まさかみまさか津山旅行 2005

                                     〜戦国旅情編〜

_| ̄|○ 美肌  森忠政公像 ハハ〜ッ!○| ̄|_

11月19日(土) 臍下丹田に力をこめてシンポジウム

朝・待ち合わせの津山駅
お迎えに来てもらう約束よりも1時間も早く津山駅に着いてしまったけど、ここで待とうにも駅構内は底冷えして過激に寒い。スケートリンクか、ここは。

結局、寒さに堪えられずに歩いて宿泊先のホテルに行ってしまった。
荷物を預けて身軽になり、津山郷土博物館に入って津山城復元模型を見ながら時を過ごす。気になるのはブルーに塗られたプラモ櫓(やぐら)。この現代的なオシャレカラーは一体何なりか。む、そして吉井川ゼリーには本物の蝿が溺れている。
そのうちに津山の知人、しまちゃん参上。ハナちゃんは午後から合流することになっていたけど、午前中から素晴らしいプレゼントを用意してくれていた。ハナちゃんが専門家の石スキーさん(かなり仮名)にお城案内を頼んでくださっていたのだ。ホロロ。

津山城跡
で石スキーさんと、ゆうさん+ゆうさんJr.と合流。
前回はゆうさんのご案内で、ありし日の津山城に想像をめぐらせながら登ったけれど、これまた今日は石スキーさんから建築面での要所を押さえつつご案内いただいた。
今まで一部の存在しか気づいていなかったけれど、津山城の石垣の石には沢山のマークが刻まれている。石工が自分達の担当だという目印につけたマークで、軍配マークだったり、槌(つち)マークだったり、ダブル山マークだったり、ハートだったり(それはない)、石工によって何種類ものマークが存在する。
森忠政が、天下普請を手伝わされた大阪城の石垣にも石工マークがあり、津山城のマークと比較することにより大阪城のどの辺を担当していたのかとか、津山のどの石工集団を連れていったのかということがわかるということだ。面白いなぁ。
そして、石垣の角には必ず櫓を置いて、櫓から櫓へ塀を渡すのが築城ルールというのも教えていただいた。

「あ、そういえば、津山城の復元模型にブルー櫓があったんですけど、あれは何でしょか。」
と、思い出したことを質問すると、石スキーさんと、ゆうさんがほぼ同時に「色付櫓(いろつきやぐら)でしょ。」と教えて下った。色つき・・ヒネリのない、まんまなネーミングだった。博物館の模型を造った当時、この色付櫓の存在は判かっていたけれども、色が何色だったかわからずブルーにしただけの事であって、今は茶色い壁の櫓だったと言う事が判明しているらしい。よく判らないからって、どうしてブルーにしておこうとしたのか・・・・まさかブルーシャトーという発想?!
Σ(゚□゚;

「ほら、あそこの石に屋根の跡が。」「この石に柱が建っていた跡があります。」石スキーさんの指差すものに目を向けながら結局、ほとんど石垣ばかりにかじりついていた我等。
そして今、津山城は、五番門とその南石垣上に太鼓塀を復元中。太鼓塀は内部が空洞でそこに小石を詰めていたという全国でも珍しいものだそう。森忠政の築城へのこだわりをここでもまた垣間見た。

石スキーさん:「いや、これはただの手抜き工事でしょ。」
……森忠政の手抜き工事の逸品である。
石スキーさん:「突貫工事のはしりは津山城でしょうかね。」
………森忠政の突貫工事の逸品である。これをもって、忠政は築城の名手といっても差し支えないかと思われる。
森忠政は元和の武家諸法度にすべりこみで城を完成させなくてはならなかったから、きっとそのために塀を突貫工事したのだろうと、ゆうさんは話を美しく完結させ森忠政をフォローしていた。本当のところはどうなのか、ちなみに、この津山城は途中で工事が強制ストップ未完成のままの城なのである。森忠政は、大阪城やら名古屋城といった幕府の天下普請にかりだされ、時間と費用を奪われて自国の城づくりを邪魔されたが、それでも、逆に最先端の技術を学んで帰り、こんなに壮大で堅固な津山城を築いたのだ。
石垣に刻まれた軍配マーク
わかりますか?
発掘されていた津山城内の暗渠。
石は豊島石で、フタの下には今のシ
ステムと変わらない石製の溝。
今はもう埋め戻しされてしまった。




その後、石スキーさんと別れて しまちゃん号に乗り、お昼ご飯に向う。地上波で『チャングムの誓い』を楽しみにしている私に、聴いてもいないこの先の展開をしまちゃんから天真爛漫に暴露され、ギャーギャー言いつつレストランへ。ゆうさんの奥さんのみぃさんとJr.らと合流して昼食とあいなったものの、気付けば今日の1時からのシンポジウム開始まで、ほとんど時間がない!お店の人に一番早く出来上がるメニューを出してもらい、オムレツがくるなり一気にオムレツを飲みこみ(飲み物ではありません)会場へ急いだ。

