安土を好きなだけ歩く
                                    

                                 2008年2月2日 in 安土・京都 

信長の寒中水泳を見守る三兄弟

 ■ 安土は続くよどこまでも ■   

 最近、腰の調子が悪くて整骨院の先生に「運動してますか?」と訪ねられた。
ギクリ。Σ(゚皿゚;
…歩こう。健康のために、散歩しよう。
でも、やはりせっかく歩くのなら森家ストーキングも兼ねて、安土を歩くことにした。
夜行バスの座席で腰が痛いのを堪えて眠り、朝、京都駅に着く。JR琵琶湖線に乗って安土駅へ。

 久々の安土。今まではいつも駅前レンタルチャリを利用していたけれど、今日は自分の足で歩き倒すのだ。滋賀県教育委員会の『近江城郭探訪 第10章天下布武』に従ってとことん歩く。まずは城下町散策だ。
安土駅の秘密の地下通路を潜って反対側に回って、景清道(かげきよみち)を歩き始める。平景清が京都へ行くのに使った道という伝承がある道だそうだ。
景清橋みちしるべ(西の木戸)
このみちしるべ界隈が安土城下町の
西の端に位置すると考えられている
(本の情報パクリ)。


「歩こう♪歩こう♪私は腰痛♪
きしむの大好き〜♪キシキシ行こう♪(By:隣のトロロ主題歌)」

 先ずは、近江守護佐々木氏の氏神・沙沙貴神社。信長から雁と鶴をもらった町人が返礼にこの神社で能を催したこともあるらしい。境内は中でも楼門が立派だった。早朝の参拝者は私一人。朝の冷たくて清々しい空気の中で、目を閉じて女石から男石へ向かってしつこく歩いたり、自分の干支石像を探したり、恵方に向かって一言お願いしたり、隅々まで境内を散策するうちにいい時間になったので、ご朱印をいただいて神社を後にした。

沙沙貴神社楼門
古来より、全国の佐々木さんの心のよりどころ
という。佐々木高綱の末孫である乃木将軍も
崇拝した。なんじゃもんじゃの木もあった。
沙沙貴神社ご朱印
佐々木家の家紋「四つ
目結」の入ったご朱印。

 朱色の楼門を目指してたどり着いたのは、信長によって安土の城下町に建立された浄厳院

田園風景の中、この道を進めば、浄厳院の
朱色が近づく。

 天正7(1579)年に信長が浄土宗と法華宗(日蓮宗)を宗論させた安土宗論(安土問答)で有名な場所だ。『武功夜話』によると、この時、森蘭丸は法華宗方お目付役になっているけど、近年『武功夜話』の記述が「嘘くせー。」とか「偽書くせー。」とか言われてしまっているので、真相が明らかになるまで「蘭丸もスタッフして働いてたかも知れないね…。」という気持ちくらいに留めておく。
このお寺の什物は、安土城考古博物館の特別展に展示中なので、それも本日の楽しみ。

 お寺を出て、信長が人々に安土を通過させるために東山道から引っ張ってきて整備した道・下街道(江戸時代からは朝鮮人街道と呼ばれた)を歩いた。戦国当時の人々が歩いた道と、同じ道を歩いている。同じ道を歩いているんだよ!!!腰痛で胃痛持ちの私が、信長の整備した道を歩いております!!
 当時の戦国大名達は、敵に攻めこまれるのを恐れ、いかに自分の城に人を近づけないかという考えであったので、城に至る道を狭く困難にしたり、川を渡れないように橋をかけなかった。人の寄ってくる町を城のそばに造るなんてもってのほか。町を繁栄させるには、交通に便利なように道幅を広げてなくてはならず、人を寄せつけちゃいけない城の性格と矛盾するのだ。城と町。そんなもの、ドッキングさせちゃダメなのだ。
 それが常識の時代に信長は、いかにこの国をスムーズに繋ぎ、自分のいる安土へ多くの人を連れてくるかを考えていた。やっぱり器が違う。
 信長の道を歩いて思った。信長は人々が幸せに暮らす町の賑わいを安土の天主から目を細めて眺めたかったのだろうね。きっと、信長は誰よりも平和を望んでいた人だったのだ。

浄厳院本堂
安土宗論の舞台となったお寺。
中は公開はしていないので、境内散策のみ。
下街道
信長が整備したという道。
江戸時代には朝鮮通信使が通ったので
朝鮮人街道とも呼ばれる。

