森蘭丸兼山の人口密度を高くさせる
                                    

                                 2007年 in 尾張・美濃 

長久手せせらぎの径で句碑発見!
6月2日(土) ヘビイチゴの実るころ、あなたに会いに行きます。
 忙しさのせいで、今回の旅は無理と判断していたけれど、やっぱり森家の事ともなると、行きたくて、行きたくて、徹夜もどきを繰り返して仕事を片づけ、フラフラで名古屋に出てきた(到着すると元気)。まずは長久手へ行きたくて長久手。

 リニモに乗り、はなみずき通り駅で下車して、常照寺の三将(森長可・池田常興・池田之助)の墓にお墓参り。見上げれば空は青い。
「急ぐ旅ではなし、このまま武蔵塚まで歩いてみよう♪」
と思い立つ。歩けばきっと、リニモでは見えない世界が見えてくるかも知れない。キッ●ロの残骸とか転がっていそうだ。
 
 長久手の「久手」という名は”山間の湿地”という意味なのだそうで、その地名の通り、長久手は、長く連なる湿地帯で時には水たまりなどがある足場が悪い場所であったらしい。
 森長可が、味方の救出に長久手へ戻った時には、徳川軍は湿地が手前にある足場のよい高地_前山、御馬立場、仏ケ根というベストポジションに布陣していた。あとは、布陣に適さぬ水たまり、ため池、田んぼ…それを見た長可はどんなにかショックだったことだろう。それでも、一時は徳川軍を混乱させ、追い詰めるほどに果敢に攻撃した。
 長久手に向う道沿いには、現代アートなモゴモゴしたオブジェや、正方形のオブジェが点々とあった。税金なのだろうか、税金なのだろうな。
 しばらく歩けば、小川の流れる散歩道・せせらぎの径を見つけ、そこを通ればツツジも鮮やかに花を咲かせ、ベンチや句碑・歌碑がいくつもあった。住所は「城屋敷」。やや、もしや?!と思えば、長久手城跡があった。長久手城跡に行ったのは久しぶりのこと。
長久手城跡
加藤さん宅。(建物は1層式天守閣ではなく、
城主の守り神の観音さまをお祀りする為に
近年建設された観音堂。)

 小牧長久手の戦いの当時・長久手城主の加藤常景は、嫁の実家の岩崎城に加勢に行って留守だった。
 前回の旅で岩崎城にも行ったので、その時の状況をよく学習して改めて長久手城に来ると、以前気づかなかったことにも目が留まり深い理解につながる。
その時、気になったのは『当時の長湫邑(ながくてむら)の戸数(こすう)は16戸だったと言う。』という説明。
…それはまぁ、以前から本で読んで知っていた。でも今深く思いをめぐらすと、この長久手城の城主は、たった16軒の家のボスということなのか…?(−−;)
 まさか、そんなハズはないと言い聞かせつつ(どなたかご教示ください。)、でも、縁戚関係の岩崎城の丹羽氏も当時は土豪レベルだから、加藤家も長久手の組合長って感じでOKなのか? 
長久手城は城と称する規模でなくて、頑張って館くらいなものだろう?
城の定義がわからなくて己の知識不足に考えこみつつ城跡を歩けば、徳川さんの筆による見事な「長久手城跡」の片隅に、もっと古い石碑があって「加藤太郎右衛門景常跡」と書いていた。
 ちょ…ちょっと!!!それは言いすぎじゃ????(でも、実際はそんなレベル?) 

