● 長田又左衛門正室 ● 命日 / 不明 ※大徳寺三玄院で慶長13年4月15日に 活下火の語を読まれた「劫甫宗永禅尼」 |
■■■■■■■■■ 妹君か、ご息女か、それすら混同されているけれど・・。■■■■■■■■ |
彼女のことは、余りよく判っていない。いつ生まれ、どのように生き、どのように死んでいったか。 森可成の子供ではなく、妹であったとする系図もある。 彼女について判っていることは、森家の家臣長田又左衛門の妻となったという事だけ。 この長田は可成が蓮台村にいた時代よりの家臣で、可成が信長より金山を拝領したときに共に引 き移ってきたというから、ずいぶんと古くからの森家家臣だった。 |
■■■■■■■■■■■■■■■ とにかくも夫は出ていった。 ■■■■■■■■■■■■■ |
夫であり、長臣である・長田又左衛門。森 長可の代になって問題が起きた。 天正12年(1584年)豊臣秀吉に味方すると決めた長可が家老たちを集めて岐阜で秀吉と対抗する 織田信孝の人質になっている仙千代をどうすべきかと相談しているときに、又左衛門が「仙千代様 はお捨てなさって秀吉公へ荷担すべきです。」と言ったことがあった。」結局、長可は兄弟の情を捨 て切れずに岐阜城に走り、仙千代を岐阜城から突き落として奪回したのだが、後に長可が戦死し、 この忠政(仙千代)が森家の当主になって、先の発言問題で居づらくなって森家を離れた。 妻である彼女はどうなったのだろう? 常識が通じない一家ではあるが、この時代の常識と照らし合わせれば、夫についていくことはなく、 離縁して森家に残らざるを得なかっただろう。そうなると、結局嫁いだ姉妹4人、全員夫との縁薄く、 森家に戻ってきてしまっていることになる。(旦那に怒って自ら実家に帰った人1名を含む。)兄弟 と同じく、姉妹の運命あわれ。 |