100%あがりのたび 2006

千年寺の桜

2006年 4月15日(土) めざせ森忠政のプルツヤ肌!!

 夜行バスで朝、岡山駅にたどり着くとあたたたたたたかい!!!!

前略 ハナちゃんさま。
アドバイス通りに暖かい格好をしてきましたが、
岡山も春なわけで、実際に冬コートを着てブタ着して
汗かいているのは、私だけな訳です。

 JR津山線に乗りこむと、ますます温かくコートを着ていると蒸しかえる。愛する津山を目の前にしながら、ずっと頭の中は「この格好、どうしよう…。」

 待ち合わせよりも早い時間の列車に乗れたので、誕生寺駅で途中下車して、浄土宗の祖・法然上人の生誕地に建立された誕生寺にお参りすることにした。列車が無人駅に到着して、プシューっと扉が開くと、身を切るような冷たい風が私の身体を襲う。え?あれぇええええええ!!!Σ(゚□゚;

 駅に降りたとたん、寒さにガチガチ震える私がいる。折れる!突然の寒さで折れる!!!岡山県は一体どうなっているのだ?!切符を売る民家に寄ったら、赤々とストーブが焚かれていた。真冬に見る風景がここに。冬コートでよかった…。

 小雨降りしきる中、凍える指で傘を握りこみ、早歩きして10分ほどで誕生寺へ。森忠政に先だった長男・重政と、忠政の養母の大野木殿が眠る。お墓参りをし、忠政が建てた観音堂や、宝物館を拝観した後、お坊さんと寒さについて語り、再び車上の人となる。法然の本も何冊か買った。

 津山駅へたどり着くとハナちゃん[URL]と、しまちゃん、ゆうさんが出迎えてくれた。お久しぶりを言うと同時に携帯の電池が切れた!と騒いでゴメンナサイ。こうして感動の再会の後、ハナちゃん号に乗り、津山市内の史跡めぐりの最初はホームセンターで幕をあけた。ホームセンターで充電用電池を入手し、私のライフラインは保たれた。(この店は卵1パック98円という信じられない金額だった)

 途中、(前回の石スキーさん改め)ゆっきぃさんと車同士で合流して田舎道を走る。ゆっきいさんは森家に関してご論文も書かれ、調査もなさるのがお仕事、いわば、プロ。前回、お詳しいという事で津山城を案内してくださったことをきっかけに我らのお仲間に引きずりこんでしまったのだ。今回の温泉旅に、ひとつ返事で参加なさりつつもゆっきいさん、私達のことをよくご存知じゃないので一見バラバラな組み合わせと、森家森家と騒ぐ我々に「これ、何の集まりなの?」と何度も首をかしげていらっしゃった。 

誕生寺
大祭前日のカラフルさ。明日には、頭に仏の
かぶり物をした行列で賑わう。
福力荒神社
こんなに小さい神社だけど、霊験あらたか、超・
有名な神社なんだワン。

 そして車2台を連ねて福力荒神社へ。 
 森忠政の娘が難産だったものの、このお寺に安産祈願をして無事出産できたという。また、忠政の家臣の山口彦左衛門がマムシに噛まれてこの神社で祈願して無事回復した。ここはスサノヲが祭神の神社であり、なぜここで娘さんは安産祈願をするのか凡人の私にはよく判らないけど、どうやらこの森家のことがキッカケで、福力荒神社は安産とマムシ除けの神社として有名になってしまったらしい。田んぼの中にポツンとあるとても小さな神社が、旧正月の3日間の大祭には12万人の参詣者を抱えるというので、ビックリ。たとえて言えば、学校の25mプールに3日がかりで12万人が飛びこんでしまう勢いなのだ。

 「河辺」という場所では、忠臣蔵は四十七士のひとり茅野和助(元津山藩士)の碑や彼のお父さんが先生をしていた松風庵にも寄り、坂を登って出雲街道・枡形へたどり着く。なお”出雲街道”というのは新しい時代の言葉らしく、忠政の時代は上方道、京道、出雲道などと呼ばれていた。

