命短ければ、それだけ涙を見ることも少ない。
出典:西洋のことわざ
 |
宗道神社(鍛冶町)
古代鍛冶部の祖神が祀られている。
もともと津山城の南庭にあったものを鶴山八幡に
移され、その後、この場所に落ちついたらしい。 |
美濃町は忠政が美濃から連れてきた職人の町。田町は武家屋敷。道を歩くと、今もその名残が残っていたりして、嬉しくなる。
途中で見つけた喫茶店でモーニングセット(パン洋食)を食べていたけど、朝からウキウキする姿がどう見ても福岡県民だったのか、「これから観光ですか?」と、お店の方がみそ汁をサービスしてくれた。
津山城の周辺は、セレブ居住区・山下(さんげ)。忠政の姉・鴻野さまや、側室の香々美さま、養母の大野木さまの屋敷割りも文章としては残っているけど、実際にはどこにあったのか、私には特定できない。ご城下のどこかにあったんだろう。
 |
 |
森忠政公+カップ
前回はドングリ、今回はドリンクのお供えが
してあった。 |
津山城の桜
石段に、花びらひらひら、夢心地。 |
千石坂を登って津山城跡に至る。そこでお城の見張り番をしている知人とバッタリ会って、つい話しこんだ。待ち合わせがあったので、津山郷土博物館に降りて行く。
今日の旅のガイドさんは、ゆっきいさんに、よござんすさん、Iさんに、ハナちゃん♪
初めに連れて行ってもらったのは、森家の祈願所だった大聖寺。本堂不動院、本坊客殿などが焼失していたところを、森忠政が慶長18(1613)年に再建した。津山に入ってからは、あちこちの寺院を再建してあげたりして大盤振る舞いで美作の国造りを頑張ってるな、忠政は。4年前の真田攻めの時には足軽のバイト代すら払えずにストおこされていたのが嘘のようだ。
軽妙洒脱な感じのご住職が森忠政がいかに都に精通したナイスガイだったかを語ってくださり、まさに忠政サマサマという感じだったので、お話するだけでも嬉しくなってしまった。でも、境内には、宮本武蔵とお通のでっかい銅像と、宮本武蔵の看板があっ(ばきっ!)
大聖寺は御所直轄寺院となり、皇室の菊のご紋が使われている。ご住職によれば、森忠政のお蔭なのだ。「御室御所御用」の札も見せていただいた。これを荷物に立てれば、関所でも荷物改めもなく通行できたのだそうだ。
そしていまひとつ貴重な挟箱を見せていただいた。立派ななめし革が張られたその箱には、菊のご紋と森家の鶴丸紋が並んでついているのだ。
菊のご紋を見ると人々は頭を下げなくてはならない。それは同時に森家にも頭を下げるということになるのだ。ご住職によれば、そこが森忠政のすごい所なのだ。
津山城跡の森忠政の銅像もすごいのであるが、森忠政のすごさは文化の中に巧みに森家の権威と格式を織り込んでゆけることにあるのだ。
 |
 |
大聖寺祈願所
住職の着こなしにも、中啓の持ち方にも、
言葉遣いにも、めずらしい扇天井にも
畳のフチの模様にも、都の一流を愛した
忠政の心が生きる。 |
大聖寺本堂
祈願所の反対の山をちょっと登った場所にある。 |
お次は、森家の家老であった森可春の隠居所だった安養寺。彼が作らせたという小堀遠州の庭園があるけれど、池を見たハナちゃんが「カスミサンショウウオ!」と騒いだので池の中の生き物観察になってしまい、名園の観賞を忘れてしまった。ちなみに池の中は恋の季節だった。
いや、そのことよりも、何よりも、急な階段の両ヘリにタイヤを乗せて、勢いよく車を滑走させて行くご住職のハンドルさばきにびっくりした。デジカメ動画機能を駆使してその光景を撮影しておけばよかったと悔やまれる。
Σ(>へ<; ←庭園も撮影し損ねた人。
 |
安養寺
昔は、ここに森家の家老の森可春の屋敷が
あった。小堀流の庭園にはセコムが設置して
あるので、お寺に一言お願いして入るべし。 |
真庭市への道のりを、よござんすさんのハンドルさばきで出雲街道ルートで通ってもらう。昔の大道とは言っても激しく狭い道のりなので、運転手も大変なのである。
