いきなりの残業のせいで、髪の毛から水をしたたらせ、キャリーバッグを抱えて、猛ダッシュで夜行バスに乗りこんだ。そんな昨夜の私は奇跡。
早朝に名古屋に到着。今日は午前中に伊勢長島に行き、その後ゆっくり長久手古戦場の武蔵塚にお参りの予定だったけど、あまりの満開の桜に不安になる。桜の園にある武蔵塚に昼どきになんて行けば、きっと森長可は花見の軍勢に取り囲まれていることだろう。ゆっくりと武蔵塚をお墓参りするためには、早朝に行っておくべし。
まずは、リニモはなみずき通駅下車で常照寺の三将の墓(森長可・池田恒興・池田之助)をお参り。
いつもなら次は、長久手古戦場駅に向うのだけど、今回は、ひと駅前の杁ヶ池公園駅(読めない!)で下車して、森長可が陣を敷いた岐阜岳を散策しながら長久手古戦場に向う。岐阜岳は、宅地開発で昔とは全く様変わりして地名も「喜婦嶽」というややこしい漢字になってしまっている。ここには史跡としての目標物がないので、喜婦嶽公園の写真や、電柱の住所標識を撮って回った。もし、怪しがられて「そこで何をしている?!」と人に問われても、事情を完璧に説明できる。
森長可は、池田恒興、堀Q秀政、三好秀次と共に、敵にはナイショで徳川の本拠地・三河へ奇襲しに向っていた。その時、ちょっとコンビニ気分で寄ったのか、池田軍と森軍で道なりにあった岩崎城を攻め落としにかかった。おかげで後ろの堀軍と三好軍は前進できない。
「ちょっとぉ〜。前ぇ〜、何やってんのぉ〜?」
最後尾の三好軍が朝ご飯をとっている時に、徳川軍に食いつかれ、総崩れとなる。実は、三河奇襲の企てはバレバレで、徳川軍に跡をつけられていて逆に奇襲されてしまった悲劇。
池田恒興や森長可らが岩崎城を落城させて首実検中をしている時に、堀Qからの連絡で三好軍のピンチを知る。
池田軍と森軍は急いで軍を引き返し、三好軍の救援に向ったのだった。
森長可はそこで小牧山にいるはずの徳川家康の馬印が長久手の富士ケ根にあるのを見て(゚.゚)、とりあえず岐阜岳に布陣して、池田軍が来るのを待つ。
…と言う訳で、こうして私は喜婦嶽の地名の写真を撮っているのだ。
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岐阜岳
岐阜岳だけに、この公園のベンチで義父(恒興)
と待ち合わ(ばきっ!) |
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春の武蔵塚
花も誇らしげに咲き渡りたり。
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さて、喜婦嶽を抜けてたどりついた武蔵塚。満開の桜に囲まれて美しい。桜の木々は森長可の哀しい生涯を称えるが如くに咲き誇る。私しかいなかったので、この幸せを独り占め。
勝入(池田恒興)塚・庄九郎(池田之助)塚にもお参りし、長久手町郷土資料室にていつもの合戦ジオラマを体感して、「ぐるりんバス」で長久手から岩崎城へ赴く。
日進市の岩崎城。
この無視すべき小城からのしつこい攻撃に怒った池田恒興が城を攻めて時間を食ってしまい、そのせいで三河奇襲が失敗したとされてる。
ごめん…森長可も一緒になって攻撃してました〜。
でも、私達は結論を知った上で歴史を振り返っているのだ、その時の状況下では、決して愚かな判断ではなかったかも知れない。きっとこれには深い訳があったのだ。

