森忠政美作国で調子づく
                                     2007年 in 津山 

かっこいいアングルありなん我はまた
君の姿に足止めを食う
3月9日(金) 美作や、久米の皿に、葬式パンが。   
  恐ろしくもこの度、私が講師として津山で森忠政を語らせていただける事になった…。

 自分なんかに務まるものなのかと不安に思いながらも、津山に行く度にお世話になっているメンバーにカッコイイ私の一面を見せて『今までうききの面倒を見た甲斐があった。』と思ってもらいたく、お引き受けした。

 なのに津山行きの前に私ときたら、ワードの原稿保存に失敗して16ページの文章を文字化けさせて今までの努力を一瞬にしてパァにするという妙技をやってのけた。意味をなしていた活字が、目の前ですべて「劫」と「□」に変わっていく光景を目にする驚きは、いるはずのない明智軍を本能寺で見てしまった時の驚きに似ている。
Σ(゚□゚;ノノ

文字化けした次の瞬間に
「うわぁぁ〜ん!!ハナちゃん[URL]何とかしてぇ!(号泣)」と津山に電話をかけて泣きつく始末。…カッコイイところを見せるんじゃなかったのか私?
ワードの達人のハナちゃんでも文字化けを修復すること叶わず、旅立つ前まで修羅と化して原稿をはじめから書き直すという作業をしていた私。

 そして、時は流れついに、津山行きの日を迎える。津山行きのバスで周囲を気にする余裕なく原稿片手にブツブツと練習。後ろの席の人がさりげなく席を移動していたのが印象的であった。
 津山に到着すると、ゆっきいさんと、よござんすさんがお迎えに来てくださっていた。
「うきき先生。」
「や、ややや!!先生なんてつけないでください!ぎゃ、ぎゃぁ!」
「じゃあ、うきき。」(いや…呼び捨てもしないでください…。)
 お二人と歓談しながら佐良山駅付近を抜けてゆく。古歌にも詠まれし”久米の佐良山”の地だ。
「久米の佐良山はどの山でしょうか?」と尋ねて
「佐良山という名称の山は無いよ。」とあっさり。Σ(゚□゚;
「強いて言えば、神南備山と(あとの山名思い出せぬ。)がそれに当たる。」と教わる。

 美作や久米のさら山さらさらにわが名は立てじ万代までに   (古今集)

 いつも津山へ向うJRの車窓から、「佐良山はどの山だろう。」とロマンチックに夢見てたのに。そんな私の目の前に現れし道路標識の地名が「」。佐良山イメージが遠のく…ロマンスの神様どうもありがとう…。

 建部(たけべ)の山高い場所にある豊楽寺(ぶらくじ)にお参りして史跡めぐりがスタートした。森忠政が慶長10年9月16日に津山城で執り行ったイベント「大般若経真読」に使ったお経はこのお寺から借り受けたものだった(その後、毎年貸し出し)。更に、お寺にある説明看板によれば、豊楽寺が破壊されていたのを忠政が復興してあげたとのこと。当時の大般若経が現存するか確認したかったのだけど、ご住職がいらっしゃらなかったので取りあえず名刺を残して帰る事になる。
「うききさんも、名刺、出して。」
「名刺なんて、そんなもん持ってきてないですよ。」

豊楽寺
天正年間に改宗を断って破壊されていたが、
寛永の頃、森忠政によって復興された。
円明寺
今回、2度訪問することになる。
忠政の娘・お松の菩提寺。


 お次は大原という所にある円明寺(えんみょうじ)に。訪問先の寺々は私が事前にリストアップしていたのだけど、津山中心街から遠く外れまくった場所に行きたいと注文をつけていた事に今更ながらに気づき、段々と……申し訳ありません。m(_ _;)m
 道すがら、明日の講演会の話になる。
「女性の講師は初めてじゃ。」
「え、そうなんですか?」
「でも名刺を持っていない講師も初めてじゃ。」
ガーン!!!!Σ(゚□゚;
ハナちゃんに電話。
「ハナちゃん!!名刺作って!!私の名刺作ってぇぇ!明日までに何とか!!(泣)」
…カッコイイところを見せるんじゃなかったのか私?