 それから、近所の血の池公園と、鎧掛けの松にも寄ってみた。
兵士らがノドを潤し、また武具を洗って血の色になったという血の池(今は池はなくて公園になっている。)

血の池公園
よい子は元気に血の池公園で遊ぼう!!
  鎧掛けの松
池で洗いもの中はここに鎧をかけた
という。本物は枯れて、新しいのが
植えられている。

 さぁ、その後は念願の武蔵塚へまっしぐらに駆けてゆく。朝の透き通った空気の中でのご対面。
今回、急ぐ旅ではなし、木漏れ日の中、ゆっくりと武蔵塚のお参りをして、森公遺蹟碑の漢文もすべて書き写し、あとは塚の周りのヘビイチゴ(毒)を眺めたり、小高い場所に登ったりして、長可を偲ぶ。

6月2日のこの日は、蘭丸・坊丸・力丸のご命日でもある。
13歳の時に父を失ってから、森家の当主として苦労の連続だった長可の人生。ようやく幼い弟たちもたくましく成長して頼れる存在となり、男同士の話もできるようになったという頃に、その弟達は地上からあっけなく消え去った。
 その後の長可がここ長久手に斃れるまでの日々は、あまりにも無理と自虐に満ちているようで哀しい。
武蔵塚で時を忘れて過ごして陽は上に。眩しい日差しに眉間が焼けつく___。

武蔵塚
6月2日。この日、君の最も大事な宝物が
地上から消えた。
森公遺蹟碑
森家子孫の手で明治に設置された碑石。

 暑さにクラクラしながら、電柱の日蔭に身を隠してバスを待ち、長久手からコミュニティーバスに乗って岩崎城へと移動。
 三河奇襲をもくろむ森長可が池田恒興とともにこの岩崎城を襲って、城兵を全滅させてしまった。ここに長久手城の加藤景常もいて、城代となっていた16歳の丹羽氏重をサポートしていた。

 私が2ヵ月前に岩崎城に来た時は、途中で時間が足りなくなったので、またここへ寄ったのだ。
今回、時間はたっぷりととってある。城内にある岩崎城歴史記念館も、小さな展示ながら、ものすごーーーーくものすごーーーく時間をかけてゆっくりと見た。合戦ジオラマのボタンというボタンはすべて押して、端から端まで堪能し、「岩崎むかしばなし」ビデオも全部見て、全話マスターした。受付の人が覗きにきたのは、私が出てくるのが余りにも遅かったから、ぶっ倒れていると思ったのか?

丹羽氏重像
資料館内で馬にまたがる銅像少年。
池田・森軍の行く手に立ちふさがり、壮絶な討
死を遂げた。


 学芸員さんに、首実検の行われた(伝承の域らしい)六坊山の場所を尋ね、
更に丹羽家の菩提寺にお参りしたいと行き方を相談すると、無料の観光案内音声ガイドを貸し出してもらえたので、首に音声ガイド本体をかけてイヤホンを耳に当てつつ城外へ出る。あとで、音声ガイドを首にかけて表を歩きまわるのは超・ダサダサな事に気づいて本体はバッグに入れてイヤホンだけ出して歩いた。
 丹羽氏重(16)の討死場所と伝承される所を通り、菩提寺の妙仙寺へ行ってみる。
岩崎むかしばなしによれば、「丹羽氏重は、今は妙仙寺で静かに眠っておるのじゃ。」とのことなので、その勇敢な少年のお墓参りにと思ったのだ。
…って、墓地に入っても、目印は無し、どれが氏重のお墓なのかわからない。ようやく丹羽家の墓エリアは理解したが、肝心の氏重の墓がわからない。どれ〜?!
炎天下で汗に溶けつつ音声ガイドを聴いてみたけど、
『丹羽氏重の墓は、丹羽氏清の墓の土台として使われています。』
の音声ガイドの意味がわからなかった。
いや、理解してしまうと、氏重があまりにも哀しいので私が理解したくなかっただけかも知れない…。
 
 タッチの差で星ケ丘行きバスに乗り遅れ、日進駅に向うバスを選ばなくてはならなくなった。そのバスを待つに日蔭のない炎天下、私は焦げ始める。
 遠回りしてかなり時間をロスしながら名古屋駅に出てコインロッカーの荷物を取り、焦って兼山に向おうとするも、緊急停止ボタンが押されて乗っていた列車が止まる。
「ただいま、車掌が確認に出ています。」
うわぁああん!車掌が列車から飛び出ていっちゃった!!早く帰ってきて!!!
 

