森家がそこにある幸福
                      

                           2008年4月11日-13日 in 京都・大阪・津山 

■ 4月11日

(ここに書いてあった前半データを誤って消してしまいました…)

 本能寺からテクテク歩いて京都御所へ。春の一般公開に合わせて初めての御所を見学した。私が何より見たかったのは、内裏東側。
 内裏東側は、天正9(1581)年2月28日に織田信長が馬揃えをした場所だ。行って初めて判ったけど、その場所は御所の外側なので別に一般公開期間でなくてもいつでも見れるじゃないか。虎視眈々と一般公開を狙って待ち構えていた私は何だったのか…。
ともかく、本日は信長が馬揃えで通った室町通り(当時の二条城があった通り)を通って私も京都御所入りしてみた。
 この軍事パレードは、朝廷からの要請で実現したものだった。
『立入左京入道隆佐記』などによると、その年の正月に信長が安土で催した騎馬パレード&左義長(祭り)が大好評で(信長、眉剃ッタ(゚□゚; !!)、朝廷でも噂になったらしく「御所の近くで再現してほしい。」と朝廷が信長に要請してきたのがきっかけで、信長は「豪華絢爛な馬揃」という形でそのリクエストに答えたのだ(信長、マタ眉剃ッテ、高砂太夫ノコスプレシタ!!(゚□゚; )。安土の左義長では、みなさん馬に爆竹をつけてパンパン鳴らして走りまわっていたけど、それは内裏ではやってないようだ。
 『森家先代実録』では馬揃に参加したとある森長可も、織田信忠の率いた美濃衆・尾張衆の中にいたのだろうか。森蘭丸もどこかにいたのかな。そんな事をワクワク想像しつつ、内裏東側を歩いた。
 その後、宮中から馬揃えのアンコールが巻き起こり、3月5日にまた馬揃えが行われている。京都には見物人が殺到したらしい。私も殺到したかった。
 

京都御所
慶長16(1611)年には、森忠政も内裏造営に
関わっている。
奥に見えるのは紫宸殿。
内裏東側
信長の馬揃えのメイン会場。
ここで、きらびやかなパレードと、宮中の人々を
楽しませるイベントが繰り広げられた。


 また、御所からテクテク歩いて聚楽第の痕跡めぐり。
 豊臣秀吉の京都の邸宅でもあり、政務の場所でもあった聚楽第。この聚楽第は屋根も内装も外装も調度品もぜんぶ金が塗られていたらしい。当時の豪華絢爛なきらびやかさを考えるだけで眼が痛くなってくる。全部金に塗ればいいってもんじゃないだろう。
 天正16(1588)年の後陽成天皇を聚楽第へご招待したイベントに森忠政も列席した事が記録に残る。
森忠政の詠んだ歌
緑さへ年に増りて松かけのふかきや千代の根さし成るらむ

 その後、聚楽第は秀吉の甥の豊臣秀次に引き継がれるが、秀次が謀叛の疑いで高野山で自刃した後は、この聚楽第は徹底的に破壊された。でも、とりあえず徹底的に破壊する前に金箔は几帳面にこそぎ取っておきたいところだ(貧乏性)。近年発掘された瓦なんかにも金箔が残っていたそうで、「やっぱり金ピカだったんかい!」ということが判明しつつある。

●●● 聚楽第の痕跡めぐり ●●●

聚楽第の遺跡 梅雨の井 1 
聚楽第の名残の井戸。
プレートが示す矢印の先には…。
梅雨の井 2
いかにも枯渇してる風景にショック!!
ちょっと昔までかっこいい井戸と囲いがあった
そうな。
聚楽第跡の石碑
徹底的に破壊された聚楽第。
昔の光、いまいずこ。
松林寺境内
激しい段差は、聚楽第外堀の名残。
 


 それから、森忠政の村雲屋敷があったんじゃないかと思う場所に向かってテクテクテクテク…。森家のお屋敷はどこにあるのか判らないけど、とにかく村雲という地名にあったのだ。元誓願通りを徘徊していると、西陣織会館にいい感じの石碑『村雲ケ所跡』があるではないか!\(^o^)/
で、大喜びで画像をデジカメに収めようとするも、近くにいた着物姿のおねえさんが、「私を撮影したいのどすね。いいどすえ。」という様子でにこやかに眼で合図して石碑の前に立つ。
Σ(゚□゚; ああん!
…ちがうけど、これも何かのご縁かとお姉さんを撮影した。

西陣織会館の石碑
この界隈に、きっと森家の村雲屋敷
が!!