 行く先の大原は、宮本武蔵生誕の地(諸説あり)でもあり、武蔵関連の資料館などもあるようだが、「鬼武蔵」のほうでなくては興味が湧かないので、そのまま通過して円明寺に着く。
ここは23歳で亡くなった森忠政の娘、松さまの菩提寺。
 だけどまたしてもお寺はお留守だった…。名刺をお寺の飼い犬に預けるしかなかったが、名刺はまだ入手していないので、そのまま帰った。
  智頭(地名)を抜け、鳥取県にはみ出しながら、楽しい山道をグルグルと回って津山へと帰る。これまた私のリクエストで岩尾寺にお参りして中世の武将・山名忠政のお墓も確認した。森忠政と同じ名前を持つちょっと気になる武将。お墓はもう風化して亀裂が入り、ボロボロだったけれどもお参りできた。
「豊島石ですな。」
「拓本は画仙紙じゃないと。」
と、隣ではまったく別の次元の墓話が展開していた。

 古い木造の駅舎のある美作滝尾駅を見せてもらいながら(「男はつらいよ」の最終話のロケ地らしい)、津山の中心に戻る。
 森忠政の菩提寺の本源寺で明日の講演会の成功を祈念させていただいた。本源寺は森家の御霊屋(おたまや)の修復が行われている。この日、建築学の偉い先生がいらっしゃっていて、この御霊屋をご覧になるとのこと。幸運にも私までもがその現場に立ち会わせていただく事が叶った。
 先生を駅までお送りした後に、私は宿泊ホテルに戻って団地猫さんにお会いした。有り難いことに、今回、わざわざ私の講演を聞く為に東海地方から車を走らせ津山に来てくれたのだ。そして夜は津山のいつものメンバーと合流した。ハナちゃんや、ゆぅさん、みぃさんらと一緒に前夜祭。お酒を飲みつつ古文書コピーをひっぱり出したり、原稿をひっぱり出したり、とにかくもう森家の話題で湧いた。途中から、北海道帰りのハナちゃんJr.も飛び入り参加してくれて、宴の席に華を添えた(男子)。
 話の流れで、ゆぅさんが、「葬式で出たパンをいっぱいもらって帰ってきたりする。」と、いう話をしてくれたのだけど、一度は聞き流しながら、何故、葬式でパンをもらって帰るのか疑問に思って尋ねると、津山のメンバーみんなのほうが、「え…?」。
語らいの輪が二つに別れていたテーブルが、葬式パンの話題で、また一つになる。
「津山の葬式には、パンが出てくるよ。…福岡では違うの?」
「ええっ?何で葬式でパンが出るんですかっ!葬式には、まんじゅうじゃないんですか!」
 団地猫さんも、葬式には”まんじゅう”だと頷いていたので、私の言う組み合わせがおかしいわけではない。津山の奇習に違いない。
「パンが出てくるのが普通と思っていた…。」
「パン屋さんでも、”法事用のパンをうけたまわります”って張り紙でてるよ。」
”葬式パン”、それは、森忠政公入国以来の伝統か???
 団地猫さんが持参した創業慶長2年の犬山のお酒も飲み、優しい仲間に囲まれて、パンはなくとも楽しい前夜祭だった。ハナちゃんJr.には、北海道で鶴を生け捕ってきてもらえるようにお願いしたし。初日から幸せな気持ちでいっぱいだった。

 そして、ホテルの部屋で、明日の練習。直前の原稿の書きなおしもしたのだけど、夜中の冴えない頭ではうまくゆかず、時間がないのにどうしようかと困惑している時に、兼山の師匠から不意に携帯メールが届いた。
実は、今まで、師匠から携帯にメールが入るなんてことは一度もなかった。師匠はやっぱり私のことを心配してくれていたのだった。

