夢がモリモリ秋ツアー2005

〜君は、あのトンガリを見たか?!〜

10月11日(火) 無印キャリーバッグ(大)を新調オオハリキリVv

この旅行のために、無印良品でキャリーバッグを新調した。
挙動不審にいつまでも(大)、(小)、どちらのサイズを買おうか悩みつつ、結局「大は小を兼ねる」という諺に従い、キャリーバッグ(大)を手に入れた。4輪車なので値が張った。しかし、今までのボストンバッグを肩に担いでいくことを考えると、どれほど楽か。
私の場合、旅先で本も買うし、やはり「大」だな。
おニューのキャリーバッグ(大)とともに夜行バスに乗りこみ、旅がスタートした♪

10月12日(水) 清洲キャリーバッグ曳き

キャリーバッグ(大)をかっこよく引っ張り名古屋駅にやってきた。ここで一旦、コインロッカーにキャリーバッグを預けて身軽になって私はカモメのように自由気ままに旅をする。
そして、コインロッカーにバッグを入れようと・・・・入れようとするけど、キャリーバッグ(大)が大きすぎてどうやっても、どうあがいてもロッカーに入らない。むしろ、キャリーバッグにコインロッカーを入れたらどうか?
その後しばらく名古屋駅構内を徘徊したけど、大きいコインロッカーがない。悲劇!!Σ(゚□゚;

かくして私は、キャリーバッグ(大)を引っ張り、朝の清洲にやってきた。でかい荷物を持ってはいるが、4輪車なので何とかなるだろう、と高をくくっていたのに、早朝から砂利道トラップ発動。我等が親愛なる織田信長公像のある広場は、セレブにふさわしく白い砂利が敷き詰めてあるのだ。強行にキャリーバッグを引っ張ると、車はうまく回転せず、逆に砂利を巻きこみ、道を掘りながら進むので重くて話にならず、バッグを抱えて信長公像の前まで行った。しばらくぐったり・・・。

9時AM。キャリーバッグを引いて橋を渡り、清洲城へのりこんだ。目標は、「桶狭間出陣の間」!
桶狭間出陣の一場面が当時の衣装や小道具に至るまで時代考証を尽くして再現されているが、なぜか生まれてすらいないはずの森蘭丸がいる。帯などの細部まで時代考証をこだわっておきながら、ここにでっかい時代考証ミスが座っているけど、まぁそれが蘭丸なので許せてしまう。しかも、蘭丸は柄杓(ひしゃく)を目の前にして難しい顔をしている。どうした?信長のはいているレザーパンツが嫌なのか。他に人がいなかったので、人形達と一緒にくつろいだ。蘭丸に近づきすぎてアラームが鳴った。
「敦盛」を舞う信長
インディアンズボンではない。
側にひかえる森蘭丸
その柄杓(ひしゃく)をどうしようというのだ。

城を出て、炎天下の中、汗だくでキャリーバッグを引き、信長公の菩提寺総見院まで歩いた。
アスファルトの舗装がガタガタなのでとにかくキャリーバッグがうまく引っ張れない。・・・・もしや、私はロッカーに入らぬこれに一生振りまわされ続けるのだろうか・・・・?(油汗)
この総見院には有名な信長公肖像画や本能寺遺品を初めとするご寺宝も遺されている(通常時非公開)。お参りをすませて寺を後にして、JR清洲駅に向っていたところ、キャリーバッグともども道に迷った。
でも、総見院にいらっしゃったおばあさんに助け出され、駅まで送ってもらった。どうも私が道に迷うのが目に見えていたようだ・・・・・。

犬山駅。今度こそ、この忌々しいキャリーバッグをコインロッカーにつめて、自由になってやる!!と、ロッカーに行ったら、ひと目でわかる「名古屋駅と同じロッカー。」なぜだ!Σ(゚□゚; 私は何に試されているのか?!
悪夢再びかと思いきや、幸いにも、駅員さんが有料で預かってくれた。ようやく重荷から開放されて、小牧線に乗り、楽田駅へ向った。

小牧・長久手の戦いでは、家康が小牧山に布陣、秀吉は楽田城に陣を張った。その際、楽田にある青塚古墳に砦も築かれ、森長可率いる森軍はここに拠っていたらしい。バスも何もないので、駅から青塚古墳青塚砦)まで2kmの道のりを足で歩いた。歩き疲れたころに、小さな家や店の向こうに、前方後円墳が出現した!!