 予定には無かったけど、近隣に考古資料館があったので寄ってみる。先日、ここが本能寺の瓦を掘り出したので、瓦が見られるかな?とワクワクして行ったけど、「本能寺瓦が見たい。」という民意に気づいていないのか、平安時代な特別展だった。その時の発掘ニュースのチラシだけはガッツリつかみ取りしてまたテクテクテクテク歩いて本能寺戦死者の菩提寺の阿弥陀寺にお参り。
ついに、森蘭丸・坊丸・力丸三兄弟の墓石のテッペンの丸石が三基ともすべて無くなってしまったというショック!!!Σ(゚□゚;
本能寺の悲劇より幾星霜、彼らの小さく哀しい墓は、どんどん風化して、今では崩落しないようにハリガネ固めにされいる。

阿弥陀寺森家三兄弟の墓
とうとう、すべてが四輪の塔に…。


 本当は本能寺跡にも行きたかったけど、時間が無いのでJRで大阪駅に移動。阪神電車に乗り換えて、「服部駅」に着く。

服部駅近くの著作権ギリギリキャラ
またしてもやってしまった逆光撮影。


 ここで許された時間は約1時間。また大坂駅に戻って、津山行きの高速バスに乗らなくてはならないのだ。焦り気味で服部図書館に到着。森家とも関わりのあった今西家の史料本をどうしても見たくてやって来た。福岡から読書に来たぞな、もし。
「今西家関係の本を全部見たいんですけど…どこですか?で、その資料をコピーをしたいんですけど、コピーできますか?どうすればいいですか!」
時間の無さに焦って全部をしゃべりたがる私に「ひとつずつ、やっていきましょう。まずは、本を探しましょう。」と、司書さんに優しくさとされる。わたしゃ、小さい子かっ!
 机の上に揃えた本を「森家に関わるページは絶対に見落とすな!」という集中力をもってページを高速でめくり、森忠政の禁制や、今西家の系図や、今西氏の大蔵姫(森忠政の内室)の肖像画をコピーして、ダッシュ!!!図書館の人に「あいつ、何か持ち逃げしたんじゃ…」と思われたかも知れない。
 残り時間ギリギリで今西家の菩提寺である松林寺に行こうと、坂道をかけのぼりニンジャ★ハットリ大ダッシュ!!!津山行きのバスに乗る時間が刻一刻と迫るので、汗かきながら必死。いい大人になってからも、森家のせいでよく走りまわっている。
自分が思っていたよりも松林寺は近かったものの、本当に時間ギリギリなので一瞬でお墓参りを済ませて、また服部駅にダッシュ!大阪駅から高速バスに乗って、図書館で入手した史料を読みつつ、津山駅にたどりつく。
 津山ではハナちゃん[URL]が迎えに来てくれた。車に乗せてもらっても早速、興奮して騒ぐ。
 荷物をお宿に置いて津山城跡に登る。嬉しいことに、花見シーズンだけは夜10時まで開場している。早く24時間化してくれないものだろうか。
出店も並んでいるので、タコフライにうどんを食べて、ようやくお腹を落ちつかせる(昼ごはんヌキだったので)。リンゴ飴も買った。

夜の津山城備中櫓
今、櫓に侵入すると、セコム兵士が迎えに
来てくれる。
津山城の夜桜
葉っぱぱーが…。

 他の夜桜見物の人が持ってるワンカップに森忠政らしき絵柄ラベルを見つけて、「それ何ですか?」と尋ね、自分も売店で清酒「津山」をゲット。売店の人に「熱燗にしますか?」と尋ねられる。飲むなんて、とんでもない!ましてや、お湯に浸けるなんて!
 夜中に、ジョイフルで夕ご飯にする。ドリンクバーでお腹チャポチャポで就寝。

■ 4月12日 森忠政のチカラ♪ (津山とか美作国域)

 命短ければ、それだけ涙を見ることも少ない。
  出典:西洋のことわざ
宗道神社(鍛冶町)
古代鍛冶部の祖神が祀られている。
もともと津山城の南庭にあったものを鶴山八幡に
移され、その後、この場所に落ちついたらしい。