出遅れたと思ったのに、会場のみなさん2番目の列から座り始めていたので、何の苦もなく最前列に席を取れた。こんな事ならオムレツを噛んで食べるのだった。

   シンポジウム「初代津山城主森忠政と津山の街づくり」

シンポジウムは2部構成。1部が基調講演で、森忠政の小説『名君の門』を執筆された皆木先生が森忠政を語り、森家16代目森家ご当主が森忠政以前の森家の歴史を語り、『新・藩翰譜 森一族』を手がけられた久保田先生が森忠政以後の森家を語り、2部にみなさんでシンポジウムだった。
 
甲冑から割り出された森忠政の身長が155cmくらいで体重45−50kgという話は耳にしなかったことにしつつ、ご当主が長可を「アニキ」と呼んだ事はメモしつつ、森忠政という人間のスケールの大きさ、森一族の栄光と悲劇の話に浸った。久保田先生もおっしゃっていたけど、森忠政は人質生活を自分の人間形成に活かしている。
多くの悲しみと苦難を伴う忠政の人生、そしてそれに絶え抜く強靭な精神力を育んでいった忠政。
私も今となっては、「このすさまじき津山城を建てるのは、蘭丸でもなく長可でもなく、森忠政でなくてはならなかったのだ。」と思う。

シンポジウムの後にようやくハナちゃん登場。皆木先生のサイン会の列にしまちゃんと並んでいたら、ハナちゃんが皆木先生を拉致してにお声をかけて、結局、妙願寺にご一緒することになった。
サイン会の後、ハナちゃん号に乗って妙願寺へお参り。
ハナちゃんが皆木先生の前で私の名前をハンドルネームで呼ぶので恥ずかしすぎて「うきき言うなぁ!!」と言っていたのに、しまいには皆木先生にまで「うききさん」と呼ばれてしまう始末。きゃぁああああ!!!!

妙願寺に行くと、ご住職と一緒に森家ご当主もいらっしゃっていて、結局全員でお話し。私のようなのがこんなすごい場面に遭遇してもよかったのか・・・。濃い!!濃すぎる!!!これは夢ではないかと思い、危うく隣に座っていた人の頬をつねりそうになった。ゆ・夢じゃないらしい…。

夕方は、近しい知人で集まり「うききを囲む会」を催していただいた。森家のミュージカル『石の記憶』を講演したきんちゃい座の方もかけつけてくださり、もう、話の話題は森家ひとしきり。しまいにはゆうさんと一緒に「忠政は可哀想なんだよーー!!!忠政の人生はつらすぎるーーー!!!」と涙。果てしない苦労の末に、わが子に安心して代を譲って死んでゆければ、忠政の生涯も救いがあっただろうに、我が子まで次々と亡くしてとうとう後継ぎがいなくなってしまったのでは人生たまらない。彼は最後まで試練を与えられた生涯だった。って、よく考えたら、ゆうさん、お酒を飲まずにあのテンションだったのか・・・。


11月20日(日) 入らないけど温泉ツアー

朝。TVをつけて気になる天気予報を見ると「晴れのちくもり、ところにより霧」という。
Σ(゚□゚; 「キリ???!!!!ところにより??!」地域全体が霧に包まれるとでもいうの??!そんな天気予報を生まれて初めて聞いてしまった。

ゆうさん号とハナちゃん号の2台だてで史跡めぐりに出発。今日の午前中は、しまちゃん不在。
ゆうさん号の先導で大隅神社へ。こんな地元の人しかわからない狭き道を通るのだなぁ、と思っていたら、ただ2台だてで道に迷ってしまっていただけだった。

大隅神社ご神門
昔は津山城の城門だった。
  もと津山城門のご神門扉
下は楯の役目、上には鉄砲を撃つ為の
スキマがあるのが特徴。


津山城の城門のひとつが今は大隅神社のご神門になっている。さらに本殿は森長成の再建。上を見れば美しい紅葉、下を見れば緑の苔。前を見れば、ちっちゃい ゆうさんJr.が長い石段をおりるのを「怖い」と怯えている。登る時はそれはもう率先してトントン登っていたのに。(笑)

それから車で一路奥津へ。
鏡野町の真経という場所に至ると、雨が降り始めた。この地で森忠政の長男の重政が亡くなった。前回初めてここに来た時も雨が降り始めたなぁ…。
お墓参りをして、小高い場所にある森重政の火葬場跡にも行った。ちっちゃいゆうさんJr.が長い下り坂をおりるのを「こわい」と怯えていた。登る時はそれはもうトントン登っていたのに。(笑)
そこから車で少し行くと、宗重という場所に桂の木があった(宗重の大桂)。見つけられなかったらどうしようと言っていたら、思いっきり道路に面して桂の巨木。津山城天守の心柱として切り取られてしまったにもかかわらず、切り株からまた枝を伸ばして今なお生き続けている。何という生命力!!!
途中、「太閤記」の著者小瀬甫庵の故郷にも立寄った。彼の出身の日上山城跡のある山を見上げれば、山に日上山城と書いてあった。
   

奥津荘
忠政もリラックスした鍵湯
宗重の大桂
切られてもめげずに育ちました!
 