青塚古墳
砦としてリサイクルされた。
大県神社
本殿右横のご神木に、ヘビ様が住まわれている
という・・・・。

おおおお!!鬼武蔵長可にふさわしい王者の砦だ!!!そりゃ、こんなコンモリしたものがあれば砦にしたくなりますって、森軍団。発掘されている方に話を伺うと、秀吉時代のものは柵を立てた跡はあったけど、得に出土品はなかった、との事。
昔は、出陣の時は城門持参だったけど、森軍もここに、サクッと立てたのか?!サクッと!
すでにこの時点で、長可は羽黒の合戦で痛い敗北を喫している。
この古(いにしえ)の王者の眠る墓で、彼は何を思っただろうか。

青塚砦とは駅を挟んでまったく反対位置に有るのが大県神社!尾張二ノ宮と位置付けられる由緒有る神社だ。長可がこの神社に陣を張ろうとして、神主にめちゃめちゃ怒られたという逸話が残っている。しかも、そこにご神体の蛇が出てきたところ、酒の肴にすると言って・・・・・パク・・・・。
パク、の話は隠しておいて、大県神社に森長可のことが何か記録されていないか尋ねてみるけれど、神社には記録が残っていないとのこと。でも、蛇の神様が住んでいるという話は昔からあるとのことで、蛇が住むという言い伝えのある本殿右横のご神木を拝観。

神社から駅に向う途中の三叉路から道を曲って、森軍と池田軍の越えた物狂峠を登った。森長可が楽田を発してここを通ったのは死の3日前のことである。
当時、小牧山の家康軍と楽田城の秀吉軍はどちらも動かぬ膠着状態にあったが、先に動いたのが秀吉に加担していた池田恒興と森長可だった。三河へ攻めこんで、家康の本拠地の岡崎城を衝こうという戦略だった。2万の軍勢でこっそりと動いたが、2万もあれば当然敵の知るところとなり、長久手の合戦に至る。
あちらが小牧、こちらが長久手、歩いて距離や方向を確認しながら、この地を歩くと、ジモティーでない私にも、どうやって長久手の合戦に流れこんだのか、状況や地理がよくわかって嬉しい。
物狂峠はその名に似つかわしい峠だ。登ってる私もヘトヘトだ。大型トラックばかりが通っていて、歩道からはみ出していない私に「プォー!!」と鳴らしていく。うう・・・歩兵はつらい。
神社で見せていただいた本によれば、物狂峠の地名の由来はズバリ池田軍と森軍が死にモノ狂いで越えたことに由来するのだという。
羽黒の合戦で惨敗して以来、何度も「討死」することを漏らしていた長可は、完全に後がない。一体どんな思いでここを越えたのだろうか。長可の事ばかり考えながら峠を登る。

峠の一番高いところを過ぎたところで、Uターンして楽田へ戻った。体力に自信があった私なのに、かなりクタクタだ。すべては、あのキャリーバッグ(大)が私の体力を奪ったのか・・・・?

駅の近くにある楽田城跡へ行った。今は思いっきり小学校となっている。チャリで走っていた地元の方を制止して伺った話では、小学校のグランドがあるあたりがひと昔前までは小山であったけど、児童が増えたから削ったとの事だった。削ったのか・・・・。秀吉軍が未来をかけて至極緊張状態にあった場所で、今は小学生によって「踊るポンポコリン」とかが踊られているのか。

再び犬山へ。もう日も暮れてきたので、残りの時間は犬山市立図書館で史料をコピーしまくった。
駅の近くのお店で食べた濃厚な味噌煮込みうどんが疲れきった体、しかもよく考えたら昼ご飯食べるのを忘れていた私にとって、泣き出したくなるほど美味しい味だった。

