琵琶湖ひだりっかわ日帰りクエストin 滋賀敦賀 2006年9月17日(日)

                       

父よ、あなたの道を行く


 本数の激しく少ない貴重なJR湖西線に乗る。父の守りし宇佐山城跡を車窓より眺めつつ(悲しい哉、山頂の本丸跡にそびえるN●K鉄塔が目印)、叡山坂本駅に降り立つ。台風13号の影響を心配していたのだけど、天気は良好。
 天気予報がくもり時々雨だったもので、傘の心配ばかりして日焼け止めを持ってくるのをうっかり忘れていて、慌ててコンビニで購入し、ベッタベッタ塗りたくりながら車道の横のわずかな歩道を歩んで比叡辻までたどり着く。
 森可成が巨大な敵軍の海に呑まれて、鮮烈な戦死を遂げた比叡辻。その、悲劇の地に今は、ヤマト車検やら、ジョイフルなんかがカラフルに建ち並ぶ。宇宙戦艦ヤマトのイラストの看板如何せん。
 戦死した森可成のご遺骸を葬った天台宗の寺、来迎寺はそれが故に後の織田信長の比叡山焼き討ちの難を逃れて燃やされなかったという。かつて坂本城の城門だった山門をくぐると、可成のひときわ立派なお墓が目に飛び込んでくる。今日は墓にはススキが手向けられていた。
 厳(おごそ)かな気持ちで静かに手を合わせていたら、その手には藪蚊がドンドンとまってきて我を突き刺す。ウッキャー!!!
 同じ境内には、織田信忠の室・寿々の方のお墓もある。信長の孫・秀信のご母堂であるというのに、可成よりは遥かに小さく寂しい墓石だった。また藪蚊が寄ってくる。ウッキャー!!
 空を見上げると、初秋の空は果てしなく澄んで高い。
父よ、あなたは偉大であった。

来迎寺森可成墓石
と、空。

                     ママチャリレーサーの苦難


 墓を満喫した後は再び湖西線に乗りマキノ駅へ。マキノの大崎寺には安土城血天井がある。
奈良時代に開かれたこの寺は、織田信長の海津焼き討ちで焼失したものの、後に落城した安土城の資材で建てなおされた。 
 観光案内所に行って、レンタルサイクル。ところが、そこで大崎寺まではチャリで片道約30分と言われて申込書に記入する手がとまった。30分??
私の巧妙な計算では片道15分で大余裕の旅のハズだったのに、片道が30分?!!1時間で駅に戻ってこないと次の目的地にたどり着くのが何時間も遅れ大変なことになってしまう。片道30分?!!
「じゃ、バ…バス。」「バスはございますが、下車後2キロ歩きます。」
「タ…」タクシーなんてどこにも転がっていなかった。
フギャーーーーッ!!
気づけば大崎寺へ向け、大焦りでママチャリを全速力で立ちこぎしていた。意地だ、15分でたどり着いて15分で帰って来てやる!!!シャーーーーー!!!!
 私の目の前には、美しい琵琶湖の風景が展開しているけど、気にする心のゆとり、全く無し。ひたすら全力疾走して大崎寺を目指す。何か色々な名所案内の看板を横切るけど、目もくれず、私は風になる。
 本当に15分でたどり着いたけど、目の前にあるのは、思いっきり階段。熱のこもった身体で踏ん張り、ハァハァいいながらダッシュでかけ登り!!朱色の鮮やかな本堂が目に飛び込んできた。寺紋(?)のでっかい桔梗紋にのけぞりながらも、息を荒立てて本堂をお参り、天井を覗きこんだ。血天井と言われるが、暗くてよく判らない。赤いものは見えない。でも、ここは本能寺の変の後に明智軍と戦って命尽きた人達の悲しい血が染み込んでいるのだ。
「いや、血天井はあちらの阿弥陀堂のほうですよ。」
「ぎゃっ!!!!」
 お寺の方に教えてもらった阿弥陀堂へ下りていった。本堂改築の時に、安土城の木材は阿弥陀堂の天井に移しかえられたのだそうな。阿弥陀堂の前には、説明書きもあった。危ないところであった…。でも、阿弥陀堂の天井も暗くてよくわからなかった。
 再びママチャリにまたがり、駅に向って全力疾走。私に休息など許されないのだ。なぜかそれが、私の運命(さだめ)____。とか、チャリこぎにあまりにも全身全霊を傾けすぎていると、何だか余裕で駅に着けるゆとりができたので、もう一ケ寺寄ってみることにした。
 宝幢院には、小浜城主・武田元明の墓がある。蘭丸の姉・うめの旦那である木下勝俊の実の父ではないかと噂される人だが(通説では木下家定が勝俊の父となっている。)本能寺の変を起こした明智光秀に加担した咎で丹羽長秀に自害させられた。後に、元明の妻はエロ秀吉の側室・松丸殿となっている。
 ところが、境内に行くと大勢の人が墓地でなんか作業していたので怯んでしまった。元明の墓を目で追えば、境内の墓所のさらに奥の旧墓地の草むらの中。変な人と後ろ指さされることを覚悟で、墓地をダッシュ。人々を横切り草むらに飛びこんだ。しかし、視界に入ってきた元明の古き墓は何かよくわからないけど、近寄り難い雰囲気。何だろう…この小さな墓から感じる圧迫感。背筋が寒くなる。
 怖くて手を合わせずにそのまま走ってUターン。草むらを走り、人々を横切り、寺を飛び出してママチャリで走りだす。私は尾崎豊。靴の中は葉っぱが入って気持ち悪いけど、そのまま走る。気づけばやっぱり列車に間に合いそうに無い時間。帽子もデジカメも手に握り締めたままチャリをこぎ、最後まで必死に突っ走るオチ。