追分の分岐点で車を降りて、ゆっきいさんに説明をしてもらう。そのうち「ホルモンうどんじゃ。」「ホルモンうどん。」と、関係無い話題になっている。視界にホルモンうどんの店があったのだ。ホルモンうどんは津山の新しい名物らしく、ホルモンうどんMAPなどもあるという。でも、たぶん森忠政とホルモンうどんは関係ない。
 |
出雲街道(追分)
江戸幕府は、参勤交替の道を整備するにあたり、
森忠政に出雲街道の整備を命じた。
画像右側の道標の石は文久3(1863)年のもの。 |
真庭市の熊野神社。ここも森家の祈願所で当時は「上河内神社」と称していた。ご神紋も鶴丸。森忠政の治世の宮司は須田越中守だったけど、なんと現在でもその血脈が守られいて、宮司さんは須田さんとおっしゃる。ただ越中守を使うのはもう辞めちゃったのか。
そんな須田家は、中世以来の社家だそうだ。
国主の安泰を祈る美作の三年に一度の高野神社の大祭「閏年祭」には、注連(しめ)太夫という称号を持つ須田家の奉仕無しでは成り立たなかった。戦国期に廃れたその「閏年祭」を復活させたのも森家だったと知った。
 |
 |
熊野神社本殿
画期的なことに古びた本殿にはホットカーペット
が敷いてある。 |
熊野神社の鶴丸紋
クチバシが折れちゃって可哀想なことに…。
交通安全のお守りにも鶴丸紋が。 |
須田宮司さんのおもてなしと興味の尽きないお話に、大変な長居をしてしまった。それでも、引き続き森家ツアーを敢行するのである。
「時間の都合でお昼ご飯ヌキ。」ということに決まった。
津山に戻って清眼寺(せいげんじ)にお参りした。院庄にあるこのお寺には、森忠政の家老の井戸宇右衛門とその兄弟の墓があると『森家先代実録』に伝わる。
井戸宇右衛門は森長可以来の重臣であったが、忠政の義弟だった名古屋九右衛門(山三郎)が大嫌いであった。どのくらい大嫌いだったかというと、井戸宇右衛門(家老だよ)が、名古屋九右衛門(美男子だよ)に対し、
『髯(ひげ)の真黒にはへたる尻をまくり出し、”この川は殊の外深き”、などといふ』
(『美作国代々領主一件』)
家老ッ!!!Σ(゚□゚;
度重なる井戸の嫌がらせに激怒した名古屋は、忠政に「あいつを切り殺したいです。」と訴え出るのであった。
美作の院庄の地で、ついに名古屋九右衛門が切りかかってくる。井戸宇右衛門は名古屋を返り討ちにしたものの、他の武士達に襲いかかられてついに命を落とした。そして井戸宇右衛門の二人の弟の伝三郎・惣十郎も討たれてしまった。そんな井戸三兄弟。
前回、清眼寺にお参りしても、井戸兄弟のお墓を見つけられなくて残念な思いをした。今回はご住職がいらっしゃったのでその事をお尋ねした。ご住職も『森家先代実録』の記述をご存知だったけど、お墓が伝わっていないとのこと。そこから、また話がはずんでしまう。
津山のご城下にまた戻ってきた。「なんでも宝鑑定団」にも登場した屏風が津山郷土博物館で展示中だった。津山藩・松平家のお抱え絵師・鍬形恵斎(くわがたけいさい)が描いた津山城とその周辺を Iさんと観賞。
恵斎はホンモノの津山城を見ながらこの屏風を描いたのだ。羨ましい。
その後、ためていた森家の質問を、博物館の学芸員さんに尋ねる。車を置きに行っていた、ゆっきいさん達もやがて戻ってきて、「腹が空いたから、先に夕食に行っとくから!」と、こともあろうかゲストである私を置いてみんなさっさと食事に行ってしまった。
夕食は、スキヤキのようなもの〜。(^。^)♪料亭に到着したら、みんな、ゲストである私を差し置いて本当に先に食べまくった後であった。
私もお腹が空いていたし、貝柱は沢山残って浮いていたので、貝柱をホイホイ取って、とき卵の中にいれて食べる…その、貝柱と思っていた食べ物は「麩」じゃないか!
その後は、追加注文で心ゆくまでスキヤキのようなものをご馳走してもらった。鍋にご飯を入れて、ぞうすいでフィニッシュ!
|