楽田城跡画像わろし。
楽田城跡の石碑を移動したという記念に
作った石碑もあった。
  物狂峠
激しく体力を消耗。
10月13日(木) トンガリ

朝。宿泊咲先に近い可児駅から御嵩線に乗る。いつもは明智駅で降りて兼山に向うけれど、今日は通過して終点御嵩駅で降車。車では何度も通過したけど、やっと史跡めぐりに来れたぞ御嵩!感動したけど、この字、読めないぞ!御嵩!
答え:御嵩(みたけ)

平安時代からといわれる古刹願興寺は駅の目の前。ここは、信濃で本能寺の変を聴きつけた森長可が、東美濃諸将の裏切りを切りぬけ、金山城へ帰城する時に休息に寄った寺だった。長可がこの願興寺の縁起と由来を安養房真祐法師に尋ね、火災にもめげない寺院復興への苦心を聴いて、森長可と家臣たちは、感激の涙を流したという。彼ら今まで信濃で散々寺を焼いていた気がするけど、なんというピュアな人たちなんだ。
長可はこの寺にお布施も進上し、後に弟の森忠政も米十八石と金銭を寄進し、寺領を安堵している。
しかし残念なことに、平日のせいか寺にあった売店も閉まり、お寺のご住職もお留守のようでお話も伺えず、ご朱印もいただけなかった。

御嵩は江戸時代においては中山道の宿場町であったので、御嶽宿本陣跡などを見学しつつ、中山道みたけ館に入った。中は図書館と郷土館になっている。そこから小高いところへ向って歩くと愚渓寺にたどりつく。森忠政が禁制をくだしてもいる。京都竜安寺の石庭のモデルになったという美しい枯山水の庭園を見に境内に入ると、今日はイベント中だったのか本堂に大勢のお坊さんや信者さん達がいらして、庭に踏み込んだとたん、みんなが一斉に私を見た。ぎゃっ!(><)そのままムーンウォークで後退。こうして美しい石庭で和むこともなく、二重の塔を拝観して、御嵩を後にした。その足で兼山に行くため、明智駅で途中下車。兼山に行くバスの時間まで1時間近くあるので周辺を散策していると、藪の中にキジが3匹もいた!慌ててデジカメを向けると、キジは、キラリーンと流し目をした後、走っって逃げ始めた。私も一緒に走る。キジ、走る。私も走る!!キジ、更に走る!私も更に走る!!キジ、藪の奥へ逃げこむ!私も藪の奥へ逃げこむ(してない)!!
ぐったりしてバスに乗り、森一族の本拠地・兼山へ。

まずは森家の菩提寺・可成寺に詣でて、お墓まいり。
またここへ私を来させてくださってありがとう。
蘭丸もなかでも有名な和菓子処「梅園」さんでお茶をいただきながらお菓子を食べて、その後、古文書の師匠の家に。私の解読した原稿を一緒に答え合わせ。

そして夕方、蘭丸亭で「野戦なべ定食A」を食べたあと、兼山町商工会のみなさんと合流。日曜日の武者行列、「若獅子蘭丸2005」の下準備の邪魔をしに乱入した。すでにもう今日の時点で、着付け会場に甲冑を用意しておく。
でた!やっぱりでた!!今年より登場の森可成甲冑!革包畦目綴二枚胴具足。赤穂大石神社にある実物を模したもの。何より特徴的なのは、このトンガリ。こんなトンガリを見たら誰も目が釘づけ、戦場でも恋せずにはおれまい。

銀箔押大釘頭立付頭形兜(先端)
実物は、桧の木でできていて、
木の枝にひっかかるとびよ〜んと曲って
首が負傷しない安全設定。
革包畦目綴二枚胴具足
鶴ちゃんがキュートな仕上がりに
なっています。
 
