夢がモリモリ秋ツアー2005
〜君は、あのトンガリを見たか?!〜
10月11日(火) 無印キャリーバッグ(大)を新調オオハリキリVv | ||||||||||||||
この旅行のために、無印良品でキャリーバッグを新調した。 挙動不審にいつまでも(大)、(小)、どちらのサイズを買おうか悩みつつ、結局「大は小を兼ねる」という諺に従い、キャリーバッグ(大)を手に入れた。4輪車なので値が張った。しかし、今までのボストンバッグを肩に担いでいくことを考えると、どれほど楽か。 私の場合、旅先で本も買うし、やはり「大」だな。 おニューのキャリーバッグ(大)とともに夜行バスに乗りこみ、旅がスタートした♪ |
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10月12日(水) 清洲キャリーバッグ曳き | ||||||||||||||
キャリーバッグ(大)をかっこよく引っ張り名古屋駅にやってきた。ここで一旦、コインロッカーにキャリーバッグを預けて身軽になって私はカモメのように自由気ままに旅をする。 そして、コインロッカーにバッグを入れようと・・・・入れようとするけど、キャリーバッグ(大)が大きすぎてどうやっても、どうあがいてもロッカーに入らない。むしろ、キャリーバッグにコインロッカーを入れたらどうか? その後しばらく名古屋駅構内を徘徊したけど、大きいコインロッカーがない。悲劇!!Σ(゚□゚; かくして私は、キャリーバッグ(大)を引っ張り、朝の清洲にやってきた。でかい荷物を持ってはいるが、4輪車なので何とかなるだろう、と高をくくっていたのに、早朝から砂利道トラップ発動。我等が親愛なる織田信長公像のある広場は、セレブにふさわしく白い砂利が敷き詰めてあるのだ。強行にキャリーバッグを引っ張ると、車はうまく回転せず、逆に砂利を巻きこみ、道を掘りながら進むので重くて話にならず、バッグを抱えて信長公像の前まで行った。しばらくぐったり・・・。 9時AM。キャリーバッグを引いて橋を渡り、清洲城へのりこんだ。目標は、「桶狭間出陣の間」! 桶狭間出陣の一場面が当時の衣装や小道具に至るまで時代考証を尽くして再現されているが、なぜか生まれてすらいないはずの森蘭丸がいる。帯などの細部まで時代考証をこだわっておきながら、ここにでっかい時代考証ミスが座っているけど、まぁそれが蘭丸なので許せてしまう。しかも、蘭丸は柄杓(ひしゃく)を目の前にして難しい顔をしている。どうした?信長のはいているレザーパンツが嫌なのか。他に人がいなかったので、人形達と一緒にくつろいだ。蘭丸に近づきすぎてアラームが鳴った。
城を出て、炎天下の中、汗だくでキャリーバッグを引き、信長公の菩提寺総見院まで歩いた。
おおおお!!鬼武蔵長可にふさわしい王者の砦だ!!!そりゃ、こんなコンモリしたものがあれば砦にしたくなりますって、森軍団。発掘されている方に話を伺うと、秀吉時代のものは柵を立てた跡はあったけど、得に出土品はなかった、との事。 峠の一番高いところを過ぎたところで、Uターンして楽田へ戻った。体力に自信があった私なのに、かなりクタクタだ。すべては、あのキャリーバッグ(大)が私の体力を奪ったのか・・・・?
