〜戦国旅情編〜
_| ̄|○ 美肌
|
||||||||||||||||
11月19日(土) 臍下丹田に力をこめてシンポジウム | ||||||||||||||||
朝・待ち合わせの津山駅。 お迎えに来てもらう約束よりも1時間も早く津山駅に着いてしまったけど、ここで待とうにも駅構内は底冷えして過激に寒い。スケートリンクか、ここは。 結局、寒さに堪えられずに歩いて宿泊先のホテルに行ってしまった。 荷物を預けて身軽になり、津山郷土博物館に入って津山城復元模型を見ながら時を過ごす。気になるのはブルーに塗られたプラモ櫓(やぐら)。この現代的なオシャレカラーは一体何なりか。む、そして吉井川ゼリーには本物の蝿が溺れている。 そのうちに津山の知人、しまちゃん参上。ハナちゃんは午後から合流することになっていたけど、午前中から素晴らしいプレゼントを用意してくれていた。ハナちゃんが専門家の石スキーさん(かなり仮名)にお城案内を頼んでくださっていたのだ。ホロロ。 津山城跡で石スキーさんと、ゆうさん+ゆうさんJr.と合流。 前回はゆうさんのご案内で、ありし日の津山城に想像をめぐらせながら登ったけれど、これまた今日は石スキーさんから建築面での要所を押さえつつご案内いただいた。 今まで一部の存在しか気づいていなかったけれど、津山城の石垣の石には沢山のマークが刻まれている。石工が自分達の担当だという目印につけたマークで、軍配マークだったり、槌(つち)マークだったり、ダブル山マークだったり、ハートだったり(それはない)、石工によって何種類ものマークが存在する。 森忠政が、天下普請を手伝わされた大阪城の石垣にも石工マークがあり、津山城のマークと比較することにより大阪城のどの辺を担当していたのかとか、津山のどの石工集団を連れていったのかということがわかるということだ。面白いなぁ。 そして、石垣の角には必ず櫓を置いて、櫓から櫓へ塀を渡すのが築城ルールというのも教えていただいた。 「あ、そういえば、津山城の復元模型にブルー櫓があったんですけど、あれは何でしょか。」 と、思い出したことを質問すると、石スキーさんと、ゆうさんがほぼ同時に「色付櫓(いろつきやぐら)でしょ。」と教えて下った。色つき・・ヒネリのない、まんまなネーミングだった。博物館の模型を造った当時、この色付櫓の存在は判かっていたけれども、色が何色だったかわからずブルーにしただけの事であって、今は茶色い壁の櫓だったと言う事が判明しているらしい。よく判らないからって、どうしてブルーにしておこうとしたのか・・・・まさかブルーシャトーという発想?! Σ(゚□゚; 「ほら、あそこの石に屋根の跡が。」「この石に柱が建っていた跡があります。」石スキーさんの指差すものに目を向けながら結局、ほとんど石垣ばかりにかじりついていた我等。 そして今、津山城は、五番門とその南石垣上に太鼓塀を復元中。太鼓塀は内部が空洞でそこに小石を詰めていたという全国でも珍しいものだそう。森忠政の築城へのこだわりをここでもまた垣間見た。 石スキーさん:「いや、これはただの手抜き工事でしょ。」 ……森忠政の手抜き工事の逸品である。 石スキーさん:「突貫工事のはしりは津山城でしょうかね。」 ………森忠政の突貫工事の逸品である。これをもって、忠政は築城の名手といっても差し支えないかと思われる。 森忠政は元和の武家諸法度にすべりこみで城を完成させなくてはならなかったから、きっとそのために塀を突貫工事したのだろうと、ゆうさんは話を美しく完結させ森忠政をフォローしていた。本当のところはどうなのか、ちなみに、この津山城は途中で工事が強制ストップ未完成のままの城なのである。森忠政は、大阪城やら名古屋城といった幕府の天下普請にかりだされ、時間と費用を奪われて自国の城づくりを邪魔されたが、それでも、逆に最先端の技術を学んで帰り、こんなに壮大で堅固な津山城を築いたのだ。
|
||||||||||||||||
11月20日(日) 入らないけど温泉ツアー | ||||||||||||||||
朝。TVをつけて気になる天気予報を見ると「晴れのちくもり、ところにより霧」という。 Σ(゚□゚; 「キリ???!!!!ところにより霧??!」地域全体が霧に包まれるとでもいうの??!そんな天気予報を生まれて初めて聞いてしまった。 ゆうさん号とハナちゃん号の2台だてで史跡めぐりに出発。今日の午前中は、しまちゃん不在。 ゆうさん号の先導で大隅神社へ。こんな地元の人しかわからない狭き道を通るのだなぁ、と思っていたら、ただ2台だてで道に迷ってしまっていただけだった。
|