10月14日(金) クマ覚悟で苗木攻め

「あの道は熊がでるよ。」「●●さんはイノシシに体当りされたんじゃ。」「熊よりもガケに落ちる危険が・・・。」
私が行こうとしていた黒瀬街道は、奈良時代にはすでに通っていたといわれる日本最古道のひとつ。江戸時代には黒瀬街道と呼ばれた道で、森長可もこの古道を使って苗木城を攻めた。

私も歩こうと思っていたら、黒瀬街道をなめすぎていたらしく、今じゃ、この道を通る人はなし。
あきらめかけていた時に、一番最初に私を脅していた師匠が車で連れて行ってくれると言ってくれた。黒瀬街道の狭すぎるところは通れないけど。熊がモノサシ持ってきて窓にさしこんで車のロックを外さないことを祈りつつ出発。

黒瀬街道ツアーの始まりは木曽川の黒瀬湊(八百津町)!\(^o^)/
最初はウキウキして師匠と歴史話に花が咲いていたけど、黒瀬街道も奥まると、だんだんと道が狭くなり、森の中で薄暗さ倍増、運転している師匠が「ハクション!」などとやってハンドルを誤った日にゃ、ハリウッド並にガケ真っ逆さまアトラクションを体験できる。「ほら、熊とか出てきそうだろ?」うぉお!先生、会話のたびにこっちを見ないで、前、前を見てください!!
そして、延々と恐怖の道のりの果てにやってきた、坂折峠。すでに黒瀬街道は狭くて車では抜けられない。
坂折といえば、『日本の棚田百選』にも選ばれた棚田の美しい田園風景が広がる。残念ながら私が来た時にはすでに刈りいれも終わっていたので、土色だった。しかし、ここでの目的は棚田ではない。あくまでも森長可なのだ。「待ち伏せ」という場所が残る。地元の人に「知らん。」と言われたけど、「待ち伏せ」という場所が残る。森長可が苗木城に向って進軍していた時に、待ち伏せしていた苗木方の小池兄弟に狙撃されてしまった場所だ。狙撃されてしまったものの、長可は落馬しただけで、かすり傷ひとつなかった。落馬したどころか、本によっては単に「馬から下りただけだった」とも書かれていて、どうしようもない感じである。その小池兄弟は、長可を仕留めたと思ってそのまま帰ってしまい、後日、長可にどえらい目に遭わされてしまう。その、待ち伏せの場所が、坂折川の上流にある。場所を聴くため、棚田のヘリを伝って登っていき、上のほうにいたおばあさんの元へ。
尋ねると、首を振られて「人が行くようなとこじゃない。」と言われてしまった。行っちゃいましたけど。
待ち伏せ付近
この奥の世界が待ち伏せしていたところ。
鉄砲池古戦場
沼っぽい。


そして、再び車上の人となる。道が広くなってちょっとホッ。鉄砲池古戦場へと向った。
森軍と苗木の遠山軍との激しい合戦で討ち死にした武士の屍や鉄砲などを投げ入れ埋めたと伝えられる池がある。後にここから鉄砲が出てきたから「鉄砲池」と呼ばれているらしい。今は道路の改良で池も狭くなっているけれど、どっちかというとでかい水溜りだったけど、微妙におどろおどろしいのだけど・・・。

いよいよ中津川市街地に入って苗木城跡へ。

苗木城
佐賀県の巨石パーク(有料)も真っ青天然の
要害!


その苗木城のすごいことといったら!!!天然の巨石の上に城を築いているのである。丸い巨石に柱の跡があったりしてこの上に建物を建てたのかと驚かされる。さらに木曽川側は完全なる絶壁!まさに天然の要害なのだ。苗木城山頂で、師匠と一緒にランチタイム。空気もおいしい。眼下を流れる木曽川も美しきブルー。
「長可はこんな長い道のりをやってきて、更に相手のホームグランドで戦ってよくぞこの城を落とせましたね。」
すごいよ、車で来た私たちがクタクタというのに、昔の武士はすごいよ。
またいつか来た時には、長可の本陣跡なども訪れたい。
そして城をおり、苗木遠山資料館へ。気になったのが、苗木城復元模型。丸い巨石の上に建てられた建物はどうして支えていたかというと、床下から石にかけてすさまじい数の柱と、つっかい棒をしまくっている。スパイダーかっ?!(と、いうか、本当にこんな建て方?!)しばらく展示を読み進めていくと、苗木城の年表があり江戸時代に「地震により大崩壊」と書いてあった。かっこいいぜ苗木城!