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10月13日(木) トンガリ | ||||||||||||||
朝。宿泊咲先に近い可児駅から御嵩線に乗る。いつもは明智駅で降りて兼山に向うけれど、今日は通過して終点御嵩駅で降車。車では何度も通過したけど、やっと史跡めぐりに来れたぞ御嵩!感動したけど、この字、読めないぞ!御嵩! 答え:御嵩(みたけ) 平安時代からといわれる古刹願興寺は駅の目の前。ここは、信濃で本能寺の変を聴きつけた森長可が、東美濃諸将の裏切りを切りぬけ、金山城へ帰城する時に休息に寄った寺だった。長可がこの願興寺の縁起と由来を安養房真祐法師に尋ね、火災にもめげない寺院復興への苦心を聴いて、森長可と家臣たちは、感激の涙を流したという。彼ら今まで信濃で散々寺を焼いていた気がするけど、なんというピュアな人たちなんだ。
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10月14日(金) クマ覚悟で苗木攻め | ||||||||||||||
「あの道は熊がでるよ。」「●●さんはイノシシに体当りされたんじゃ。」「熊よりもガケに落ちる危険が・・・。」 私が行こうとしていた黒瀬街道は、奈良時代にはすでに通っていたといわれる日本最古道のひとつ。江戸時代には黒瀬街道と呼ばれた道で、森長可もこの古道を使って苗木城を攻めた。 私も歩こうと思っていたら、黒瀬街道をなめすぎていたらしく、今じゃ、この道を通る人はなし。 あきらめかけていた時に、一番最初に私を脅していた師匠が車で連れて行ってくれると言ってくれた。黒瀬街道の狭すぎるところは通れないけど。熊がモノサシ持ってきて窓にさしこんで車のロックを外さないことを祈りつつ出発。 黒瀬街道ツアーの始まりは木曽川の黒瀬湊(八百津町)!\(^o^)/ 最初はウキウキして師匠と歴史話に花が咲いていたけど、黒瀬街道も奥まると、だんだんと道が狭くなり、森の中で薄暗さ倍増、運転している師匠が「ハクション!」などとやってハンドルを誤った日にゃ、ハリウッド並にガケ真っ逆さまアトラクションを体験できる。「ほら、熊とか出てきそうだろ?」うぉお!先生、会話のたびにこっちを見ないで、前、前を見てください!! そして、延々と恐怖の道のりの果てにやってきた、坂折峠。すでに黒瀬街道は狭くて車では抜けられない。 坂折といえば、『日本の棚田百選』にも選ばれた棚田の美しい田園風景が広がる。残念ながら私が来た時にはすでに刈りいれも終わっていたので、土色だった。しかし、ここでの目的は棚田ではない。あくまでも森長可なのだ。「待ち伏せ」という場所が残る。地元の人に「知らん。」と言われたけど、「待ち伏せ」という場所が残る。森長可が苗木城に向って進軍していた時に、待ち伏せしていた苗木方の小池兄弟に狙撃されてしまった場所だ。狙撃されてしまったものの、長可は落馬しただけで、かすり傷ひとつなかった。落馬したどころか、本によっては単に「馬から下りただけだった」とも書かれていて、どうしようもない感じである。その小池兄弟は、長可を仕留めたと思ってそのまま帰ってしまい、後日、長可にどえらい目に遭わされてしまう。その、待ち伏せの場所が、坂折川の上流にある。場所を聴くため、棚田のヘリを伝って登っていき、上のほうにいたおばあさんの元へ。 尋ねると、首を振られて「人が行くようなとこじゃない。」と言われてしまった。行っちゃいましたけど。
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10月15日(土) どんぶり巨石体験 | ||||||||||||||
早朝の兼山湊の澄んだ空気に包まれて深呼吸。木曽川の水のゆっくりした流れにしばし心を移す。 森家の菩提寺・可成寺と、それから蘭丸の母・妙向尼の眠る常照寺にお参りして金山城跡へ登った。 山頂に行けば、朝靄がかって前方がうっすらとしている。白い幻想の中にいるみたいだ。誰もいない中、はしゃいでいたけど、だんだん寂しくなって山を下りる。 途中、雨が降り始めたので、雨の兼山橋で木曽川を眺めて1人たそがれていた。後ろはホルモン屋さんの看板。 午後からは師匠に頼んで駄知というところにある稚児ケ岩に連れて行ってもらった。師匠が気をきかせて道すがら、どんぶり会館に連れて行ってくれた。名前だけ聴いて動揺してしまったが、どんぶり茶碗をメインに陶磁器がたくさん売られていた。でも、はや心は陶器より岩♪磁器より岩♪何度も道に迷いつつ、数度どんぶり会館の前を車で走り稚児ケ岩へたどり着いた。 森長可の家臣の加藤彦右衛門が駄知に移って百姓暮らしをしていた。この夫婦には子供がなかったのでいつも長可にもらった観音様にお祈りしていたところ、霊験があり観音様より「自分を西南数丁の山頂に安置すれば、子供を授けよう」とのこと。観音様を滝ケ洞という場所に安置して祈っていると、谷底から赤ん坊の声、夫婦が行ってみるとそこには大きな岩があるだけ。しばらくしてこの夫婦に玉のような子供が生まれ、その岩が稚児ケ岩と名づけられたとのこと。その長可にもらったという観音様を探したけど、見つけ出せず、雨の中、稚児ケ岩だけ見て帰った。巨石・・・・。
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10月16日(日) 武者行列、父よ、屋根のある駐車場で立ちあがる時は要注意。 | ||||||||||||||
今度は下渡橋を渡って兼山に帰った。公民館へ行くと、すでにお祭りの準備が整っていた。
今年の森蘭丸は男性がやるのですね〜。森ファミリー役のみなさまをパシャ☆
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