『携帯番号変えました。登録よろしく(ピース)。』

…今日、このタイミングでそのメッセージなのね…。_| ̄|○
と、思っていると、また師匠から追加メールが入っていた。

『携帯番号変えました。登録よろしく(ピース)。』

Σ(゚□゚; 同じだし!!!
原稿の手直しも終わらず、語りの練習の時間もなく、ついに明け方になるとバッタみたいにクチから変な汁が出始めたのでびっくりして寝た。

めぐり会ひて君の頭に思いきり
アンコを詰めてみたいとぞ思ふ

3月10日(土) 津山で講師の日(かっこよくデビュー予定)。

いよいよ講演会当日。

 だけどやっぱり津山城跡に登らない事には津山に来た気がしないので、朝は団地猫さんに雑学(全部受け売り)を披露しながら津山城の中を散策した。
久しぶりのダイナマイトボディ忠政像にご挨拶。ドングリがお供えされていた。
 

津山城にあった、大変気になる軒丸瓦

  以前、津山城で教えていただいて感動したのは、石垣に掘られし軍配マーク(下の画像にあり)。築城当時のものだ。団地猫さんにもその感動を味わってもらおうと探したのに、軍配マークが見つからない!確かにここあったと記憶している場所にない!あまりのオシャレさに、誰かこの貴重な石を石垣から抜き取ったのでは…探し回る間にお迎えが来るお時間が迫って来たので、軍配を諦め城を下り、ホテルに帰ってスーツ姿に変身する。

スライドショー扉(津山城石垣軍配マーク入り)


 お昼ご飯を済ませて、いよいよ講演会会場のグリーンヒルズ津山リージョンセンターに入った。
与えられた控室で待機していると、ハナちゃんが夜なべをして作ってくれた名刺が届く。「ははぁー。m(_ _)m」と思わず頭が下がる。
…って、名刺を見ると”足パタ蘭丸”のイラストまで入っている!ちょ!ハナやん!!
この超カワイイ名刺を教育長さんを始めとする偉い方々にお渡しした(しかも勘違いして2枚ずつ!!)。

ハナちゃんお手製名刺♪

   講演会の後にサイン会をしましょうと、主催者側よりのお話が。昨日もご提案いただいたものの、お断りしていた。…だって…もし、サイン会と言いつつ、誰も私に寄ってくる事なく終わってしまえば、これほどいたたまれない事はない。あまりの恥ずかしさに、泣きながら久米ガンダムに乗り込んで九州に逃げ帰ることになるだろう。いや、足パタ蘭丸にオンブしてもらって、あやされながら九州に帰る!!!
 でも、何だか……話の流れでサイン会をすることにあいなっちゃった。
 用意された控室で待機するも、そんな特別空間って何だか私に合わないようでソワソワして仕方ない。落ちつかねば。
「あ、あのメトロノームは使っていいのかしら?」と、訳の判らない事まで口走り初めてた時点で全然落ち着きがない。
 落ちつこう。祖母(尼)に電話をかけてみる。
「おばあちゃん…私、もうすぐなのよ。うまくできるかしら?」
「今から加持祈祷をしてあげるから。上手く話せるのでしっかりなさい。」
控室という閉鎖された空間はやっぱり苦手なので、会場に出て来場者に溶け込みながら、その時を待った。このほうが落ちつく。
 津山メンバーの”しまちゃん”も忙しい中、かけつけてくれた。緊張気味の私を励ましてくれる。
「ここにいる人達は、みんなカボチャだからね♪」
「…というか、ほぼシニアの方ですね!」
 私の講演の前には教育委員会職員の方々による文化財報告会がある。憧れの先生らの報告会。いつもの私なら全身全霊で耳を傾けるものの、やはり今日は自分のことで気もソゾロ。
しかし、津山の心強い仲間も見守ってくれている。ここに来ていない知人たちも応援してくれている…かつ、九州では、祖母(尼)がリアルタイムで念仏を唱えて不動明王とかに加持祈祷してくれているのだ(汗)。大丈夫。