 城下町跡の細い路地、地図を頼りに探した水源地3つ。
音堂(おとんど)の湧水地」に来てみれば、地元の人がその清水で洗濯をしていた。
そして、信長が愛飲したと伝わる水・梅の川の湧水地はそのすぐ傍の筋にあったのに、いかなる近距離でも迷うのが得意な私はやっぱり道に迷ってしまい、ご近所の人に道を尋ねると無視され…困惑している時に耳にしたゴボッゴボッ!という激しい音。音のするほうに寄っていけばまさに梅の川の湧水!!湧いてる!湧いてる!!\(^o^)飲んでいいのかわからなかったので舐めるに留めたけど、麗しの清水だった。
 

梅の川湧水地
武井夕庵がこの水を使って信長に茶を献じた
ところ、信長は非常に喜び、その後、茶の湯に
は常にこの水を使ったといわれる。
  音堂(おとんど)の湧水地
清らかな水の中でデカ鯉がたくさん
押し合って泳いでいた。

 そこから歩いてしばし。安土城の普請奉行となった安土のジモティー・木村次郎三左衛門高重の居館があった木村城跡は、今はただ畑が広がるばかりだった。痕跡なんてものはまるで判らず。たまにこの人、古文書で”木村三左衛門”と出てくると森三左衛門可成と誤訳されて手柄を可成(故人)に横取りされている可哀想な人なので、勝手に私の頭に記憶されている木村三左衛門どの。

 木村城跡をぬけて常楽寺湊の船入跡に行く。信長よりずっと以前から、琵琶湖の湊だった。
 続いて見に行った北川湧水地には「足湯」場の看板があった。おお!無料の足湯!!ここでひとつ、疲れた足を水に浸して、安土城登山への英気を養おう!!と、思ったのだけど、湯気も全然出ていない。足湯場に手を突っ込んでみると、水だった。危うく罠にはまるところであった。

常楽寺湊の船入跡
奥まで行こうと左側のヘリを歩くと、不意打ちで
飼い犬が飛び出てきたので水に転落しそうにな
った。
  北川湧水地
一番奥にある足湯に入ろう♪


 安土城下には、城と城下町を防御する「惣構どて」がめぐらしてあったらしいことが判明している。この辺に「惣構どて」が走っていたんじゃないかという推定地に立ち寄ると、何か掘ってたようでビニルがかかっていた。発掘しているのかな?
 そこから、田園風景を歩きに歩いて安土城考古博物館を目指す。乾いた田んぼのいたるところでヒバリが急に鳴くのでハッとしてその姿を探す。
風の冷たい安土にも、もうすぐ春がやってくる。

惣構どて
お城や城下町を守っていた土手があったと
推定される場所。
黒ビニル下で夢とロマンを熟成中?
安土山遠景
この道をただひたすらに歩みゆけば、
いつか君に会えるかも。


 安土城考古博物館の開館15周年記念「信長と安土城」展で、信長関係の貴重な展示品を満喫。最も古い織田信忠の肖像画を見れたことも嬉しかった(ププ、父子ソックリVv)
ちなみに、この博物館には不思議な信長グッズが売っていたりするが、ショーケースには鶴丸グラスも陳列してあった。(^。^)「ください。」というと、店主「現物でよろしいですか?」と、壁に沿って置いていたショーケースをガガガガ!と引っ張り、ショーケースの後ろからグラスを取り出してくれた。

安土城考古博物館
味わいのある建物の博物館。
隣接の安土城天主「信長の館」は
今回見送り。
鶴丸グラス
鶴ちゃんが彫られて
1500円。


 そんな鶴丸グラスをプチプチで巻いて渡されたので、割れないように箱に入れるかどうにかして欲しいと申し出たけど、もう一重にプチプチを巻いてくれるに留まった…今から安土城に登るのに、万が一転んで落としたりしたら鶴ちゃんの羽根が城跡に散らばってしまう。気をつけなければ。ああ、そう思うとコケそうな気がしてきた…。 

 安土城跡に登ろうとしてみると、いきなり手堅く有料化されていて大手門の発券機で500円を払うのだった。信長公はこのことを_____?
しかし、大手道はしっかりと整備されていた。
もう、ここまですでに5時間安土を歩き続けてきた私は、ちょっと足がガクガク来ていたものの、石段を踏み出し、安土城跡の3Dワールドに入りこむ。所々に雪の跡。
久しぶりに安土城へ訪れることができた喜びに、体内の空気を全部安土城の酸素に入れ替えようと、何度も何度も深呼吸しながら石段を登る。本丸に至る途中にある「伝森蘭丸邸跡」の石碑も相変わらず建っていたのだけれど、そして相変わらず傾いていたのだけど、更には相変わらず奥の屋敷跡の敷地へは立入禁止だし、屋敷跡は土砂が乗っかりすぎているので、発掘が手がけられるのはいつの日か。(><;)。

