森 蘭丸長定 (1565−1582)


熱いけど頑張る もり らんまる ながさだ

幼名・通称/ 乱法師

岩村城主(もしくは金山城主 説もあり)

合戦 / 本能寺の変

命日 / 天正10年6月2日

法名 / 月江宗春居士(阿弥陀寺)

瑞桂院殿鳳山知賢居士(可成寺)正翁定是禅定門(大徳寺)

墓所/京都阿弥陀寺・美濃可成寺

蘭丸の”蘭”の字は後世に充てられた漢字であり、乱丸
というのが正しい。当時の文献には”乱””乱法師”で登場す
る。”蘭丸”と出て来る戦国期の史料は一件しか確認されて
いない。
また、諱は”長定”とされるが、自署は”成利”となっている。
”長康”とする文献もあるが疑わしい。
本人の自署では”成和”とも読めるという学者もある。(私には
それも成利と読める)どれやねん。

 

■■■■■■■■■■■■■この戦国の世に生を受け■■■■■■■■■■■

森蘭丸長定。ほんとは森乱法師成利なんだけど、定着しているので蘭丸でいきます。

永禄8年(1565年)森 蘭丸は、金山城主森三左衛門可成の3男として金山城で出生。

「玉のごとき男子なり。(金山記全集大成)」という記述があるので、最初は球体をして

いて徐々に人の形になったものと思われる。なんてね。

元亀元年(1570年)蘭丸が6歳のとき、父の可成は坂本にて浅井・朝倉連合軍を迎え

うって思わず戦死してしまった。長男の森可隆も父に先立ち朝倉攻めで18歳の華の

命をちらしている。

その家督は次男である長可が継いだ。13歳。当主の兄貴は血の気の多い戦国

向きといえど、それを支えるべき弟たちはまだ10歳に満たない小子。たぶん、論語

読むより、カニとりに男のロマンを感じていたお年頃だ。

世は戦国、生き残るためには幼稚園児ひまわり組の蘭丸も大人になって兄弟手を携

えて助け合って生きていかねばならない。

■■■■■■■■■■予が、天下にも換え難き秘蔵のもの■■■■■■■■■

天正5年(1577年)4月、笑顔のさわやかな少年が一人、血で血を洗う戦国の表舞台に

デビュー。蘭丸15歳(諸説あり)。小小姓として、信長に仕官。お母さんやお兄さん、親戚

家臣が、社会にでても蘭丸が恥をかかぬように、よってたかって教育したのであまりに才

智武勇、品行方正で気の効く少年に育ってしまい、下手に信長に気に入られてしまったか

ら、さあ大変。もう信長もそばから放したがらない。「他に人なきが如く」蘭丸を寵愛した

という。

かといって、蘭丸は信長に媚びへつらう性格ではなかった。逆に相手が上様であろうが

悪いことは悪い、とぴしゃりと言うはっきりした性格であった。森家の家族が歯に着ぬ

きせぬ性格だったからだろう。歴史をひも解いても、この家族、よく信長に殺されなかった

な、と思うくらいに母子そろって信長にずけずけ言うし、軍律や言いつけをど忘れして

しまうことしばしばである。この恐怖心がまるで欠けているところが、森一族の魅力でも

ある。

しかし信長、逸話をみても蘭丸が怒り出したら、はいはい、わかったわかった、と笑

って聞き入れていた。それを知る信長の周辺も何かあれば、貴族も武将も身分かま

わず折詰をもって蘭丸に頼って来る。蘭ちゃん、毎日菓子など食い散らかして虫歯に

でもならなかったのだろうかと心配である。

かくして蘭丸は本能寺に倒れるまでの5年間と2ヶ月、信長の影のように彼に付き従う

ことになる。

■■■■■■■■■ 蘭丸、その才腕をふるう■■■■■■■■■■■■■■

蘭丸はその才能を信長に認められ、諸将の接待、信長の取り次ぎ、諸事奉行、奏者

に重用され、加判奉行もつとめた。はんこ奉行である。

・天正7年(1579年) 7月26日: 信長は塩川国満に銀子百枚を遣わす。蘭丸、中西
権兵衛尉、使者となる。塩川、蘭丸の品行方正をえらく褒める。

・天正9年(1581年あるいは天正8年) :河内・金剛寺にたびたび信長の使者として
赴く。

・天正9年(1581年):信長は信忠・信雄・信孝に名物の脇差しを与える。蘭丸、使
者となる。

・天正10年(1582年)7月25日 : 信長、伊勢遷宮の資金として三千貫文を寄進する
ことを信忠に命ず。蘭丸、信忠への使者を勤める。

・天正10年(1582年)1月26日 :斎藤六太夫の戦功に対し、褒美の品々を与える。
蘭丸、使者を勤める。斎藤、蘭丸の品行方正をえらく褒める。

・天正10年(1582年)3月20日 :武田の旧臣・穴山梅雪らに本知安堵の朱印状を
与える。蘭丸、矢部善七郎と使者と勤める。梅雪、ノーコメント。

・天正10年(1582年)5月20日: 信長、幸若太夫の能や舞を見物。蘭丸を使いと
して黄金10枚を与える。

逸話によれば、蘭丸は虚無僧に変装して上杉領にスパイに行った。父も変装が

得意だったが、蘭丸のばあい、謙信にあっさりばれている。よほどベタだったのだ。

いや、虚無僧にしては放っておけない美しさだったのだ。ところが謙信にも気に入ら

れ、悠々と上杉城下を観光して帰ってきている。謙信は気前のいい男だったから

毘沙門天キーホルダーくらいお土産にくれただろう。