ちょっと休憩してコーヒーでも飲もうかと師匠と喫茶店に入った。そして師匠が席を外すと言って店を出たまま帰ってこない。待つ間に、喫茶店に本があったので広げて読んでいると、「地元の人々はこの山を蘭丸山と呼んでいる」という中津川市のびっくり情報が目に飛び込んだ!Σ(゚□゚; な、なに?!・・・・・・蘭丸山?!
しばらくして師匠が車にタバコをとりに戻っていたと息を荒げて帰ってきたが、私のほうが息を荒げていた。

それから中山道歴史資料館へ。宿場や、幕末にこの道を通って将軍家へ嫁下した、皇女和宮などの史料があった。資料館の向いが中津川市立図書館だったので結局そこで蘭丸山の謎を追った。
どうやら、当時からその山は森蘭丸にちなんで蘭丸山と呼ばれていたらしく、でも、何で森蘭丸にちなまれるのかわからない。森蘭丸が岩村城主だったから、岩村領であった中津川にもその名が残ったの?(調査中)

ここも江戸時代の中山道の宿場のひとつ「落合」。落合宿本陣跡旧庄屋屋敷(現曽我家宅)の前を通って、一路、兼山へ。
夜には師匠と師匠の奥様に美濃加茂の有名なお店に鰻を食べに連れて行っていただいた。鰻のお店なのに、いたる所フクロウだらけ!九州のセイロ蒸しとは違って焼き鰻もまた美味しい!月夜の馬串山(長可が肥田氏から奪取)を見ながら、ホテルへ送ってもらう。

10月15日(土) どんぶり巨石体験

早朝の兼山湊の澄んだ空気に包まれて深呼吸。木曽川の水のゆっくりした流れにしばし心を移す。
森家の菩提寺・可成寺と、それから蘭丸の母・妙向尼の眠る常照寺にお参りして金山城跡へ登った。
山頂に行けば、朝靄がかって前方がうっすらとしている。白い幻想の中にいるみたいだ。誰もいない中、はしゃいでいたけど、だんだん寂しくなって山を下りる。
途中、雨が降り始めたので、雨の兼山橋で木曽川を眺めて1人たそがれていた。後ろはホルモン屋さんの看板。

午後からは師匠に頼んで駄知というところにある稚児ケ岩に連れて行ってもらった。師匠が気をきかせて道すがら、どんぶり会館に連れて行ってくれた。名前だけ聴いて動揺してしまったが、どんぶり茶碗をメインに陶磁器がたくさん売られていた。でも、はや心は陶器より岩♪磁器より岩♪何度も道に迷いつつ、数度どんぶり会館の前を車で走り稚児ケ岩へたどり着いた。

森長可の家臣の加藤彦右衛門が駄知に移って百姓暮らしをしていた。この夫婦には子供がなかったのでいつも長可にもらった観音様にお祈りしていたところ、霊験があり観音様より「自分を西南数丁の山頂に安置すれば、子供を授けよう」とのこと。観音様を滝ケ洞という場所に安置して祈っていると、谷底から赤ん坊の声、夫婦が行ってみるとそこには大きな岩があるだけ。しばらくしてこの夫婦に玉のような子供が生まれ、その岩が稚児ケ岩と名づけられたとのこと。その長可にもらったという観音様を探したけど、見つけ出せず、雨の中、稚児ケ岩だけ見て帰った。巨石・・・・。
稚児ケ岩
相変わらず、写真とるの下手です。