可成寺
明日の準備万端!
蘭丸絵はがき展会場
展示の一角。思いのこもった作品がならぶ。
私の2作品は、右から6列目の上下で、
上が森可成+蘭丸。下が森長可のイラスト。

 兼山にたどり着いたのは夕方。森家の菩提寺の可成寺にお参りした。また兼山に来させてもらえた感謝と、それが、このご命日であることへの感激の思いで墓前に手を合わせる。
 可成寺では、すでに明日の供養祭の準備が整っていた。心が騒ぐ。やっぱり、やっぱり頑張って来てよかった。
…しかし、上には上がいるものだ。
明日の供養祭に出席できないので、今日日帰りで参上(関東から)という、イベントでは顔なじみの知人や、そのお友達(私もお世話になっている)と遭遇して、しばらくお話した。
 お別れした後は、古文書の師匠の家でご飯を食べさせてもらい、また歴史話に花が咲く。
 本日のしめくくりに、今年で2回目となるイラスト展『蘭丸絵はがき展』の会場へ向かう。
蘭丸振興会の鶴丸様〔URL〕の特別解説つきで作品を拝見することができた。
それぞれの森蘭丸(森一族)のイラストの数々には、どんなにかこだわりを持って色を選び、丁寧に丁寧に思いをこめて作品を完成させたかが見て取れて、
「なんだか、1日中でも眺めておれますね。」とお話したものだった。
 蘭丸振興会では、寄せられたみなさんの出品作品を大事に扱ってくださっていて、こんなに大切にしてもらっているのだと知ると、みなさん感激するだろうな〜と思った次第。

【 うききの出品作 】
『森可成”わが宝”』可成&蘭丸
『鬼武蔵』  

 夜、ようやくホテルに帰った。明日のためにさっさと眠ればいいのに、どうしても今日着ていた服の汗だくぶりが気になり、夜中にバスルームで洗濯してしまい(本当は木曽川で洗濯してみたかった)、眠気と戦いながら洗濯物にドライヤーをあてて乾かした。(自然乾燥できそうになかったので)。
ブォオオオオオオオオオオオオ〜ン。
ペチペチ。
「まだか…。」
ブォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ〜。
ペチペチ。
蘭丸よこれが私の、1週間の仕事です、テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャリャ〜♪(ばたっ。)
  

6月3日(日) 供養祭:琵琶の音響く可成寺
 朝5:30起床。兼山に向う。
 兼山湊で清々しい気持ちで朝ご飯を食べていると、宝石の色したカワセミがスーッと木曽川に沿って飛んで行って、ひとりはしゃぐ。
 森家の可成寺にお墓参りに続いて、林家の常照寺へお墓まいり。お庫裏さまが外に出ていらっしゃったので、ご挨拶。毎度、イベントごとに私が早朝から出没するので覚えてくださったらしく、「いつもどちらからいらっしゃるのですか?」
「福岡県です。」
「えっ?!!」
ああ、何度聴いても嬉しいナァ、このリアクション。
そのまま、しばし墓話に花が咲いた。

 それから、金山城跡へ登ってゆく。今日は何を思ったのか、供養祭スペシャルバージョンでヒールのついた靴にスカートといういでたちなので山登りは大変だった。搦手は普通の土の坂なので、滑る滑る。こんなに滑るとは、さすが金山城は難攻不落の城である。この金山城、たとえ城攻めにあっても、ヒール靴をはいた兵士達では敵も味方もどんどん滑り落ちて太刀打ちできない。
もう変な筋肉を駆使して蟹の横歩きで山を降りた。
兼山湊
 経済にも敏感な森一族の恩恵で、江戸時代
も兼山は商業地として栄えた。
金山城跡
あなたのハートを揺さぶる石垣ゴロゴロ。


