宇治へ初陣日帰りクエストin 京都 2006年8月5日(土)

 
                       ■ 当初の深遠で華麗なる旅程 

宇治五ケ庄(信長・長可が布陣)→黄檗山萬福寺(森一族墓)→宇治川(森長可渡河)→平等院鳳凰堂
    
(10円玉)→宇治茶アイス(きっとある)→槙島城跡(足利義昭篭城)
伏見向島城跡(忠政もでかけた家康の城)→御香宮神社(伏見城の門・石垣)→伏見城(秀吉・家康の
    いた城)→森忠政伏見邸跡(推定)
洛南明智藪(光秀死んだやぶやぶ)→明智光秀塚(胴体入ってる?)

光秀から始まるミステリー


 予定より早く朝8:00に京都に着いたので、スケジュールの順番を変更し、JR六地蔵駅に降り立つ。明智光秀の討たれた場所である明智藪(やぶ)にはたぶん営業時間がないから朝早くに行ってもOKと思い、そっちを先に見に行くことにしたのだ。
 そして駅員さんに小栗栖へは歩いて行けるか訪ねたところ、「時間にして10分くらい。」とおっしゃるので、ならば歩くぞと、炎天下の焼けつく太陽の元、山科川に沿って旅を開始。

 1時間(駅員の嘘つき)歩きに歩いて汗まみれでたどり着いた光秀終焉の地・小栗栖。矢印の方向が微妙な案内板を頼りに明智藪を探していたら、本経寺というお寺があり、境内には明智光秀の供養塔が隠れるように建っていた。明智藪もこのお寺の敷地内に隠されるように残っていた。
 光秀が山崎の戦い(VS.秀吉)に敗れて居城・坂本城に帰ろうとしていた途中に、あはれ土民に討たれた竹薮は、以降、明智藪と言い習わされてきたというが、現在はすでに「竹薮」ではなく、ただの雑草の茂みと化していた。謀反人の末路の場所は、かくも哀れなものなのか。それに引き換え、主君・信長や忠臣・蘭丸が討ち死にした本能寺跡は今でもとても大事にされて荘厳なる老人福祉施設が建てられ、石碑は隅に追いやられて天にものぼらん勢いである。
  
 明智藪より離れた所(御所ノ内)には光秀の胴塚もあるというので歩いて行ったら、またまた判りにくい場所にあったので迷った。地図を見て通り過ぎたと思っては引き返し、やはり違うのかと感じてはまたUターン。近隣の人も知らないといい、ウロウロウロウロ怪しいほどに旋回して、全身の毛穴全開汗だくでやっと探し当てた「明智光秀之塚」の石碑は、ぶどう屋さんの建物の側面にハメこまれるように建っていて、壁をめくるような気持ちで探さないと絶対にわかりっこないのだった。キーッ!!!これでまた更に1時間費やしてしまった!!ひどい。私は森家の史跡を見に来たのに、ひどい。結局、ふた駅分歩いていたらしい。水も既にヴィッテル1L消費。そのヴィッテルもすぐに汗となって天にのぼってゆく。…暑さの中での超・散歩でヨロヨロしながら地下鉄・小野駅から車上の人となる。

画像をクリックしても大きくはなりません。 やぶやぶムーン 胴体イン
光秀供養塔
本経寺の境内で発見。
明智藪
昔、藪だったこの地で
光秀は土民に刺され
た。
明智光秀之塚
光秀の胴体が埋
められた。

                     茶碗蒸しだよ人生は


 冷たいヴィッテルを首にあて、宇治エリアJR黄檗駅で降り立つ。もうこの地名が五ケ庄だ。宇治の槙島城に立て篭もった足利義昭に対峙した織田信長や森長可は、この五ケ庄のどこかに布陣した。(『信長公記』『森家先代実録』)。足利幕府の終焉も近き歴史の節目の出来事。

 その五ケ庄にある萬福寺(万福寺)へ詣でる。建物を見れば明朝様式で、まこと、中国にいるような雰囲気。今にもパンダが明智藪をくわえて走ってきそうだ。
観光客が少なくて静かなのが嬉しかった。
  実はここに2代目津山藩主の森長継が建てた森一族のお墓があるという情報を得て、自分の目で確認しに来た。これが今回の旅行のメイン!
 森一族のお墓は、大名墓ならではの厳重な囲いの中にあるだろうから拝観許可が貰えるかどうかと案じていれば、一族の墓は伽藍の外の公道に沿って並んでいて誰でも思いっきりお参りできる罠。
見てすぐに判った特徴的な茶碗蒸しのような巨大な墓列、森一族の墓。
「前武州太守鉄圍秀公大禅定門」。
石に刻まれた文字を指でなぞると、一番右端のお墓は森長可だ。ああ、長可だ、長可だ。もう一回。ああ、長可だ、長可だ。そうだろうとは思っていたけど、一族の墓の中には、森長可の墓もあった。今また、新たな森家ゆかりの場所へとたどり着くことができた!