 それから、また兼山に戻り日曜日に行なわれる予定の甲冑軍団の寸劇リハーサルを見た。終了後はお菓子と蘭丸のお酒を買いに行く。雨はひどくなっている中、モリノマの多★ッ木ーさん登場。一緒に蘭丸亭で食事をした後、兼山の方に頼んで夜の金山城に連れて行ってもらった。登ったところが霧がかってすべてが白い世界!!!!さっきまで雨が降っていたのを忘れていた・・・・・。しかし、幻想的といおうか、何といおうか、かえってよかった。感動した(小泉口調)。夜って時間と現実の境目がなくなるようで実は好き。
今日も満足して宿泊先に戻った。その後やっぱり、兼山の銘酒で酒盛り。

10月16日(日) 武者行列、父よ、屋根のある駐車場で立ちあがる時は要注意。

武蔵ケ渕跡にある水神様祠
嗚呼、ハニーフラッシュ届かず!!!


朝、4:30起床。暗闇の中、ホテルのチャリンコを借りて、多★ッ木ーさんの案内で長可VS.スッポン妖怪の舞台武蔵ケ渕跡に向う。
しかし乗りなれない自転車だった上に、サドルが高いままで自転車をこいでいたので、止まる時は、大きく転倒することによって止まっていた。人も車もまったく存在しない世界。武蔵ケ渕跡にある水神様祠にたどり着いた時も、まだ世界は闇。闇の中の祠を前に緊張するところへきて、祠からいきなり「パンパーン!!」という音が聞えてきたのでまた転倒しそうになった。私達しかいないはずの世界で、暗闇からおばあさんが出てきて「おはようございます。」と言う。人間だったのでホッ。(゚□゚; それにしても、すごい早朝参拝だ。

始発の電車で兼山に行く。兼山湊可成寺常照寺の後は今日も金山城跡へ。しかし、雨の翌日のせいなのか、山の中は恐ろしいことになっていた。

ワタアメ大作戦。(゜∀゜)
あっちにも通り道にクモの巣、こっちにもクモの巣。こっちにも、こっちにもクモの巣。昨日私が通った時には何もなかった道にも新しいクモの巣。なんか、雨があがったからと言って張りきりすぎじゃないのか、クモ?まったく節操ないぞ、クモ。先に歩くほうが悲劇に見まわれる確立が高い。この時ばかりは、先陣は優しく人に譲ろう。と、いいつつ自分がクモの巣に突っ込んだ。くり返しクモの巣に突っ込んだ。山は怖い。地上にはクモがいるから用心せねばならず、地下からは地底人が「くせ者!」と刀の切っ先を突き出してくるかもしれないのでまた用心せねばならず、まったく息つくヒマもない。ジョロウグモの餌食になり半狂乱の私の横で、多★ッ木ーさんが落ちていた棒を拾ってピピルマピピルマプリリンパ〜♪クモの巣を棒にクルクルからませてワタアメを作る。ああ、立派なマイスターになってくれ。山頂に登り終えた時は、やっとたどり着いたという安心感でなんだか、泣きそうだったよ。

山を下りて、多★ッ木ーさんが木曽川の向こうに行きたがったので、ついて歩いて行った。ああ、道路!クモのいない道路!なんてステキなんだ〜♪兼山橋を渡って微妙に兼山を去り、八百津町へ入った。ずっと歩いていくと木曽川を挟んで、金山城跡のある古城山と兼山の町並みがすっぽりとカメラに収まるスポットにたどり着いた。ど、どこで知ったのか、こんなすごい場所。

古城山と兼山の町並み
木曽川を挟んだ八百津町側から激写

今度は下渡橋を渡って兼山に帰った。公民館へ行くと、すでにお祭りの準備が整っていた。
武者行列の出発地・蘭丸亭にワープ。すでに現場には大勢のひとだかり。

森ファミリー役のみなさん
個人情報保護法に触れない程度に縮小。
父、そのまま立つと、屋根に刺さります。
  森可成さん騎馬

今年の森蘭丸は男性がやるのですね〜。森ファミリー役のみなさまをパシャ☆
しかし、否応がなしに眼がいくのは、やはりトンガリ兜を身にまとう森可成役。気になる!やはりどうしょうもなく気になる!!目が離せない〜!!「えいえいおー!!」の掛け声とともに行列が始まった。
前日の大雨が嘘のように晴天で、この日は逆に暑すぎるくらいで、武者行列の参加者のみなさまは、着物の上に甲冑を着込んだだけでもお暑いでしょうに、更にその身体を陣羽織でラッピング状態だったのでさぞ大変だったでしょうね。それでもみなさま、涼しげに笑ってさすが☆

