忙しさのせいで、今回の旅は無理と判断していたけれど、やっぱり森家の事ともなると、行きたくて、行きたくて、徹夜もどきを繰り返して仕事を片づけ、フラフラで名古屋に出てきた(到着すると元気)。まずは長久手へ行きたくて長久手。
リニモに乗り、はなみずき通り駅で下車して、常照寺の三将(森長可・池田常興・池田之助)の墓にお墓参り。見上げれば空は青い。
「急ぐ旅ではなし、このまま武蔵塚まで歩いてみよう♪」
と思い立つ。歩けばきっと、リニモでは見えない世界が見えてくるかも知れない。キッ●ロの残骸とか転がっていそうだ。
長久手の「久手」という名は”山間の湿地”という意味なのだそうで、その地名の通り、長久手は、長く連なる湿地帯で時には水たまりなどがある足場が悪い場所であったらしい。
森長可が、味方の救出に長久手へ戻った時には、徳川軍は湿地が手前にある足場のよい高地_前山、御馬立場、仏ケ根というベストポジションに布陣していた。あとは、布陣に適さぬ水たまり、ため池、田んぼ…それを見た長可はどんなにかショックだったことだろう。それでも、一時は徳川軍を混乱させ、追い詰めるほどに果敢に攻撃した。
長久手に向う道沿いには、現代アートなモゴモゴしたオブジェや、正方形のオブジェが点々とあった。税金なのだろうか、税金なのだろうな。
しばらく歩けば、小川の流れる散歩道・せせらぎの径を見つけ、そこを通ればツツジも鮮やかに花を咲かせ、ベンチや句碑・歌碑がいくつもあった。住所は「城屋敷」。やや、もしや?!と思えば、長久手城跡があった。長久手城跡に行ったのは久しぶりのこと。
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長久手城跡
加藤さん宅。(建物は1層式天守閣ではなく、
城主の守り神の観音さまをお祀りする為に
近年建設された観音堂。) |
小牧長久手の戦いの当時・長久手城主の加藤常景は、嫁の実家の岩崎城に加勢に行って留守だった。
前回の旅で岩崎城にも行ったので、その時の状況をよく学習して改めて長久手城に来ると、以前気づかなかったことにも目が留まり深い理解につながる。
その時、気になったのは『当時の長湫邑(ながくてむら)の戸数(こすう)は16戸だったと言う。』という説明。
…それはまぁ、以前から本で読んで知っていた。でも今深く思いをめぐらすと、この長久手城の城主は、たった16軒の家のボスということなのか…?(−−;)
まさか、そんなハズはないと言い聞かせつつ(どなたかご教示ください。)、でも、縁戚関係の岩崎城の丹羽氏も当時は土豪レベルだから、加藤家も長久手の組合長って感じでOKなのか?
長久手城は城と称する規模でなくて、頑張って館くらいなものだろう?
城の定義がわからなくて己の知識不足に考えこみつつ城跡を歩けば、徳川さんの筆による見事な「長久手城跡」の片隅に、もっと古い石碑があって「加藤太郎右衛門景常宅跡」と書いていた。
ちょ…ちょっと!!!それは言いすぎじゃ????(でも、実際はそんなレベル?)
それから、近所の血の池公園と、鎧掛けの松にも寄ってみた。
兵士らがノドを潤し、また武具を洗って血の色になったという血の池(今は池はなくて公園になっている。)
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血の池公園
よい子は元気に血の池公園で遊ぼう!! |
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鎧掛けの松
池で洗いもの中はここに鎧をかけた
という。本物は枯れて、新しいのが
植えられている。 |
さぁ、その後は念願の武蔵塚へまっしぐらに駆けてゆく。朝の透き通った空気の中でのご対面。
今回、急ぐ旅ではなし、木漏れ日の中、ゆっくりと武蔵塚のお参りをして、森公遺蹟碑の漢文もすべて書き写し、あとは塚の周りのヘビイチゴ(毒)を眺めたり、小高い場所に登ったりして、長可を偲ぶ。
6月2日のこの日は、蘭丸・坊丸・力丸のご命日でもある。
13歳の時に父を失ってから、森家の当主として苦労の連続だった長可の人生。ようやく幼い弟たちもたくましく成長して頼れる存在となり、男同士の話もできるようになったという頃に、その弟達は地上からあっけなく消え去った。
その後の長可がここ長久手に斃れるまでの日々は、あまりにも無理と自虐に満ちているようで哀しい。
武蔵塚で時を忘れて過ごして陽は上に。眩しい日差しに眉間が焼けつく___。
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武蔵塚
6月2日。この日、君の最も大事な宝物が
地上から消えた。 |
森公遺蹟碑
森家子孫の手で明治に設置された碑石。 |
暑さにクラクラしながら、電柱の日蔭に身を隠してバスを待ち、長久手からコミュニティーバスに乗って岩崎城へと移動。
三河奇襲をもくろむ森長可が池田恒興とともにこの岩崎城を襲って、城兵を全滅させてしまった。ここに長久手城の加藤景常もいて、城代となっていた16歳の丹羽氏重をサポートしていた。
私が2ヵ月前に岩崎城に来た時は、途中で時間が足りなくなったので、またここへ寄ったのだ。
今回、時間はたっぷりととってある。城内にある岩崎城歴史記念館も、小さな展示ながら、ものすごーーーーくものすごーーーく時間をかけてゆっくりと見た。合戦ジオラマのボタンというボタンはすべて押して、端から端まで堪能し、「岩崎むかしばなし」ビデオも全部見て、全話マスターした。受付の人が覗きにきたのは、私が出てくるのが余りにも遅かったから、ぶっ倒れていると思ったのか?