奥津温泉にたどり着くと、早速、鍵湯のある奥津荘へ行った。行ったものの・・・・鍵湯は男湯なので、私は入りたくても入れない。ましてや、をのこが入浴中の男湯を向学のためにデジカメで撮影させてほしいなんて言えば痴女呼ばわりされて追い出されそうだ。
この鍵湯は、森忠政がこの風呂を使用しない時は、鍵をかけて余人を入浴させなかったことから鍵湯と名づけられた。自分の入浴中に「覗いちゃだめである!」と鍵をかけていたかと思っていた人、挙手。\(-_-;)
ああ、見たかった、入りたかった鍵湯。恨めしそうに奥津荘を睨みつつ、再び車上の人となる。
後部座席で温泉に入りたかったのに、と泣くJr.、だが男湯とわかっていながら九州から男湯を見に来た私はもっと泣きたいのだ。

奥津渓谷は紅葉のベストシーズンだった。美しい秋の錦の木々の間から零れ落ちる雨のしずくに打たれつつ、紅葉を鑑賞。
渓谷のせせらぎが、鍵湯を見れなかった私の傷ついた心をそっと癒してくれる。
雨がひどくなって車に乗りつつも、車窓から渓谷の秋をうっとりと眺めていたら、運転手のハナちゃんの「奥津渓谷のこの辺で岡田茉莉子が手首を切ったんじゃー。」というすごい発言が耳にとびこんできたので、不意に現実にひき戻された。なぜ、そんなに楽しげに手首切ったんじゃー、言うのか?!と、いうか岡田茉莉子が誰なのか。・・・私はここで初めて知ったけど、昔、『秋津温泉』という映画があってその撮影現場にこの奥津温泉がロケ地に使われたらしく、ハナちゃんはその解説をいたらしい。
ハナちゃん:「血がドバーッ!!」

奥津湖(実はダム)にさしかかると、ハナちゃん今度はダム開発と立ち退きの人々の哀しい物語をしてくれた。そして昼食に入ろうとしたところが、秋の行楽シーズンで満員で入れない。お腹をすかせたまま、津山へ帰るものの、ハナちゃんとみぃさんが車の中でキティーちゃんやディズニーの歌を唄い出すのでどうしようかと思いつつ・・・。

奥津の秋
紅葉にうっとり。
衆楽園の秋
世界を映し出す水鏡の美しさ。


お腹をすかせてようやくたどり着いた津山のレストランで、また「あいにく満員」攻撃。時間待ちの間、空腹をこらえつつ森家の庭園の衆楽園で時間を潰した。ここも、紅葉が美しい。Jr.たちはそのまま池に転がりこんでしまうのじゃないかと心配するくらいに、枯れた草の上で元気よく転げまわっていた。(笑)

ようやく「空席ができました」の連絡を受けてレストランに入ると、しまちゃんがこちらに向っているという情報。では、しまちゃんの分も先に頼んじゃえと、ハナちゃんと一緒に3人前コースを頼んだところ、やがてしまちゃんがやってきて
「ご飯はもう済ませたので、これだけで。」と可愛らしくウーロン茶だけとった。Σ(゚□゚;

・・・・・・・・めちゃお腹いっぱい食べた。別に注文していたゆうさん達にも手伝ってもらいながら、しまちゃんにもちびちび押しこみながら、すべて食べ尽くした。つめこもうと思えば入るものなんだな。
そんな満腹丸たちで、妙願寺に旅のしめくくりのご挨拶に伺った。あれだけ食べたのに、出されたお菓子を食べているのか、君たち・・・・。

夕方、しまちゃんとはお寺でお別れして、ハナちゃんとゆうさん、みぃさんが津山駅まで私を送ってくださった。
お別れとなると、浮かれていた気持ちがだんだん沈んできてやがて哀しい気持ちでいっぱいになってくる。しかも津山は過激に寒いし。

手を振って見送ってくれる優しい津山の人達とわかれて、列車に乗った。列車の座席についていよいよ ここを去るとなると、本当に寂しさで感極まってきた。だめだ、本当に泣いてしまう。
そこへ外からボタンを押して扉をプシューっと開け列車に乗り込んでくる学生達。え?手動?!この列車、手動で開閉するの?!
さらに私の横に座ってきた学生が、ガバーッ!!と弁当を開けて食べ始めた。・・・・・・・おかかの匂いが鼻について、泣けないす・・・・。
岡山駅まで1時間近くあるので、その間に知人に手紙を書いていたら、途中で学生と一緒に仲良く豪快に眠ってしまっていた。気づけば一気に岡山。

帰宅後、奥津荘のサイトを見て、今は鍵湯は時間を変えて男女両方が利用できるようになったと知り、大暴れ。行くよ!今度は必ず鍵湯に入るよ!!

次回は、桜満開の津山城&鍵湯でいい湯だなアアアン編!!!に決定!!!