安土城大手道
幸せをかみしめて登る石階段には、たまに
お地蔵さまが石材としていらっしゃる。
安土城石段
限られた者だけが通ることを許された城内。
石垣にも凛とした空気が漂う。
伝・森蘭丸邸
訪れるたびに、薄暗さを実感!
(邸宅跡地は石碑のもっともっと奥。)
二王門
蘭丸や長可も見上げただろう仏法の守護。
戦国当時からある安土城内唯一の建造物。


 
城内の信長廟にお参りして、天主へ登る。
「天」の字が だーい好きな信長が「天主」と命名したその建物。
まだ、城と言っても、とりあえずの掘っ立て小屋ばかりだった戦国時代。信長が華麗で堅固な安土城を築いたのを見て、みんな「何アレ???!!!何やってんの?!」「信長ってやっぱ変わってるわー。」と、みんな驚いたんんだろうな。驚きつつ、シビレつつ、「かっけー!!やっぱ信長がクール!!」と、パクりゆき、日本の城郭の歴史は信長を先駈けに一気に芸術レベルで華開く。

 城内にある そう見寺二王門。これが、唯一の信長時代からの建造物だ。それだけ私の感慨も深く、しばらくこの門に留まる。このニ王は森蘭丸や長可を見知っているのだ。そして今なお、主無きこの城の行く末を見守っているのだ。素敵だ。何とも素敵だ。私の腰痛も見守っていただけると、さらに素敵だ。

 下山して、料金所でそう見寺のご朱印をいただいた。「大悲殿」と書いてる。
みほとけの大いなる慈悲の心よ大悲殿。考えれば、今日(2/2)は計らずも織田信長と森蘭丸の月命日じゃないか。そんな日にここへ来させてもらえて幸せだった。

見寺ご朱印

 
 百々橋(どどばし)に回って、信長時代以前からある新宮神社でお参りして、再び下街道に入る。

安土のゴミ置き場
この異様な細かさは信長の方針か?
信長?肖像画??
別に意味は無くあづちまっぷの
看板に寄生している模様。


 駅に向かう道でセミナリヨ跡にも寄ろうと思っていたのに、小道に逸れるのを忘れ、気づけば安土駅だった。お土産屋さんなどもあるけど、30分に一本の駅の時刻表に気をとられ、あと3分後に京都行き列車が来ることを知ると反射的に安土を後にしてしまった。
もうひとつの、目的を果たさずして______________。

「近江の赤コンニャク」Σ(T□T;
その辺に置いておくとマグロの切り身と間違えるという赤コンニャク!!!

信長が考案したとも言われる赤コンニャクを探して買おうと思っていたのに、買いたかったのに、列車に乗ってしまったぁあああ!!!

赤コンニャク〜!!!!!

 ■ 京都の闇神社に赤いコンニャクと闇二条城


 赤コンニャクを買わずして、列車に飛び乗り京都に帰ってしまったのは、「もしかすると、京都の観光時間もとれるのではないか…?」という淡い期待を抱いてしまったからだ。もう、夕方になるというのに。
 4:50に京都駅着。観光案内所に行って「今から北野天満宮に行きたいんです。」と告げると、「寺社仏閣は5時までですよ。夕方は暗くなりますし、オススメできません。」と返された。
そうかも知れない、でも、赤コンニャクを捨ててまでしてここへ来た私は行くしかないのだ。
と、いう訳でバス乗り場を教えてもらい、北野天満宮に向かった。しかし、バスに乗る間に日はどっぷり暮れて夜になる。

 天正15(1584)年の豊臣秀吉主催の北野大茶会のイベント会場だった北野天満宮。森忠政も、金山の茶人・ 鳥屋尾不省(読めん!)を伴って参加し、金山の水を用いた茶を立てさせた。
 ラッキーなことに楼門はまだ開いていて境内に入ることができたものの、暗がりの中では、そのお茶会ロマンの痕跡がよく判らない。本殿までの中門(三光門)は閉ざされてもう入れず、薄暗い境内をぐるりとひとまわり。
北野天満宮楼門
夜なのにすごいぞ、高感度カメラ!!!
まさか、わがデジカメにこんな機能がついてい
たとは夢にも思わず。
北野天満宮ご朱印
北野天満宮は、菅原
道真公をお祀りした神
社の宗祀。