黄檗山萬福寺
隠元禅師開山の名刹。
読経は今も中国語で行なわれる。
 
修行のためか、売店で販売している宇治茶ソフ
トクリームが非常に堅くて歯が立たない。
森一族の墓
右より森長可/(本源院)忠政/(知勝院)忠政室
/(渓花院)長継母/(光徳院)長継父/(晃昌院)
忠政娘
また別所に2基の森家縁者の墓
・長継の弟の関長政夫人(松仙院)墓
・長継娘お鍋(本光院墓)

 お墓参りが終わってから初めて萬福寺の境内を見てまわる。完璧な左右対象の黒き建築物の群れの中には、何ひとつ歪んだ造詣がない。あまりの伽藍の見事さに圧倒され、思わず「美しい…。」が口をついて出てくる。
 順路の途中の売店に行くと、入り口に抹茶ソフトクリームのプラスチックのデカ置物がボテッと置いてあった。これもまた、なんと素晴らしく見事な造詣であることか。お寺に全然マッチしてないところが愉快であり、抹茶ソフトのねじりの先っぽのツンが煩悩のチラリズムのようであり、全身ほてって仕方のなかった私は反射的に売店に飛び込み、落ち着きなくソフトクリーム売り場を探しまわった。店の人に「ごめんね、ソフトクリームは外の冷蔵庫に入っているのよ。」と言われ入り口まで戻ると、四角い冷蔵庫に市販の宇治茶ソフトクリームだけが沢山入っているではないか。鳥獣戯画の怪しげな壁紙が張り巡らされた部屋で悲願の宇治茶ソフトを食べたけど、ソフトというのに鋼鉄のように堅くて歯が立たない悲劇!!!


                   『源氏物語』無視。 


 満足してJR宇治駅へ移動。冥土の土産に平等院にお参りしておこうと歩いていたら、宇治茶の香りが商店街を広がって清々しい。でも、やっぱり暑いので、ヴィッテルを買ってがぶ飲み。
商店街を抜ければ美しき宇治川の流れにたどり着く。
 足利義昭の立て篭もる槙島城攻めの時、織田軍には先陣狙いで未明よりこの河を渡る者たちがいた。もちろん、長可もその中にいた。いないはずがない。
『平家物語』さながらの宇治川の先陣争いの図を想像しながら、宇治橋の下の木陰に行ってしばらく時を過ご…そうとしたらいっぱい川涼みの人達がいた。寝っころがってる女性までいた。それはどうかと思った。かの有名な平等院鳳凰堂も見物して、時間をみると、もう伏見に行くべき時間。
ゴミ捨て場の横に石碑があることで有名な槙島城跡へ行けないのが惜しまれるが、また来ようと誓い、続く目的地の伏見へ向かったのだった。

宇治川
長可が「御若手の身にして老功のものを欺き乗り
渡し給ふ(『森家先代実録』)」宇治川。

                   愛と哀しみの伏見キャッスル


 JR桃山駅に降り立ったけど、行きたい史跡が東西南北散見していて、どこからいくのか迷う。
とりあえずは、駅そばの御香宮神社へと足を運んだ。参詣マナーにのっとり手水場で手を洗おうとしたら、水の中にはボウフラが沸いている。「汚ないっ!」と引き下がったら『御香水はこれではなくて奥にあります』という主旨の張り紙。御香水て何???
極彩色の本殿に行けば、そこには平安の昔より称えられし名水「御香水」が湧き出して、みんな水を汲んでいるではないか。私は先程よりカラのヴィッテルを捨てる場所が見つからずに持ち歩いていたのは、こういうことだったのか。ペットボトルに御香水を満たす。確かに美味しい水だ。さっきのボウフラとはえらい違いだ。境内には伏見城の城門石垣があって、それを見学してからまた歩き始めた。

御香宮神社
この表門は伏見城の城門だったもの。
忠政もくぐったんだね。
御香宮神社境内
伏見城に使われていた石も残る。
しかし残念ながら、ここで遊んではいけないとの
こと。


 伏見の住所は、かなり興奮できる。「最上」や「毛利長門東町」「金森出雲町」なんて、大名の屋敷にちなんだ住所が沢山残っている。私の出身の福岡の黒田の殿様の地名「松平(黒田)筑前公園」なんてあってソワソワ。
森忠政もいたこの伏見に、森の地名もあればどれほど嬉しかったか…。
 森忠政の伏見屋敷があったと推定されるところがあるので行ってみた。住所的には「長岡越中」。
 森忠政の伏見邸は慶長4(1599)年4月8日に火災で燃えている。燃えて、延焼して徳川秀忠邸まで焼いてもうた。天下分け目の関ケ原の前年に、徳川家の建物を焼いてもうたのだ。忠政、真っ青どころではなかっただろうな。