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岩崎城
兄・丹羽氏次の留守を守っていた氏重が、敵(
豊臣方)の通過を見過ごせずに攻撃をしかけ、
落城に追いこまれた悲劇の城。
そんな城内では「日進市の植物展」開催中だった。 |
城内の岩崎城歴史記念館にも、ボタンひとつで合戦のすべてがわかった気になれるジオラマがあり、要約すると、「三河中入り(奇襲)は、速やかな行動が要求されるため、秀吉があれだけ寄り道すんなと言ったのに、池田恒興はつい岩崎城を攻撃して時間を食って結果として死んだ。」と、森長可のお義父上・池田恒興がマヌケっぽく描かれている。
ここで購入した『岩崎城の戦い』という本にも
『しかし、二流武将の悲しさ、恒興は最悪の…大局を忘れた戦い…無駄な時間…その上、恒興は…ルルルルル〜ルルルル〜♪』
と書かれていて、人様には色々な事情があるんだよぅ!!と叫びたい。
岩崎城内にある空掘などの遺構を見る。岩崎城に来て初めて知ったのだけど、この城を守り、池田や森をはじめとする2万5千の大軍に向って手持ち300の兵で戦をしかけたのは、16歳の丹羽次郎氏重という少年だったのだ。
たとえ敵がどんな大軍でも、見過ごすのは末代までの恥。この少年のプライドが、日本の歴史を変えてしまった。人には無謀だと判っていてもやらねばならぬ時があるのだ。人はそれゆえに美しい。岩崎城は敵軍の海の中で全員討死し、落城する。
もし、池田や森の軍勢が岩崎城で足止めを食わずに三河奇襲に成功していれば、三河の町を放火したり、城を乗っ取ったり、八丁味噌に腕を突っ込んだりして、うまく家康の動揺を誘う事ができたであろうか。
岩崎城は落ち、池田や森も長久手に斃れ、歴史は黙して語らない____。
岩崎を後にして、バスと地下鉄を乗り継いで、庄内緑地公園駅へ。
お次は、森可成の戦った稲生の合戦の地を求めて道に迷った。
緑地公園に入らねばよかったのだけど、桜が美しくてついフラフラと入りこんでしまった。桜並木を縫って稲生に向うはずが、公園内のサイクリング1周コースをなぞってまたスタート地点へ戻ろうとしていた。だいぶ遅めにそのミスに気づき、公園を脱出して庄内川を越えようとすると、橋がない。稲生の地は川向こうなのに橋が見当たらないとは最悪だ。最悪だと思っていたら、雨が降り始めて、もっと最悪だ。傘など持っていない。泳ぐか。
公園の花見客が突然の雨に、キャァキャァと撤去しはじめる中、私は、はるか遠くに橋を見つけて濡れネズミになりながら庄内川を渡る。岩崎城で入手した書籍が重くて肩に食いこむので、バッグを赤ちゃん抱えにして、とぼとぼと歩く。すでに1時間のロス。橋を渡りきると、石の父子が何か深刻な感じであった。
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庄内川そばの公園にいた石の父子。
父親の顔面が黒く汚れてるし、何やら訳ありの
ようだ。 |
稲生原古戦場(名塚1丁目)
町の狭間で頑張れ、稲生原古戦場!
名古屋駅からバスに乗ったほうが断然近かった
ぞ、稲生原古戦場!! |
さまよい続けてようやく名塚という場所(稲生にあるんじゃないんかい!)で、稲生原(いのうがはら)古戦場の碑を見つける。って、敷地狭っ!!!