出雲街道
石垣の上の笹は江戸時代も同じように生えてい
たことが当時の絵図で確認できるとのこと。

 ここは山あがりの地でもあるとのこと。二代目藩主・森長継は、農耕地を増やすために平地に住む農民を山間に強制移住させた。生活も不便になり、貴重な芝草も刈れなくなると農民はブリブリ言って反対したらしいけど、その代わりに津山城内の草刈を許可したそうだ。

 ゆっきいさん、ここが肝心とばかりに「森家は山あがりをさせる代わりに、ちゃんと補償を考えてあげているんですよ。」

 雨の降りしきる中、車を走らせ、本山寺へ。かなり大きなお寺で森家が津山城を築城した時の地鎮祭もこのお寺の住職が導師をつとめた。霧がかりの境内には、森長継建立の三重塔、そして徳川幕府への忠誠を示して作った徳川家霊廟が。福岡では桜が散ったのに、今、このお寺には梅が咲いてる。

 場所を移し、津山の林田(はいだ)という場所には、忠政と一緒に美濃からやって来た御用瓦師の赤染部さん(代々”喜七”を名乗る)が瓦を焼くのに使用する粘土を掘りまくった場所がある。もともとの地面だったはずの高さからかなり掘り下げられて土地ごと低くなっている。しかし、墓所の土だけは瓦にするわけにもいかず、墓地だけ巧妙に避けて土を掘っているので墓地だけがツクシのようにニョキッと生えて見える。当時の瓦焼き場は大隈神社の近くにあったらしい。


千年寺
先生!建物が見当たりません!
長継の石燈篭と逆修墓。
本山寺三重塔
雨に打たれてなおあたらし。
 

 蓮光寺で赤染部家のお墓参りをし、また、車に乗って長継山千年寺へ。山号が語るごとくにここは森長継の菩提寺。しかもこれは彼の生前に建てられた逆修墓で、死ぬ前に自分の墓を作るのは仏教的には大変おめでたいことだという。
 お寺への石段は当時のそのままのものと言われ、喜びながら登っていくと、肝心の寺のほうが跡形もなく消え去っていた。平地の草の上に石塔と長継の墓がどっしりとあるのみ。かつては庭園であった場所も茂み。でも、降るような桜が私達を出迎えてくれた。

 そこから徒歩で少々山を下り、イナバウワーなしでは通り抜けられない横倒しの木の向こうには長継が敬愛したという黄檗宗・鐵堂和尚のお墓。青いビニルシートがかかっていたのもびっくりだが、ダイナミックに山に横穴を穿ち、石でフタとした古墳チックな墓。更に墓地の敷地は、どうやら上空から見下ろせば森家の鶴丸紋になっているのではないかというお話。

 市内の中心街に戻り、津山城に登りたい衝動を押さえつつ、城のふもとの津山観光センターで新発売の美作ひのき「森家家紋ストラップ」の束をつかんで大人買い。嬉しいことに、ハナちゃんが製作者サイドにお願いして、私の訪津に間に合わせて作っていただけたのだ。更にその横からガスッとストラップの束をつかむ手が出てきたので「ええっ!これ、私の手じゃないよね?!」と思って見ると、ハナちゃん!!!2人で大人買い。

森家家紋ストラップ
美作ひのきのよい香り♪

 津山郷土博物館に押寄せて色々と教えていただいた後森家の菩提寺・本源寺でお墓参りをし、妙向尼ゆかりの妙願寺へ。

 ご住職に教わった森家ゆかりの渓花院跡敷地を感慨深く散策した後、一路、森家の湯治場・奥津温泉へ。本日のお宿は河鹿園(かじかえん)、その昔、森家のお屋敷御殿があった場所に建っている。忠政の趣味がカエル(かじか)釣り(いや…子供の頃の話だけど)だった事を思うと何だか面白い。きっと奥津の湯に浸かりながら、かじかの鳴き声に耳を傾けていたのだろうなぁ。宿に着けば、一もニも無く温泉へ特攻。宿の川と山の自然味あふれる食事に舌鼓を打ち、一も二も無く温泉へ特攻。