 美濃町
は忠政が美濃から連れてきた職人の町。田町は武家屋敷。道を歩くと、今もその名残が残っていたりして、嬉しくなる。

 途中で見つけた喫茶店でモーニングセット(パン洋食)を食べていたけど、朝からウキウキする姿がどう見ても福岡県民だったのか、「これから観光ですか?」と、お店の方がみそ汁をサービスしてくれた。
 津山城の周辺は、セレブ居住区・山下(さんげ)。忠政の姉・鴻野さまや、側室の香々美さま、養母の大野木さまの屋敷割りも文章としては残っているけど、実際にはどこにあったのか、私には特定できない。ご城下のどこかにあったんだろう。

森忠政公+カップ
前回はドングリ、今回はドリンクのお供えが
してあった。
津山城の桜
石段に、花びらひらひら、夢心地。


 千石坂
を登って津山城跡に至る。そこでお城の見張り番をしている知人とバッタリ会って、つい話しこんだ。待ち合わせがあったので、津山郷土博物館に降りて行く。

今日の旅のガイドさんは、ゆっきいさんに、よござんすさん、Iさんに、ハナちゃん♪

 初めに連れて行ってもらったのは、森家の祈願所だった大聖寺。本堂不動院、本坊客殿などが焼失していたところを、森忠政が慶長18(1613)年に再建した。津山に入ってからは、あちこちの寺院を再建してあげたりして大盤振る舞いで美作の国造りを頑張ってるな、忠政は。4年前の真田攻めの時には足軽のバイト代すら払えずにストおこされていたのが嘘のようだ。
 軽妙洒脱な感じのご住職が森忠政がいかに都に精通したナイスガイだったかを語ってくださり、まさに忠政サマサマという感じだったので、お話するだけでも嬉しくなってしまった。でも、境内には、宮本武蔵とお通のでっかい銅像と、宮本武蔵の看板があっ(ばきっ!)
 大聖寺は御所直轄寺院となり、皇室の菊のご紋が使われている。ご住職によれば、森忠政のお蔭なのだ。「御室御所御用」の札も見せていただいた。これを荷物に立てれば、関所でも荷物改めもなく通行できたのだそうだ。
そしていまひとつ貴重な挟箱を見せていただいた。立派ななめし革が張られたその箱には、菊のご紋と森家の鶴丸紋が並んでついているのだ。
菊のご紋を見ると人々は頭を下げなくてはならない。それは同時に森家にも頭を下げるということになるのだ。ご住職によれば、そこが森忠政のすごい所なのだ。
津山城跡の森忠政の銅像もすごいのであるが、森忠政のすごさは文化の中に巧みに森家の権威と格式を織り込んでゆけることにあるのだ。

大聖寺祈願所
住職の着こなしにも、中啓の持ち方にも、
言葉遣いにも、めずらしい扇天井にも
畳のフチの模様にも、都の一流を愛した
忠政の心が生きる。
大聖寺本堂
祈願所の反対の山をちょっと登った場所にある。


 お次は、森家の家老であった森可春の隠居所だった安養寺。彼が作らせたという小堀遠州の庭園があるけれど、池を見たハナちゃんが「カスミサンショウウオ!」と騒いだので池の中の生き物観察になってしまい、名園の観賞を忘れてしまった。ちなみに池の中は恋の季節だった。
いや、そのことよりも、何よりも、急な階段の両ヘリにタイヤを乗せて、勢いよく車を滑走させて行くご住職のハンドルさばきにびっくりした。デジカメ動画機能を駆使してその光景を撮影しておけばよかったと悔やまれる。
Σ(>へ<; ←庭園も撮影し損ねた人。

安養寺
昔は、ここに森家の家老の森可春の屋敷が
あった。小堀流の庭園にはセコムが設置して
あるので、お寺に一言お願いして入るべし。

 真庭市への道のりを、よござんすさんのハンドルさばきで出雲街道ルートで通ってもらう。昔の大道とは言っても激しく狭い道のりなので、運転手も大変なのである。
追分の分岐点で車を降りて、ゆっきいさんに説明をしてもらう。そのうち「ホルモンうどんじゃ。」「ホルモンうどん。」と、関係無い話題になっている。視界にホルモンうどんの店があったのだ。ホルモンうどんは津山の新しい名物らしく、ホルモンうどんMAPなどもあるという。でも、たぶん森忠政とホルモンうどんは関係ない。