 再び供養祭の会場・可成寺へ。マンガ家の松山花子先生もいらっしゃっていた。甲冑軍団の方も、甲冑試着体験のお手伝い。
寺では、真っ先に団地猫さんが声をかけてくれ、一緒に話ながら供養祭開始を待った。
 RANMARU!掲示板でもお馴染みの愛平さん(私の歴史講演会in津山に関東圏からわざわざ来てくださったツワモノ)、Kijokazuさん(名古屋在住URL)もいらっしゃるとのことで、探して回る私は挙動不審。ことにKijokazuさんは今回が初対面となるので、目印をつけて来てくださることに。でも、見つけきれない。
「目印に緑のバッヂをつけた男性を見かけたら私に通報してください。」と、
勝手に可成寺・捜査網を張った。更に愛平さんはお一人だろうと勝手に思いこんでいた私は、1人参加の女性らばかりを見つめてますますの挙動不審ぶりを発揮していたけど、結局、愛平さんはお友達と一緒に訪兼してた。津山にて黒づくめで初対面の時と、まるで感じが違ったので、きっと視野に入っていても判らなかったなり。

 供養祭が始まり、読経の中、ご位牌を前に焼香する。
 人生の深みというものは、幸と不幸で計れないものだ。
森蘭丸の人生は、幸と不幸の両方が極めて激しかったからこそ、みなにここまで愛されて、こうして今も手を合わせてもらっているのだろう。
幸も不幸も御仏の技。たとえどんな状況にあろうと、ただただ自分の人生を生きぬいた君は、ますますかぐわしき華のよう。

 琵琶の音色に酔いしれ、続く歴史講話を聴いていると、小さな男の子が私に寄ってきて、白いビニル袋を差し出してきた。爆発物?
ふと後方を見ると、その親がいた!関東の住人、瀬田隆一[URL]さんだ。
また、今回も東名高速を駆けぬけて兼山まで来た模様。
「わぁ、何かなぁ?」と、ビニル袋の中を見ると、”目玉の親父汁”と”ネズミ男汁”。
 瀬田さんは、供養祭会場にミセス●イドを大箱ごと持ってきて、兼山の知人に「はい、お土産。」と渡す優しい人。
昨日も兼山に来ていたふじさんとも会場でお会いした。

可成寺
 供養祭なので、本堂には鶴丸紋の垂れ幕が
かかる。境内の木々も鮮やかな色。

 「Kijokazuさんらしき、男の人が今入り口に。」と、教えてもらい、門にいる男性のえり首を確認すると、あった!緑のバッヂ(エスペラント語話者の印)!!でも、日本語で会話。
ようやく無事にみんな揃って兼山烏峰太鼓を聴いて、供養祭は終わった。
 軍勢はいったん墓参り組(+甲冑着つけ)と、イラスト展(+資料館)組のニ手に別れて、再び合流。お昼ご飯にしよっか、ということになった。

Kijokazuさん:「ぼくは、金山城跡に登ってきます。廃線(八百津線)も見たいですし。」
うきき:「え?廃線って…もうレールもないですよ?」
それもご承知の上らしい。列車には興味が無い私には、レールも取り外された場所から涌き出る魅力がナゾだけど、私もよく
「あの城跡にはもう何も建造物はおろか、遺構も残ってないですよ。」
と言われても、つい引き寄せられてUFJ銀行にも行って、センチメンタルジャーニーしてしまうのだから(どこの城の話だ!)、同じようなものなのかも知れない。
 Kijokazuさんと別れ、残りのメンバーで、車に乗って森長可の首が葬られたと伝わる帷子の真禅寺に行くことにする。その前にお昼ごはん。
瀬田Jr.爆弾が炸裂、そばをわしづかみする中で、私は味噌煮込みうどんに舌鼓を打つ。