 けれど、そんな屋敷跡も、今は普通の住宅地になって忍ぶ物は何もない。普通の住宅地で地図とデジカメ握る私は、明かに不審人物。しかも、ペットボトルには御香水が入っているので、怪しさこの上ない。
 次の目的地へ移動しようと、気力をふりしぼって山頂を目指し歩いて行く。行く先は、よくわからないけど、倒産したという伏見桃山キャッスルランドを目指す。だけど、かなり進んでも城は見えてこない。そしてよく判らないけど桓武天皇陵にたどり着いてしまった。もしかして、この御陵の先まで更に行かねばならないかと思うと、帰りまで歩き抜く自信が無くなってきた。すでに歩きつかれた足は鉛のように重く、全体的に激しく体力を消耗している。まだまだ熱を放射し続けるアスファルトの上で立ち尽くして、どうしようかと呆然とした。
  そもそも、私が行こうとしているキャッスルランドは伏見城の二の丸に建てられた施設。しかも倒産して閉鎖されているので、今日行ったところで何か見ることができるのかまるでわからない。元の伏見城本丸跡は今は明治天皇陵になってしまって入れない。森忠政が美作国の太守に命じられた(慶長8年2月6日)あの伏見城の跡地へは、どうあがいても入れないのだ。入ったら、宇宙人みたいに両手を引っ張られて警備員に連行されてしまう。そう考えれば考えるほど、私が今、山へ登る理由がわからなくなってきた。
 更には、これから山をくだって徳川家康の向島城跡へ行く体力も、もはや無い。秀吉の没後に石田三成が家康を殺そうと画策していた頃、森忠政は仲良しの細川忠興(どうやら伏見のお屋敷ではお隣さん同士)と一緒に、具足やご飯を挟箱(はさみばこ)につめてこの向島城にやって来て3日間待機して家康を感心させたという。かなりのパフォーマーだ、忠政!!そんな楽しいゆかりの場所(遺構は何も残っていないって)に行ってみたいけど、もうダメぽ。
もうダメぽ!!!
  ヴィッテル片手に6時間歩きに歩き詰めて足が動かない。私の勇気を称えるかのごとくにどっかの高校から吹奏楽が聞えて来るので、「そうか、もう、頑張らなくていいんだ(意味不明)。」と笑い、電車に乗って京都駅へと戻った。うなだれつつ椅子に腰かけていた電車の車窓から、伏見桃山キャッスルが大きく、これ以上にないほどに、ばっちりと見えた哀しみ。 


                   戻りたい場所


 光秀のせいで、華麗なはずのスケジュールがかくも狂ったのであるけど、予定が狂ったなら狂ったついでに行きたい所がある。今日の予定には入れなかった阿弥陀寺
本能寺で散った森蘭丸・坊丸・力丸三兄弟が、信長父子と共に眠る場所。
…やっぱり来ちゃったよ。

阿弥陀寺
言わずもがな。信長と近習たちが眠る寺。

 まるで足は棒の様になって疲れ果てていても、ここへ来るとしみじみとして涙が出るほど嬉しいんだな。
どんどん風化してゆく阿弥陀寺の森家三兄弟の小さな墓。見るたび崩れてゆく、切なくて、愛しい墓。しっかりと手を合わせてきた。

 それから、やっぱり抱き合わせで本能寺へも行ってみた。時間外ではあるが裏門が開いていたので、やった!と入ろうとしたら警備員さんに止められた。
「お墓参りだけでもダメですか?」とお願いしたけど、無駄だった。では、お墓参りする上に、閉館した宝物館をもう一度開けてもらって見学するのはどうか。
「この先には見えない門があってそれが閉じられていると考えてくれればよろしい。」
…で、あるか。

 京都駅に戻って、夜7時。ようやく遅いお昼ご飯を食べることにする。
京都駅周辺はどの店も混み合って空席待ちばかりだったので、のけぞりそうになったけれど、客足の少ないお店が1つだけあり、待つのが嫌でついその店に入った。
…こんなにお腹が空いて飢えていた私が、「マズい!!!」と思えるスパゲッチーを作れるとは恐れ入った。大儀である、と言ってみる。

 京都を去る前に駅ビルの屋上から京都の夜景を眺めた。
この国を変える為にその一生を戦に費やした織田信長が命を終えた悲劇も、
それに殉じた少年の美しい命も、まるで物の数には入らぬかのように燦然と輝き続けるこの巨大な王都。心が痛むほどに切ない京の都______。
森長可が馬揃えで色々やらかした京の都_______。