蘭丸は品行方正さはユニバーサル規格だった。

人から蘭丸の話を聞くにつけ、信長は蘭丸を誇らしく思い、ますます重用したという。

■■■■■■■■■■■■■■母とともに和睦に奔走 ■■■■■■■■■■■

信長の勢力は益々勢いを増すばかりで留まることをしらない。そして、本気で宿敵

石山本願寺を取り潰そうとしている。これって本気でやばい。ついに本願寺は、救い

を求めて蘭丸の母に白刃の矢を立てる。この選択は正しかった。

母は夫・可成の戦死以来、髪をおとして妙向尼を名乗っていた。

天正7年(1579年)、本願寺は妙向尼に信長との仲介を依頼してきた。母、妙向尼は

浄土真宗に深く帰依している。この対立に心を痛めていた妙向尼は蘭丸ともども信

長に本願寺の助命嘆願をする。翌年には信長と本願寺のあいだで和議の誓詞を交

わした。しかし、蘭丸はこれを「信長公のはかりごと」と母に伝える。驚いた妙向尼は

一身を投げ出し信長に懇願し、とどめの殺し文句が炸裂。

「蘭丸・坊丸・力丸3人の子供も此世にありて仏敵となさんよりも、生害いたさせ、

禅尼が浄土参りんの供に召し連れなんと存じたてまいらせん侍んべる」

絶対信長が折れると見越していたに違いない。

信長としては大事な蘭丸をハスの花咲く浄土なんかに連れて行かれてはたまらない。

とうとうこの母子、信長から本願寺を守る約束をとりつけてしまった。

蘭丸は顕如に本願寺を立ち退くように命じ、顕如は指図のままに和泉国皆塚(現在

の貝塚市)へ退いた。

10年の長きに及ぶ石山合戦は「蘭丸を死なせるからね。」の痛烈な発言であっさり

終止符を打ってしまった。そういうものなの?ねえ、そういうものなの?
■■■■■■■■■■■■■■ 蘭丸、城をいただく ■■■■■■■■■■■■

天正10年(1582年)3月、信長は無敵といわれた武田をついに滅亡へ追い込む。

信長父子は、戦功大きかった長可に旧武田領の信濃4郡(更級・高井・水内・埴科)を

加増。そして『信長公記』によると蘭丸に金山よなだ嶋を与えた。(『信長公記』によ

れば岩村城。岩村城へは城代として各務元正が入る。)

是ハ勝蔵忝キ次第ナリ。

「蘭丸がお城をもらえたのは、勝蔵(長可)が頑張ったからだ。」カキコ。

『信長公記』の筆者太田牛一すら驚きを隠せなかったように、まわりの者達は蘭丸の

異例の出世に驚いただろう。だけどね、四六時中信長の面倒見る人たちの方が、

一国滅ぼすより大変なんだぞ。信長がこの部屋の風通しが悪いよね。といえば全員

で障子ふすまを次々と蹴破り、信長が池に飛び込めば、全員で池に滑り落ちる。

まあ、人々が言うように、武田討伐での長可の戦功大なり、という理由もあったかも

しれない。常に品行方正で忠実だった今は亡き可成に報いる気持もあったかもし

れない。何にせよ、この若き蘭丸の将来にかける信長の期待は大きかった。

信長が朝廷に三職(関白・太政大臣・征夷大将軍)いずれかの官位を強要したという、

”将軍職推任事件”(諸説アリ)に蘭丸も関わっていたことが、公家の勧修寺晴豊の日

記『晴豊記』で見うけられる。

もし、本能寺なかりせば、森兄弟は後々に続く織田政権を支える重用な支柱になっ

たことは間違いない。

■■■■■■■■■■■■■■ 本能寺に華と散る ■■■■■■■■■■■■

天正10年(1582年)5月29日、羽柴秀吉の応援の為、信長はわずかな近習をつれ、京

都の本能寺に入った。6月2日未明、水色桔梗の旗が本能寺を取り巻いてなびいいた。

十重にも二十重にも広がる水色桔梗。「お花畑にいるみたーい♪」とはまず言わなか

ったであろう。さすがに1万2千の軍勢には血の気が引くだろうな。

森蘭丸は信長に告げた、「明智が者と見え申し候。」

是非に及ばず

ついに本能寺に怒涛のごとく大軍がなだれ込む。数えるのみの味方ながら、戦の経験

のない小姓、馬廻りたちがよく敵の軍勢を防いだ。

もう、この先自分がミンチにされることが判っているからみんな猛烈に怒り狂って闘った

に違いない。戦う少年たちの中には森蘭丸の2人の弟、坊丸力丸もいた。信長も自ら

武器を手にとり戦っていたが、君主たるものが身分の低い者たちと戦うことを蘭丸が

いさめ、うなずいた信長はそのまま障子の向こうに消えた。最後の最後まで蘭丸に小言

を言われているじゃないか。

安田作兵衛。この男、内側の燭台の光から障子に映った信長の影にむかって槍を突

き立てた。槍は障子を突き破り、信長の右脇を突き刺した。してやったり!とこれを更

に追わんとする作兵衛に、蘭丸の十文字の槍がうなった。

作兵衛はぶざまに溝に突き落とされた。信長の首級、という最大の戦功を邪魔された

作兵衛の怒りは大きい。だが、当然ながら蘭丸は蘭丸で非常に怒っている。超むかつ

いている。森家の人間を切れさせてもまた悲惨である。

作兵衛は大事な大事な大事な、それはもう大事な大事なパーツを蘭丸に槍で貫かれち

ゃったとさ。

作兵衛はその槍に取りすがって立ち上がると、右手の刀で蘭丸の体をすくいあげて

切った。


ほーむ