出雲街道(追分)
江戸幕府は、参勤交替の道を整備するにあたり、
森忠政に出雲街道の整備を命じた。
画像右側の道標の石は文久3(1863)年のもの。


 真庭市の熊野神社。ここも森家の祈願所で当時は「上河内神社」と称していた。ご神紋も鶴丸。森忠政の治世の宮司は須田越中守だったけど、なんと現在でもその血脈が守られいて、宮司さんは須田さんとおっしゃる。ただ越中守を使うのはもう辞めちゃったのか。
そんな須田家は、中世以来の社家だそうだ。
 国主の安泰を祈る美作の三年に一度の高野神社の大祭「閏年祭」には、注連(しめ)太夫という称号を持つ須田家の奉仕無しでは成り立たなかった。戦国期に廃れたその「閏年祭」を復活させたのも森家だったと知った。

熊野神社本殿
画期的なことに古びた本殿にはホットカーペット
が敷いてある。
熊野神社の鶴丸紋
クチバシが折れちゃって可哀想なことに…。
交通安全のお守りにも鶴丸紋が。

 須田宮司さんのおもてなしと興味の尽きないお話に、大変な長居をしてしまった。それでも、引き続き森家ツアーを敢行するのである。
「時間の都合でお昼ご飯ヌキ。」ということに決まった。

 津山に戻って清眼寺(せいげんじ)にお参りした。院庄にあるこのお寺には、森忠政の家老の井戸宇右衛門とその兄弟の墓があると『森家先代実録』に伝わる。
 井戸宇右衛門は森長可以来の重臣であったが、忠政の義弟だった名古屋九右衛門(山三郎)が大嫌いであった。どのくらい大嫌いだったかというと、井戸宇右衛門(家老だよ)が、名古屋九右衛門(美男子だよ)に対し、

『髯(ひげ)の真黒にはへたる尻をまくり出し、”この川は殊の外深き”、などといふ』
(『美作国代々領主一件』)

家老ッ!!!Σ(゚□゚;
度重なる井戸の嫌がらせに激怒した名古屋は、忠政に「あいつを切り殺したいです。」と訴え出るのであった。

 美作の院庄の地で、ついに名古屋九右衛門が切りかかってくる。井戸宇右衛門は名古屋を返り討ちにしたものの、他の武士達に襲いかかられてついに命を落とした。そして井戸宇右衛門の二人の弟の伝三郎・惣十郎も討たれてしまった。そんな井戸三兄弟。
 前回、清眼寺にお参りしても、井戸兄弟のお墓を見つけられなくて残念な思いをした。今回はご住職がいらっしゃったのでその事をお尋ねした。ご住職も『森家先代実録』の記述をご存知だったけど、お墓が伝わっていないとのこと。そこから、また話がはずんでしまう。

 津山のご城下にまた戻ってきた。「なんでも宝鑑定団」にも登場した屏風が津山郷土博物館で展示中だった。津山藩・松平家のお抱え絵師・鍬形恵斎(くわがたけいさい)が描いた津山城とその周辺を Iさんと観賞。
恵斎はホンモノの津山城を見ながらこの屏風を描いたのだ。羨ましい。
その後、ためていた森家の質問を、博物館の学芸員さんに尋ねる。車を置きに行っていた、ゆっきいさん達もやがて戻ってきて、「腹が空いたから、先に夕食に行っとくから!」と、こともあろうかゲストである私を置いてみんなさっさと食事に行ってしまった。

 夕食は、スキヤキのようなもの〜。(^。^)♪料亭に到着したら、みんな、ゲストである私を差し置いて本当に先に食べまくった後であった。
 私もお腹が空いていたし、貝柱は沢山残って浮いていたので、貝柱をホイホイ取って、とき卵の中にいれて食べる…その、貝柱と思っていた食べ物は「麩」じゃないか!
その後は、追加注文で心ゆくまでスキヤキのようなものをご馳走してもらった。鍋にご飯を入れて、ぞうすいでフィニッシュ!