大崎寺・阿弥陀堂だより
中には安土城の血天井。
宝幢院山門
せめて、武田元明の墓所の雑草を抜いてあげ
てください、和尚。

                   手筒山には筒がある。 


 湖西線より北陸線に乗り換えたどり着いたのは敦賀!!!子供の頃は「読み方わかんないや。でも私には関係無い。」と思ってた街・敦賀!TSURUGA!!
 森可成と長男・可隆が織田信長に従って足を踏み込んだこの敦賀の地。可隆は初陣にしてこの地に果てた。やっと、やっと今日、夢に見たその地を踏めるのだ。

手筒山
この風景の中で、19の花の命が散った。


 手筒山城____何という甘美な響きなのか。
可隆がいたのだというだけで、山を振り仰げば胸の詰まるような思い。…と、いうか、思っていたより山、高くないか???
 既に私はかなり体力を消耗していたのだけど、当てにしていたコミュニティーバスに乗れず(本数少なすぎ)、駅から地道に徒歩で山に近づき、判りにくい登山口へとたどり着いた。
伝わることの数少ない森可隆のものがたり。それを追い求めて私は今から山を登る。大変急なコンクリ勾配で10分も登れば頭からプシューっと湯気が出て、グテングテンになってきた。山で疲れた時は、後ろ向きになって登ると楽になるというのが私の持論であるが、それを中腹でトライしようとすると、後ろから登山客がやってきて未遂に終わり、更に疲弊していった。それでも山頂にあるのは手筒山城、勇み進まぬ訳にはいけない。自らに命令して必死で登り詰めた手筒山城跡には、なんと筒があった。
「え?ええーーーっ??!」
まさに、なんじゃこりゃ?である。
筒には階段がついていたので、グルグルと身体を傾けながら上に登ると、敦賀の街や海が一望できた。
 城についての解説は、無い。

手筒山跡と意味不明の筒
この暗雲立ち込める手筒山城で森可隆が
見た物とは__?
意味不明の筒からの風景
麓に見下ろすのは金ケ崎。


ただ、城跡の側面には見張台跡へ下りるすべり台があったものの、しかしそんなもの誰も使う気配もない。このすべり台をすべったお子ちゃまは、見張台跡の草むらに突っ込むことを余儀なくされる。    
 手筒山山頂は思ったよりも小さな場所だった。夏草が茂って、遺構があるかどうかもよく確認できなかったのが残念。すべり台は戦国時代当時のものではなかろう。
 君がこんな小城の為に19の命を散らしたとは、なんと寂しい。

 それから山の尾根を伝って進み続けると、金ケ崎城の遺構が点在しており、ついにこの金ケ崎へとたどり着く。歴史に名高い金ヶ崎の退け口
 義理の弟・浅井長政の裏切りを知った織田信長が、エロ秀吉をしんがりに残して軍を撤退した場所。
 麓には、金ヶ崎宮があり、山内一豊ののぼりがはためき、あずき袋に見立てたお守りが1,000円で売っていた。境内の横には、クモの巣が貼りつつも、手筒山城と金ヶ崎城のジオラマがあったので、そればっかり見入っていた。
やっぱり戦国の山城、壁も茶色いね。
さすがに山を登った後は疲れて、社務所でバスを尋ねた。
「次のバスはあと2時間後ですね。」