戦はもっと広範囲に繰り広げられていたはずなのに、私はこの小さな一角を探して、不思議な大冒険をしたのだ。柴田勝家とかが織田信行を擁立して、織田信長を討とうとした戦い。森可成は、この時すでに運命の人・織田信長と共に生きていた。
この時も、これから先も、森家は織田信長を支えて、支えて、たまに叱られながら生きてゆくのだ。可成が死しても、子らが父と変わらぬ誠実さでそれを引き継いだのだ。はぁ、何と奥ゆかしくていい家族(涙)。
名古屋駅にもどり、森長可デビューの地、伊勢長島へ移動(JRは無人駅!!)。史跡めぐりのためにプリントアウトして持ってきた地図を広げれば、雨にうたれてインクがにじむ。
長島城跡を見て、長島城の大手門を移築した蓮生寺を見て、そしていよいよ雨は本降り。ようやくコンビニを見つけて飛びこみ傘を買う。
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長島城跡
織田信長が苦労して攻めこんだ城も今は学び舎。
画像のクロマツは、長島城(江戸期)の本丸の
南西隅に生えていたそうだ。 |
天正2(1574)年7月、信長の第3回長島攻めの時に森長可は織田信忠に従軍している。逸話では、勝手に1人で船こいで移動している森長可。
昔は船が必需品だった水郷輪中のミクロネシア状態の長島も、今は埋め立てられて様変わりしている。
願證寺境内には、長島一向一揆四百年追悼法要殉教の碑があった。当時、一向一揆の基地となっていた願證寺。本物は明治の河川改修工事で長良川に水没し、現在の願證寺は、寛永期に建立された祐泉寺が寺の名を改めたものだそうだ。
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願證寺
水浸しの田んぼに囲まれてウォーターフロント
の雰囲気をかもし出す。
戦国時代の願證寺敷地は長良川に水没。 |
願證寺境内
長島一向一揆四百年追悼法要殉教の碑。
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一日歩きつかれた上に、雨に体力を奪われたものの、まだ日没ではない。ここまで来たなら、桑名まで繰り出してみよう(ばたっ)!!
(これ以後、本日、森家あんまり関係なし):桑名駅から歩いて海蔵寺へ。
以前からお参りしたかった宝暦治水事件の薩摩義士たちお墓。徳川幕府に目をつけられた津山藩森家は、お江戸中野の犬小屋普請を命じられて散々なイジメに遭い、改易への道をたどるわけだけど、そのイジメの眼は、薩摩藩にも向けられた。
幕府:「毎年氾濫が起こる木曽川・揖斐川・長良川の治水工事よろしく。費用はモチロン薩摩藩持ち。あ、専門職人は雇っちゃだめだから。」
そのムチャクチャに薩摩藩では、抗議だ、戦だ、の声もあがったけれど、
「戦になれば民百姓が犠牲になる。ならば、この島津藩の仁義の心で水におぼれる美濃の人々をお救い申そうではないか。」
という家老・平田靱負の説得で、日本最大級の治水工事に挑むことになる。遠い九州から無関係の地にやってきた薩摩藩士らが水に潜って行う工事は難航を極めた上に、幕府の嫌がらせも重なり、過労死や病死続出。病気にかかった薩摩藩士は、他のみんなに迷惑がかかるから、と次々と自害。最終的に病死33名、切腹51名。そして、総指揮を取った平田靱負は治水工事の完了後に、薩摩藩にかかった膨大な負担と犠牲の責任をとって自害。(幕府の監視役も彼らに同情して2名切腹している。すさまじい世界だ。)
本堂で平田靱負像も拝観させていただくことができた。現在も河川流域には、各地に彼ら薩摩藩士を称え、お祀りする史跡などがあるらしく、パネルにして紹介されていて、時を隔てて今なお土地の人々に感謝されているのだな、と、なんか感動した。
津山藩森家だって…お犬さまの為に死に物狂いで頑張ったのに、犬の間で語り継がれることもなく、今となってはこの悲劇を知る犬もなし。誰にも感謝されてない…こっちは実りのないが故の悲劇。
ここまで来たので桑名城跡へ行く。せっかくの桜まつりもどんより雨の中、出店が並べど花見客があまりいない状態で、ただ、本多忠勝だけがM字開脚で迎えてくれた。お昼ごはんを食べていなかったので、りんご飴を買う。
桑名に来たからには、焼き蛤を食べるのが武士の勤め、と思ったのに、貝のくせに高くてやめた。みそ煮込みうどんを食べて、今日のお宿のある尾張一宮へ。
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本多忠勝シルエット
銅像が高いところにありすぎてフラッシュ届か
ず。徳川四天王のひとり。 |
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