 ついに出番が来て檀上に登る。
「森忠政〜乱世を生き抜く〜」を語りはじめた。…”忠政よりも、お前がうまく生き抜けよ”という感じだが、実際に話し始めると、会場もスライドショーのために暗転して、緊張しなくなった。
 本題に入る前に、私がどんなに津山が大好きかお話ししたところ、会場から大きな拍手が起こった。ここで拍手が来ると思わず驚いたけどじんわり感動して、喜びとともに自信を持って先を続ける勇気が湧いた。今までこの10年以上をかけて森家を追い求め続け、集めてきた全国の写真をスライドで披露しながら、大好きな森忠政を語った。
…って、やっぱり私のすることには何かオチがつくのであって、スライドに何枚か系図を入れていたのだけど、大スクリーンでは文字が褪せて見えなかったのだ。画面がほぼ白い!!想定外のアクシデント!Σ(゚□゚;
…あるはずの系図スライドが真っ白な時の驚きは、明智軍に取り囲まれた本能寺で森蘭丸に
「でも、なぜか2ちゃんねる掲示板には既に昨日の時点で”明智ムホンキターー(゜∀゜)!!”の書きこみがあったらしいですよ。」
と教えられて、「今ソレ言われても、是非に及ばず。」という感じの驚きに似ている。

 ともかくも、いきなり系図無しで家族関係を話さねばならなくなってしまったので、しつこいほど「”兄”の”長可”が」「”お兄ちゃん”の長可が」「お兄ちゃんが」と、家族関係を主張しながらその場を乗り切ろうとした…。しかしながら、めっちゃ噛んでた。
 
  父の顔を知らない哀しい忠政。家族と死別し続ける忠政。妻を失い、子供を失う忠政。跡継ぎのいなくなった忠政。
 森家を継いだ忠政。金山を離れる忠政。川中島で領民たちと上手くいかない忠政。領民に厳しい忠政。天下分け目の合戦に参陣させてもらえず、しつこいほど関ケ原に行きたがる不安な忠政。美作国でついに父や兄も果たせなかった一国一城の主となった忠政。大坂の陣で、悪くないのに叱られてハリキリのテンションを落とされた忠政…。
 みんな、みんな、私の愛する森忠政。噛みまくったけど、それが上手く伝えられただろうか。
 講演の後には、サイン会。…ここが一番心配した部分であったけど、ちゃんと列ができたのでホッとした。何ていい方達なんだ!!久米ガンダムに乗らずに済んでよかった〜〜!!!
「また、津山へ来てください。」「今日の講演、私でも知らないことがありましたよ。」
「失礼ですが、おいくつなのですか?」
年齢ばっかり聞かれた気がするけど、励ましに対する感激が過ぎて「2003年7月」とサインする私。
 中には、わざわざ関東圏から来てくださった可愛い女の子もいて、どんなに感激したことか。
森忠政ゆかりの名字を持つ方もいらっしゃった♪
サイン会も終わり、会場には、関係者と、私の仲間ばかりになった。
「○○県から来てくださったファンという方もいらっしゃって…」と、ゆっきぃさんにお話すると、イキナリゆっきぃさんが、その子を探しに外へ突っ走って行ったので、私もつられて突っ走り、更に車に乗って捜索!よくわからないけど便乗!(見つかりませんでした。)
…一方、会場から忽然と姿を消した私を探すハナちゃんたち…置き去りにした荷物も預かってもらって…やっぱり私は締めくくりもカッコよさとは程遠い。