 ああ…歩いて山を降りて街まで出た。敦賀の海でたそがれたかったけど、海辺にある五木ひろしのモニュメントは気分的にどうしても避けねばならず、更に、なぜか到るところに銀河鉄道999や宇宙戦艦ヤマトの痛いモニュメントがあるので、何だかこれも意図的に回避しながら街を歩いた。敦賀の民は、このモニュメント群をどう思っているのだ。
 

金ケ崎城の戦い
「小豆に秘めた利家と秀吉の出世合戦(意味不明)」
緊急事態で、現在、山内一豊も追加の試み!!
(左より)タヌキ、信長、サル、イヌ。信長が一番小顔でハンサムですね。

                   大谷刑部の街角(まちかど)


 ヨタヨタと街を徘徊していると、レトロな建物が見えてきた。市立博物館ということで入ってみると、嬉しくも今日は無料で入れた上に、大谷吉継と石田三成展があっていた。
敦賀城主・大谷吉継。義に熱い彼は、石田三成の友情に答えて西軍に味方した。
 ちなみに、森忠政も石田三成とは仲がよかったが、豊臣秀吉が死ぬと、過去の恨みつらみを三成にぶちまけて華麗に手のひらを返して徳川の元へ走り、袂を分かち合った。(でも歴史の皮肉で忠政と三成は今、同じ寺に眠っている。)

 ちなみに、私、手筒山に登る前には、せっかく敦賀に来たのだからと気比神宮にお参りして、近くの永賞寺で大谷吉継のでっかい供養塔を尋ねていた。ここは、吉継の城下でもあるのだ。
 博物館の後は昔のお堀の水に添って歩き、真願寺というお寺で敦賀城の礎石を見学。西小学校にある敦賀城跡の碑を見て、ここまで来たならと、川を渡って来迎寺の山門になっている敦賀城裏門を見に行った。どんどん駅から遠のきながら、今日、2軒目の来迎寺!!
 足が死にそうになりながら、そろそろお時間ね、と駅に向って歩きだす。
駅への道すがら立寄った八幡神社で、無造作に置かれた敦賀城の城門の礎石と鬼瓦を見物。同じ境内で吉継の奉納の燈篭を探して、薄暗い境内裏面に侵入すると、足元をシャーッ!!!と何かが駆けぬけ肝を冷やした。その正体は子猫。
「あああ、脅かさないでちょうだいよ。」と、いうか、残り少ない私の体力を奪わないでくれ。
楽しそうに周りをうろつく猫。
今ひとつ、大谷吉継が奉納したという、龍の彫刻があるというが、どこにあるのか判らない。早く見つけてまた駅へ歩かねばならないのに、どうしても判らない。
 そこへ先ほどの子猫が、私に「ニャン♪」と声をかけて振り返りつつ歩き出したので、ついて来いとでも言うのだろうかと、追ってみると、猫は更なる暗がりへ行き、ぜんぜん関係ない木に飛びついて木の皮に爪を立てていた。やめんかい!私の体力が!!
  結局、境内にあったお家のチャイムを鳴らして尋ねしたところ、水戸の天狗党・武田耕雲斎の掛け軸や、総理大臣の掛け軸、金ケ崎の古墳から発掘された兜を見せてくれた。
 我にかえって龍の彫刻を尋ねると、一番最初に参詣した本殿のど真ん中に飾られていた思いっきり色鮮やかな龍がそれだと教えていただけた。
「この前、上から色を塗ったので。」
いいの塗って?
 神社の方と話しこんでいたら、もはや急がねばならぬ時間。
またこんなオチ!!!と思いながら駅へと急ぐ、最終的にはダッシュ。
ああ…見たくなかった「スカルダートの罠」とか、「サーシャの最期」のマンガ彫刻に迎えられつつ商店街を走るぅうう!!!!キィイイイイ!!!
 駅弁を買って、列車にポン!!!
たちまち、外界は大雨になった。帰りの車窓は、大雨でほとんど景色が見えなくなる。
ああ、色々あったけど、運がよかったのだ。私は、運がいい。
 

気比神宮
鮮やかな色です。
八幡神社境内
大谷吉継寄進の燈篭

                       風と供に去りヌ


 ヘッドラーイイト♪テールラァアアイイト♪
旅はまだ終わらない〜♪

台風13号の影響により、帰りの夜行バスが広島でストップ!!!
サービスエリアで夜を明かした旅の終わり。