 幸い社務所は電気がついていたのでご朱印をいただく。その時にちょうど、楼門も閉めるという放送が流れる。あわわ!!北野茶会イベント会場を確認できない!!!Σ(゚□゚;
 ところが、いただいたパンフの境内案内図を見れば楼門の外の駐車場辺りが大茶会会場だということで、天満宮の営業時間にかかわらず、茶会会場だったであろう場所は門外で24時間自由に見学できたのだった。北野大茶会の石碑と、茶の水を汲んだという「太閤井戸」を確認。行きも通っただろうに暗くて気づかなかった。もうすっかり夜ではありながら、門の外に出て「写れ!」と、全霊をこめたフラッシュ撮影に挑む。

太閤井戸
茶会イベントでこの水を利用したと伝わる。
境内には「三斎(細川忠興)井戸」もある。
飛びこみ禁止。
  北野大茶湯の碑
茶会イベント会場を求めて天満宮
境内をさ迷ってみると、実は表の
駐車場がかの地だった。

 
 北野天満宮の前の信号を渡ると、何という奇跡か、豆腐屋さんがあってコンニャクも並び、なんとその中に赤いものが並んでいた。
「これ…近江の赤コンニャクと同じものですか?」とお店の人に尋ねるとそうだとのこと。
天はまだ我を見捨てていなかった…。赤というよりピンクなんだけど、お店の人が赤コンというので158円で自分土産に赤コンを買い、ビニル袋に入れてもらって嬉々としてバスに乗る。

 バスから二条城のライトアップが見える。帰りの夜行バスまでまだ時間があるのだからと、夜の二条城に降りてみる。

日本の歴史には二条城が4タイプ存在する。存在した場所もみんな別のところ。

@優しくてお金持ちの織田信長が貧しい足利義昭のために造ってあげた二条城
Aカッコいい信長がお泊りに使っていたけど、後に誠仁親王にプレゼントした二条城
B豊臣秀吉が聚楽第を造るまでの政庁として造った二条城
C徳川家康の宿所として造られた二条城(これが現存二条城)。

さて、本能寺の変で織田信忠が篭った城は?と言われれば、A。
妙覚寺で本能寺の変を知った織田信忠が、住んでいた誠仁親王一家に出ていってもらって篭ったのがこの二条城だった。
 もはや夜で、道は暗いし、雨も降り始めたけど、悔いが残るといけないので、この信忠討死の場所に行ってみることにした。赤コンニャクもプルプル言っている。
 烏丸御池にあったAの二条城の名残を求めて室町通りに行って、何か無いのかとしつこくウロウロしていると、公認会計士事務所の玄関前にやっと石碑を発見!!
文字は読みづらいけど、「二条殿御死跡」。
ああ、ここで信忠が死んだんだ…ウンウン(TT)。とか思ってたそがれてその場を去った後に、「え??”御死跡”って、意味おかしくない???」と、文字の読み間違えに気づいてまた雨の中、石碑を見に戻る。「ああ…二条殿御苑跡」か…。と納得して帰ったものの、家に帰って確認したら、実は石碑には「二条殿御池跡」と書いていたようだ。信忠が亡くなった二条城には素晴らしい庭園があったそうな。

二条殿御池跡
織田信忠終焉の地。玄関開けると2分で謀叛

 ついでに近所で夕食を済ませ(あの店のご飯はマズかった…本当にマズかった…)。地下鉄で、烏丸御池駅から京都駅に戻る。そして私は駅構内で道に迷ってウロウロ。気づけばバーゲンでリュック70%オフを買いながらJR駅方面がわからず地下街でウロウロ。リュックをしょった私が新リュックと赤コンニャクを持って何をしているのだ!!!こ、これぞ魔界都市京都!
 地下で迷った時は地上に出ろ。外に出てランドマークを確認しつつ、ようやくJR京都駅に戻る事ができた。
それにしても夕食が激しくマズかったので、クチ直しに八条口の祇園辻利(ぎおんつじり)で抹茶ソフトクリームを食べる。そしてグランドフィナーレは駅ビルの屋上に行って、変な動きをするイチャイチャバカップルを尻目に京都の夜景を楽しむ。

 結局、こうしてまる1日歩きっぱなし。そして、バスの中で再び腰痛にさいなまれる我。
それでも、心は満ち足りて、行ってよかったと思う我。