 番傘を差し、奥津荘にある念願の鍵湯へ。森忠政が森家専用の湯として、普段は鍵をかけていたことに由来する鍵湯は源泉かけ流し!忠政のようなスベスベ肌になれるかも(銅像を参考にした)!嬉しくて湯舟で伸びきったり、旋回したり。おお、立って入るスペースなんかもある!!立とう!お湯に入った後は、本当に肌がツルツルで、自分でも自分の頬をなでまわしたくなる感じ。

奥津荘 鍵湯
暖簾の向こうにはツルツル肌の忠政が。

 ハナちゃんはいずれの湯でも3分しか湯船に浸かっておれないらしく、「ウルトラマンと一緒なんじゃ」と言ってたちどころに去っていたけど、どちらかというとカップラーメン
 宿泊宿に戻れば、「見るだけね。」と、言ってそのまま湯に浸かるしまちゃんを筆頭に一も二も無く温泉へ特攻。今度は露天風呂だ!!ハナちゃんやはり3分でM78星雲に旅立つ。

 夜も更けてきたところで、ゆっきいさんの「これ、何の集まりなの?」を肴に酒盛り、全員で歴史話をして過ごした。先年の築城400年祭のイベントの時に始めてお会いした ゆうさんも、津山の歴史に携わるお仕事柄、私に実際に出会う以前より森家好きな福岡県民の存在には気づいてくださっていたそうで(笑)。

 みんな、何もなかったところから袖触れ合うご縁でここまできて今では一緒に温泉に来て夜更けまで語り合っているなんて、人生って不思議だなぁ。

 

2006年4月16日(日) 津山城は桜のお城
  川のせせらぎに優しく起こされ目が覚めた、隣の布団に寝ているしまちゃんは、かけ布団にくるまってコロネのようになっている。津山の人には無意識にも寒さから身を守る習性が備わっているのだろう。

 朝起きて温泉、朝食を済ませてまたしつこく温泉に入ったので川のほとりでお姉ちゃん達が足踏み洗濯をするのを見るのが遅れた。

 今日はハナちゃんと、しまちゃん、ゆうさんと私の4人で史跡めぐり。まずは髪が生乾きのまま馬乗石へ。津山藩森家最後の藩主・森長成が馬に乗るときに踏み台にしていたと言われるもので、石段は結構な高さだ。徳川幕府からお犬屋敷の普請を命ぜられて身も心もすり減らつつ、命を削ってついに果てた最後の津山藩主・森長成の踏み台。

足踏み洗濯
青いポリバケツが夢から覚ます。
森長成の馬乗石
乗っていたのが原哲夫の描くような巨大馬だっ
たのか、とかはあまり考えないほうがいい。

 昨日のゆっきいさんの話では、森家が江戸中の桶を買い占めた事があったそうで、それが徳川の耳に入り「桶=貯金箱だろ」と見なされ、森家は余程金を豊富に蓄えてあるのだと決めつけられ、お犬屋敷普請で財力を奪うモクロミだったらしいのだ。わーん、ただ単にめいいっぱいタクアンが漬けたかっただけかもしれないのにぃ!!