 ホテルに戻る。講演で自分の失敗した部分ばかりがグルグルと頭をめぐり、恥ずかしくてたまらず、後悔の念でベッドの上を転げまくっていた。もんどりうっているうちに、お迎えがやってくる。
 主催側の有志のみなさまが用意してくださった「うききを囲む会」の宴の席。有志の方々は私が津山の歴史や森忠政の事を学ぶ上でこれまで読んできた書物で名を知る方ばかり…私にとっては憧れの人々。あり得ない…めっちゃあり得ない。
 せっかくのチャンス、謙虚な女性を演出しつつも、私が解けない森家や歴史の謎を思いっきり質問させていただいた。
古文書や史料内容の信憑性の見極め方。森家や森忠政をめぐる様々な謎。戦場で面頬(めんぽお)をかぶった武将は日焼けするとパンダになってしまわないかという疑問点。もう、ありとあらゆる事を質問し倒した。
 2次会にまで及んで、その日を終える。 

3月11日(日) あなたと〜越えたい、杉坂越え〜♪
 津山最終日。今日はなごり雪も降っている。
「円明寺に再チャレンジしよう。」
…もう、あんな遠方までわざわざ足を伸ばすチャンスはもう無いかもしれない。ゆっきいさんの計らいで、ご住職にも会っていただける事になり、初日に留守で踵を返したあの円明寺へ再び。
 
 その前に、ちょっと津山市内を観光。美作二宮の高野神社。2代目藩主の森長継が再建したという。津山の史跡に行くと、どこにでも森長継の名がでてくる。あちこちの寺社仏閣に何か建てまくっているそのマニアックぶりに驚かされる。

 続いて院庄。太平記で名高い作楽(さくら)神社には、森家の家老である長尾隼人が建てた院庄碑が残り、漢字ばっかでよくわかんないけど、配流の身の後醍醐天皇を支えた備前の住人・児島高徳を称える。
院庄碑
長尾隼人の作った顕彰碑。
長尾家はもと、福島家の臣。
森家に再就職した隼人は家老にまでなった。
院庄碑の前の道
これも隼人の造った道。今はぶった切られてい
るけれど、昔はそのまま出雲街道へ続いた。


 近く、院庄にある晴眼寺は、院庄で名古屋九右衛門(山三郎)との刃傷事件で亡くなった井戸宇右衛門の菩提寺というので、もしや墓が残っていないかと探しに行ったけれど、ご住職不在で判らずじまい。次回の課題にと残しておいた。
 そして院庄入りした時の森忠政本陣跡といわれる場所へ。

森忠政本陣跡
後ろの建物はそれっぽいけど個人宅なり。
石碑だけ見て帰ろう。石碑を撮影しようと後ろに
下がると田んぼに落下するので注意。


 院庄を離れて、いよいよ円明寺のある大原へ向う。その途中、宴の話題に出た紫竹川筋違橋を見学。
忠政のお姉さんの鴻野さまが亡くなった時に、七仏事の追善供養で、紫竹川にかけられた筋違橋(今は鉄筋コンクリ橋)の向いの川に船橋がかけられたという。(具体的に何の為の船橋なのか謎は解けなかったけど)。
 そして車は走りつづけ藺田(いだ)川を抜ける。森家時代より計画的に造られた人工の川だ。ゆっきぃさんの説明で、私の知らなかった津山がゾクゾクと出てくる。西大番所(翁橋付近)のあった場所を抜け、円明寺リベンジ…その前にラーメンを食べる。

紫竹川(手前)と吉井川
吉井川には忠政が堤防を築いた。
しかし、森家が大好きだからと言ってこの水を
飲んだりしないほうがいいらしい。
藺田(いだ)川
森家の人工リバー。
この水で忠政(いい大人)が蛙釣りをして遊んだ
かどうかは不明。