■ 4月13日 400年後も森家のみ栄え(津山・建部)
 早起きして津山の城下町を歩く。小性町も古くから存在する町だ(もともとは小姓町)。きっと、どこの家の玄関を開けても際限なく小姓がうじゃうじゃ出てきた町だったに違いない(勝手な想像)。
備中櫓
津山城築城400年記念事業で建てられた
備中櫓。
備中櫓の上
ラブラブ★カラス。
シャチポコの尾びれからピロリと出たヒモのほう
が気にならないでもない。


 津山城の本丸跡に登ると、数十羽のカラスが頭上を舞った。周囲を見れば、桜の木にもいっぱいとまっている。きっと、花見の残飯に目をつけ
カラスは熊野神社(昨日参拝した)のお使いだもの、きっと今日はとびっきりいい日になるのだ。本丸の天守台跡に登ってしばらく朝の日光浴。

徳守神社
忠政が津山城の築城に先んじて津山の総鎮守
として建立。ずっと、津山を守ってきた。


 森忠政が津山の総鎮守として造ったた徳守神社経由で、森家の菩提寺である本源寺へ。
 創建四百年記念大法要にご招待していただけたのだ。今日はばっちりスーツ姿で出席。ご招待席には、顔見知りの方々がいらっしゃって声をかけてもらえて、ホッ。

本源寺森家御霊屋
大変立派に修復されました。
森家の御霊もさぞお慶びのはず。
本源寺本堂
森家の菩提寺。
奥の墓所には、森一族の立派な墓が並ぶ。

 開基・森忠政公木像の修復開眼法要も執り行われ、特に首部分が修復された森忠政像も拝見できた。
品格の漂う立派な武将の姿。このたびの調査で坐像の製作年が寛永8(1631)年である可能性がでてきたそう。忠政が亡くなったのは寛永11年なので、この像は忠政の生前に製作されたものかも知れないのだ。

 森家御霊屋修復落慶法要、森家御位牌五基修復開眼法要が続く。今日だけは特別に森家御霊屋にあがらせてもらうことができた。森一族の大きくて立派なご位牌を拝ませていただけた時は、彼ら自身に囲んでもらえているような心地して、ひときわ感動。ここに来させてくれてありがとうございますと、いつまでも手を合わせていたかった。

 お昼にお弁当まで頂戴したけど、なんと、鶴丸紋の重箱にお昼ごはんが入っている!
Σ(゚□゚;
その重箱を抱えて、ハナちゃんと、しまちゃんに会いに行った。
忙しい身の上になったしまちゃん。それでも時間をみつけてわざわざ会いに来てくれた、いにしえのマンガ『信長君日記』を片手に___。
 小雨降る中、雨なんて降っていないフリをして津山城跡で弁当を広げて、3人で楽しく桜を見る。

建部の豊楽寺
森忠政が再建した。

 津山の地を去り、今回の旅の最後にハナちゃん号で建部にある豊楽寺へ。あまりにも急な坂道の連続に、ハナちゃん号(軽四)がブォオオオオオと悲鳴をあげつつ、重い私達を山頂まで運んでくれた。
 森忠政が慶長10年9月16日に津山城で執り行ったイベント「大般若経真読」に使ったお経はこのお寺から借り受けたもので、その後も、毎年貸し出しされた。
雨のしとど降る中、本堂で色々と森家の事を調べさせていただき(たまに奇声をあげる)、旅の最後まで充実した時間を過ごした。そして帰りの坂道で私がデタラメな道案内をさしこんでハナちゃん号を迷走させる。

岡山市中心街に入り、いよいよお別れの時が迫る。
岡山駅近くでハナちゃんとお茶にする。今日は、法要があるので、ずううーーーーっと水分を控えていたので、咽の乾きにグレープジュースも一気飲み!!!
 ああ、今回の旅も嬉しく、幸せで、そして楽しかった!
 宿泊していた旅館でも「うききさんは津山の人達からとても大事にされてるんですね。」と言われて、改めて涙目になってしまった。
森家が好きだと言い張るばかりの私に、いつも優しい明かりを灯してくれる津山の人達。
だから私は、そんな人達にめぐり会わせてくれた森家がますます好きになってゆく。
津山の人達も、森家も、みんなみんなありがとう。

 それにしても津山は寒かった…。福岡が汗ばむ暖かさなもので薄着で来てしまったよ。
ハナちゃん:「毎回津山は寒いってゆーとるのに!」

 津山で一番最初に仲良しになったハナちゃんの笑顔に見守られつつ、入り口が判らず岡山駅前を車でループ2回の上、岡山駅でお別れした。
 新幹線では鶴丸の重箱を、遺骨かと思われる勢いで大事に抱きしめつつ、今回の旅を終える。