 次に小さな奥津歴史資料館へ行って子供向けアニメのボタンを押しつつ、奥津の歴史についての見識を広める。

 そしてドライブしてもらい富村(現・鏡野町)のカタクリの自生地に連れて行ってもらった。恥じらうかのような姿の可憐なカタクリはまるで蘭丸のよう(当社比)。都会の福岡に住む私にとってカタクリの花が咲く景色にはそれはもう感激。 
 所変わって落合町(現・真庭市)。4時間の渋滞の”醍醐の桜”を諦め、過激な山を登り標高の高さと寒さに堪えながらパンに噛みつき昼ごはんとす。


カタクリの花
花言葉は「初恋の花」。
こんな風になってみたい。

 この山にある清水寺(せいすいじ)で、夜鳴きの鐘を見せていただいた。もともと清水寺にあった梵鐘を、森忠政が「津山城の時報の鐘にいいじゃん!」と持っていってしまったものの、若者が力任せに叩いて割ってしまったらしく(!)鳴らなくなった為に、お城の片隅に放置されたとのこと。そこでこの鐘は時の家老・関成次の枕元に老人の姿となって現れ、夜な夜な泣きついて清水寺に帰りたいと訴えたらしい。かくして、鐘はめでたく村人リレーでこの寺に凱旋帰国を果たし今に至る。蘇鉄でも、梵鐘でも、けっこう鳴き落としすれば家に帰してもらえるようだ。


構城跡
真ん中の石碑(消しゴムではない)がその名残
をとどめるのみ。
清水寺夜鳴きの鐘
こころに、ほとけ。
 

 ゆうさんの案内で、院庄の構城跡(かまえじょう)に。忠政は津山城に移るまでここに居を構えていたが、今は田畑の風景の中に埋もれており、石碑だけが「ここにあったんだナァ。」と教えてくれる。ツクシが沢山生えていたので童心にかえってツクシとり(卵とじ、土筆丼、土筆スパゲッチーとあいなりました)。この構城のある「院庄」も築城候補地だったが、家臣同士の刃傷事件により断念された。世紀の美男子・名古屋山三郎と、豪将・井戸宇右衛門。切り合ったふたりの遺体は向かい合わせに殺人現場に葬られ、そこには松が植えられた。”にらみ合いの松”と呼ばれるようになったこの2本の松は当時より数代を経て、今も互いに憎しに睨みをきかせてはいない…何だかお互いの幹も枝葉も、遊具のある児童公園での暮らしに和んでしまったのか、すっかりストレスフリーの模様である。

にらみ合いの松。イイネッ! 天に向って素直に伸びています。

 そして行きつくところはやっぱり津山城跡。寒さのせいで桜も今が満開でただただ花の美しさばかりに気をとられて歩いた。時々我に却って回りを見ると、みんながいなかったりする。ゆうさんに写真撮影スポットを教えてもらいつつデジカメのシャッターを押し、この刹那の春を収めようと必死。さくら祭りのイベント中で、ヤマメ焼きも買って満開の桜の下でウマウマ。

桜満開の津山城
夢の国のお城。
備中櫓と五番門
こう見えて強風にあおられ中。

 先日完成したばかりの五番門も写真に収め、備中櫓でのんびり(でも寒い)。一度、城を下りて、京橋御門跡外濠跡を通って夕食にする。ゆうさんのご家族とも久々に再会を果たした。日が暮れて再び津山城跡へ。現実のものでないような夜桜の美しさの中、ゆうさんの子供と張り合って長い石段をダッシュで駆けのぼり、疲れたところで、石垣の高い所から眼下に美しく照り輝く夜桜の森。デジカメの性能が悪くて写真には収められないけど、涙もにじんできそうな風景。ありがとう。私の今を与えてくれた人たち、ありがとう。

 ハナちゃん、しまちゃんが駅のホームまで見送ってくれ、近いうちの再会を誓いつつ、津山を後にした。

 そして岡山駅にたどり着いた。暑い…暑いよ…一気に夢物語が終った(悲)。帰りも夜行バスなので、そのバス停を探すと、遠い遠い!キビダンゴ持ってさまよった時間も含めて1時間がかりでたどりついたバス停!2時間前には、桜に涙していたのにおかしいじゃないか!!!バスの中でバタッ。目覚めれば福岡。