  円明寺に到るといよいよ雪は斜め降り。ご住職の説明を伺いながら、忠政の娘の松さまの最期を知る。ご住職のお話では池田備中守長幸に嫁いだ松さまは、参勤交替の途中で志戸坂峠で亡くなり、そのご縁でこの大原の地に眠るという。元々は竜道寺というお寺に葬られたけれど、そのお寺が崩壊したので、円明寺に改葬、しかし、その円明寺も移転して現在の場所になったので、松さまのお墓はわからないそうだ。
松さまのご位牌を拝ませていただいた。
 帰り道。因幡街道を走り大原本陣跡などを車窓より見る。津山へ戻る道は、ゆっきいさんができる限り出雲街道を通ってくださった。帰り道は森忠政が美作国入りした場所に近い。忠政は播磨から杉坂峠越えで、吉野郡へお国入りし、宮本治郎兵衛さんという人の家に泊まっている。宮本武蔵に続き、また宮本さんだ…。
 ここまで来たならもう杉坂峠まで行っちゃえ!と、いうことになり、狭い出雲街道を走り、ちょっぴり兵庫県にはみ出して杉坂峠を踏んだ。我らはまさに今、忠政とまったく同じ道を遡る。峠の頂上は太平記の舞台として看板なんかがあったので車を降りてみた。
森忠政もこの峠に立ったのだ。忠政は、どんな思いでこの美作国を。

杉坂峠
手前の土の道はフィクションであり、アスファルト
道路のほうが旧出雲街道。
忠政もここを越えて美作国へ入国した。


 津山に戻る。松平時代の津山城の御殿にあったであろう竹の絵と反対側に鷺の絵の入った板戸を見せていただいた。今後の調査に期待。
 そして、この後、団地猫さんと元気にお別れした。

 そして私は津山城跡に登らない事には津山に来た気がしないので、そこをグランドフィナーレとする。
ゆっきいさんは、もうお城はいいじゃないかとおっしゃいつつも、結局一緒に登って案内してくださった。発掘で判った”トイレがあった場所”に立つ。ここで、いきなり江戸時代にタイムスリップしたら、私は即、便器に落っこちる訳だ。そしてゆっきいさん、人の登らぬ場所に登り、「これは国分寺から持ってきた石だ。」と示してくださる。
 昨日はどれだけ探しても見つからなかった石垣に施された軍配の彫り物も、ゆっきいさんが指さす場所にあるわあるわ。いくつもあった!!昨日もここを見たけど絶対に無かったのに。どういうことだ。
 旅のしめくくりに津山市郷土博物館にお邪魔して、また質問を繰り替えす。
しつこいけど、今度こそ旅のしめくくりで、突然にどうしても津山の地図が欲しくなり、アルネ(ショッピングセンター)まで車で乗せて行っていただいた。
 
 とうとう、ゆっきぃさんも私を去り、旅が終わる。だんだんと寂しさがこみあげつつ、お土産のいっぱい詰まったキャリーバッグを抱えてガスガスとエスカレーターを登る。ブックセンターで津山の地図を手に入れた。今回、私は津山の地名の位置関係がわかってないのがつくづく判ったので、もっと津山の地理を勉強しようと思う。

 そしてついに結びの地の津山駅にたどり着く。最後に、昨日別れたままのハナちゃんの声がもう一度聴きたくて、津山駅から電話する。
ハナちゃん:「あ、今なぁ、アルネに来とるんじゃ〜。」
Σ(゚□゚; ええええええええええええええええええええ!!!!!!!_| ̄|○
 この哀しみは、「オレ、津山森家がお取り潰しになったんで、赤穂の浅野家に仕官したんだ♪」というのに似ている(似てない)。

 毎度ながら、動き始めた津山の列車の中で一気に寂しくなって涙ぐむ。年齢は聴くな。日没後の佐良山のシルエットに見送られながら、大好きな美作が遠ざかる。

今回の旅は、私にとっては津山での大きな区切りとなる旅だった。
 幸せすぎて、本当に本当に…ここまで導いてくれた人々、お世話になった皆さんに感謝。こんな幸福を与えてくれた森忠政に感謝。
いや、本当に、将来もこの津山でのことを懐かしく振り返って、何度も夢ではなかったのだろうかと思うのだろうな。

美作の今日の夢こそ君ならで
叶わせてはくれじと思う