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丹羽氏重像
資料館内で馬にまたがる銅像少年。
池田・森軍の行く手に立ちふさがり、壮絶な討
死を遂げた。 |
学芸員さんに、首実検の行われた(伝承の域らしい)六坊山の場所を尋ね、
更に丹羽家の菩提寺にお参りしたいと行き方を相談すると、無料の観光案内音声ガイドを貸し出してもらえたので、首に音声ガイド本体をかけてイヤホンを耳に当てつつ城外へ出る。あとで、音声ガイドを首にかけて表を歩きまわるのは超・ダサダサな事に気づいて本体はバッグに入れてイヤホンだけ出して歩いた。
丹羽氏重(16)の討死場所と伝承される所を通り、菩提寺の妙仙寺へ行ってみる。
岩崎むかしばなしによれば、「丹羽氏重は、今は妙仙寺で静かに眠っておるのじゃ。」とのことなので、その勇敢な少年のお墓参りにと思ったのだ。
…って、墓地に入っても、目印は無し、どれが氏重のお墓なのかわからない。ようやく丹羽家の墓エリアは理解したが、肝心の氏重の墓がわからない。どれ〜?!
炎天下で汗に溶けつつ音声ガイドを聴いてみたけど、
『丹羽氏重の墓は、丹羽氏清の墓の土台として使われています。』
の音声ガイドの意味がわからなかった。
いや、理解してしまうと、氏重があまりにも哀しいので私が理解したくなかっただけかも知れない…。
タッチの差で星ケ丘行きバスに乗り遅れ、日進駅に向うバスを選ばなくてはならなくなった。そのバスを待つに日蔭のない炎天下、私は焦げ始める。
遠回りしてかなり時間をロスしながら名古屋駅に出てコインロッカーの荷物を取り、焦って兼山に向おうとするも、緊急停止ボタンが押されて乗っていた列車が止まる。
「ただいま、車掌が確認に出ています。」
うわぁああん!車掌が列車から飛び出ていっちゃった!!早く帰ってきて!!!
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可成寺
明日の準備万端! |
蘭丸絵はがき展会場
展示の一角。思いのこもった作品がならぶ。
私の2作品は、右から6列目の上下で、
上が森可成+蘭丸。下が森長可のイラスト。 |
兼山にたどり着いたのは夕方。森家の菩提寺の可成寺にお参りした。また兼山に来させてもらえた感謝と、それが、このご命日であることへの感激の思いで墓前に手を合わせる。
可成寺では、すでに明日の供養祭の準備が整っていた。心が騒ぐ。やっぱり、やっぱり頑張って来てよかった。
…しかし、上には上がいるものだ。
明日の供養祭に出席できないので、今日日帰りで参上(関東から)という、イベントでは顔なじみの知人や、そのお友達(私もお世話になっている)と遭遇して、しばらくお話した。
お別れした後は、古文書の師匠の家でご飯を食べさせてもらい、また歴史話に花が咲く。
本日のしめくくりに、今年で2回目となるイラスト展『蘭丸絵はがき展』の会場へ向かう。
蘭丸振興会の鶴丸様〔URL〕の特別解説つきで作品を拝見することができた。
それぞれの森蘭丸(森一族)のイラストの数々には、どんなにかこだわりを持って色を選び、丁寧に丁寧に思いをこめて作品を完成させたかが見て取れて、
「なんだか、1日中でも眺めておれますね。」とお話したものだった。
蘭丸振興会では、寄せられたみなさんの出品作品を大事に扱ってくださっていて、こんなに大切にしてもらっているのだと知ると、みなさん感激するだろうな〜と思った次第。
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【 うききの出品作 】 |
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『森可成”わが宝”』可成&蘭丸 |
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『鬼武蔵』 |
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夜、ようやくホテルに帰った。明日のためにさっさと眠ればいいのに、どうしても今日着ていた服の汗だくぶりが気になり、夜中にバスルームで洗濯してしまい(本当は木曽川で洗濯してみたかった)、眠気と戦いながら洗濯物にドライヤーをあてて乾かした。(自然乾燥できそうになかったので)。
ブォオオオオオオオオオオオオ〜ン。
ペチペチ。
「まだか…。」
ブォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ〜。
ペチペチ。
蘭丸よこれが私の、1週間の仕事です、テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャリャ〜♪(ばたっ。)
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