平民の私は蘭丸五平もちを頬張り、行列について行く。
MY甲冑軍団の寸劇の主人公は手筒山に散った森家の長男・森可隆。すごい見物人で見づらかったけど、何とか人垣から垣間見た。
そこで、去年もお会いした”ほり”さん、ふじさんと今年もバッタリ。やはりこのお祭りはリピーターが多し。このおふたかたは森家に限らず、歴史に広く通じておいでなので、歴史へぇ情報をのっけから沢山放出してくださった。更に車で真禅寺参りにまでお誘いいただいて、思いっきり便乗。

武者行列がUターンするのを待つ間、今回最後の可成寺常照寺の森一族のお墓へ参り、感謝とお別れのご挨拶。それから森家の前に金山に入った斎藤正義の菩提寺の浄音寺へお参り。更に長可の乳母・お立の方ゆかりの森立寺にお参りすると、ちょうどご住職が表にいらっしゃったので、しばし森家のお話し。

ほりさんとふじさんと待ち合わせた公民館に行くと、既に武者達であふれていた。
更に嬉しいことには団地猫さんとおっしゃる方が私を尋ねてきてくださり、なんか奪いたくなるような資料をいっぱい見せてくださった。ついにはマンションのチラシまでも広げて「この辺が大留城跡で」と長可の進軍解説!初対面でマンションのチラシを囲んで森長可を語る愛知県民と新潟県民と福岡県民。
兼山に来るとパワーあふれる森家生ファンがいっぱいで、やっぱり嬉しい!!

ここで兼山と別れ、ほりさん、ふじさんの運転で、可児の鳩吹山のふもとにある真禅寺の森長可のお墓へ連れて行っていただいた。ここに、長可の首が葬られたという。忘れていた頃にまたクモの巣が登場。長可の墓にしか目にはいらず、危うくクモの巣に飛びこみそうになる。ピピルマピピルマプリリンパ〜♪

そして、行きがけに偶然発見した土田城跡へ寄ってもらった。ご存知、織田信長の生母・土田御前の出身地だ。しかし、初めて知った驚愕の事実・・・・土田は「どだ」と両方とも濁って読むらしい・・・・。信長のママンは”どだごぜん”なのか。濁りすぎの気がしないでもない。

金山城の材木が転用された噂のある犬山城を川の対岸の鵜沼から眺めた。美しい。やはり城がある風景はキリリと引き締まる。
犬山城下の奥村邸までも連れて行ってもらえた。ここには、信長や蘭丸・長可も咽を潤した名水・銀名水が今なお涌き出ている。みんなでスズメのようにチャパチャパ水を飲む。

奥村邸銀明水
君らも飲んだと思うと、それだけで
甘露のごとし



ほりさん、ふじさんとは犬山駅でお別れ。旅の最後に思いがけないサプライズをどうもありがとう。
私も、あとは名古屋に向って帰るのみとなった。最後に多★ッ木ーさんと「味噌煮込みうどん」を食べようという事になったけど、先日私が行った駅前のお店が閉まっている!!Σ(゚□゚; お、お腹すいているのにぃ!仕方がないので、思い当たるほかの店まで歩いた。
あのキャリーバッグ(大)を引っ張って。そして、その店も閉まっている。かなり大きな店なのに、日曜日を定休日にしているのか、犬山!!!
3軒目も閉まっている。ひょっとして打ち合わせた・・・・・(涙)?こうなったら、意地でも味噌煮込みうどんが食べたい。お腹を空かせて2人でさまよっていると、駅前に食堂があった。ふあああああああ!!!!

こうして、長いはずの旅もあっという間に終わった。
月曜日からは、仕事は残業の日々確定。