんとにちょっとした一角にのみ長可が陣を張った八幡林のなごりが残る。林をパシャパシャとデジカメで撮影。線路を渡れば野呂塚がある。孤立した森軍を襲った意地悪な徳川軍と激戦の末に戦死した森軍の武将・野呂助左衛門。そんな父を慕って引き返して散った息子の野呂助三郎。ここが彼らの最期の地であった。

羽黒の八幡林
「タカスギ〜、タカスギ〜、タカスギィイイ〜タカス
ギィイイ♪
カーーーッ」と歌ってみる。(とりあえず、
団地猫さんは元ネタわかってくれた。)
野呂塚
逆光あいすみませぬ!!
古いほうの塚、看板で隠れちゃってるし。

 余った時間で団地猫さんが駐車場と化した上条城(じょうじょうじょう)跡へ連れて行ってくれた。森長可の岳父である池田恒興がこの城に寄って行ったらしい。今は、駐車場だけどね!周囲には遺構かどうかよく判らないけど、盛り土がきれいに残っていた。

 JR春日井駅で車を降ろしてもらって、団地猫さんともお別れ。愛平さんと私は荷物をかついで車上の人となり、名古屋駅に向かう。
「あ…朝ご飯のゴミを捨てるのを忘れた…。」と、ゴミを持ったままフル活動していたことに気づく。車両を見まわせば、嵐(ジャニーズ)のうちわを握り締めた女性達がいるので、愛平さんと嵐の話になる。ああ、森一族の魅力に気づかぬ人々がまだこの世いいっぱいいるのだ…。
 名古屋駅のドトールで一服して、愛平さんともついにお別れ。一人に戻ってまた一気に寂しくなる。でも、朝ご飯のゴミは名古屋駅で捨てて帰りたいところだ。と、新幹線のりばに行くと、嵐(ジャニーズ)が来て大騒動になってしまった。ゴミ、私はゴミを捨てたいのに!!嵐が嵐を巻き起こし、ギャル(死語)の軍勢が道を塞ぐ!!!(;□;)ノ■ 

そんな中でも、森家バンザイ!! 
みなさん、お世話になりました!!!