 いよいよ車3台で真禅寺へ向うことになるも、誰も自信を持ってナビできる人がいない。
アテクシは真禅寺には何度も行ってるから…近くまで行けば、道を思い出すかもNE!(いつもそれで痛い目に遭ってるくせに!!!!)
 かくして、団地猫さんの車に私が乗りこみ、団地猫カーで、あとの2台を先導する。後ろの2台は忠実について来てくれる。たとえ団地猫カーが、入る道を間違えて可児市役所で意味不明な旋回運動をしても、その通りに旋回してくれる。
 しかし、途中で団地猫さんと私の意見が「右」と「左」で別れた。結局、こうなるのだNE!
 ふじさんが道順を思い出してくれ「私、わかります。」と、ナビを買ってでてくれた。そして先導するふじさんの車は、右でも左でもない道を選んで進んでゆく。団地猫カーは、最後尾でみんなの車の後をついてゆく。そして念願の真禅寺にたどり着く。

 ここで、私は汚名挽回だっ!墓ナビならできるので、張り切って長可の墓地を案内して山に入り、率先して、クモの巣にひっかかって断末魔の叫びをあげる。 
 愛平さんとお友達も、そのままジャニーズのコンサートに行って差し支えない”いでたち”ながら、お寺の山中の暗がりで神妙に戦国武将・森長可のお墓参り。
瀬田さん:「前、私が来た時、あの五輪塔のテッペン(欠如)に、代りにペットボトルが鎮座ましまし…」
聴きたくない!!!そんな話、聴きたくないぃいいい!!!

 真禅寺駐車場でふじさんと団地猫さんとはお別れ。
瀬田さん:「ではみなさん、よいお墓を(別れの挨拶らしい)!」
私は瀬田さんの車に乗せてもらい、愛平さんとそのお友達の4人で兼山へ帰国することに。レッツゴー!!!
 

真禅寺
 鳩吹山のふもと、びっくりするほど境内は広大。
墓入居者募集中!!
(でも、長可の隣には眠れません。)

瀬田さん:「って、右折、左折、どっちよ?」
うきき:「さぁ?」
(単に、もと来た道を戻ろうとしているだけなのに誰も判らない。)

 信号待ちにちょうど前にいたのがふじさんの車!!!これぞ天の助けなり!!ふじさんめがけてクラクションを鳴らす(迷惑)。何も尋ねないで大手を振っているうちに、ふじさん、窓からサッと手で右方向を指し示してくれる。賢い人って好きだなぁvv
右折。帰途につくふじさんも右折。しばらくすると、また分岐点。
「…で、その後はどっちよ?」
「さぁ?」
私達が右折レーンに入ってみると、左折レーンのふじさんが笑顔でバイバイの手を振ってくれる。
「やった!!!合ってる!どうやら右折で合ってるッぽい!!!」

 その後、私がルートに一切口出ししないことで、無事、兼山へ帰り着く。
 常照寺にお参り。その後はそれぞれ、思い思いにはじけることにして、妙向尼の墓前で愛平さんとお友達、瀬田さんと旅のお別れ。また、秋に兼山で会おうね。
 私はその後、一人で行動し、最後の訪問場所の師匠の家に向っていると、金山城跡に登ったはずの愛平さんたちが梅園さんで菓子を買いまくっていた。(ーー;
お店には瀬田さんもいて、
「いやぁ、この前は家に帰り着く前に蘭丸もなか20個ぜんぶ食べちゃってさ。」
……………………………。それに対して私は、可愛らしく少量のお菓子を買い、みんなともう一度、旅のお別れをした。お蔭さまでいつになく賑やかな旅で楽しかった。

 その後、伊藤酒造さんで蘭丸のお酒を買って、師匠の家にご挨拶向かう(酒は自分用)。その前に鶴丸さんにもお会いしたので、お礼とお別れのご挨拶。

鶴丸さん:「今日のうききさんは、本当に楽しそうでした。」

 楽しいですよ…。楽しいですとも…。
森家の故郷で、同じ価値観を理解しあえる人々と一緒に朝から晩まで森家漬けで過ごせて、私はどれだけ幸せ者なのだろうかと思うもの。

だから私は、また森家の地に足を運ばずにはいられない。