長可正室(池田)


命日 / 慶長4年7月20日

法名 / 安養院殿春林宗茂大姉

      (大禅定尼とした文献もある)  

墓所/ 京都妙心寺盛岳院(未確認)

      高野山悉地院(未確認)

 

■■■■■■■■■■■■■■■■鬼武者の妻となる。■■■■■■■■■■■■■■■■■

後世に書かれたものだが、『金山記全集大成』のストーリーを借りつつ話を進めよう。

あるとき信長が池田恒興(=勝入)を呼び出して尋ねた。

「そのほう、娘がいると聞いたのだが、森長可に嫁がせるというのはどうだろうか。」

信興は畏まって返事する。

「ありがたきお言葉です。ともかくも、ご上意とあらば。」

信長は機嫌よく森家の家臣、関小十郎右衛門・林長兵衛・各務一族を呼び

「池田の娘を森長可に嫁がせるので準備をするように。よい時期を選んで婚礼にしよう。」と言った。

家臣一同平伏し、「ありがたき幸せ」と信長の前を退いた。

城に帰って家臣ども、さっそく長可の母・妙向尼に伝えると、上から下まで大喜び。

・・・・・て、当事者の長可には誰も教えてあげないのか。(−−;)

ともかく、かくして吉日には池田家より、美しい玉の輿がめでたく森家へとついできた。一族はざわめ

きまわって杯かわし、亀千年鶴万年の祝い事、千代に八千代にめでたいめでたい♪とおのおのよろ

こび賑わった。

この恒興の娘が長可の元へ嫁いだのは、天正3年1575)のことだという。

歴史的には長篠の戦いの同年、長可17歳の時である。

乳兄弟の池田恒興の娘を遣わした信長。森長可への期待のほどがうかがえる。

彼女の名前は不明。長可の遺書末尾にある「おひさにも申し候。」の一節により、この「ひさ」が奥方

の名前と推定する方も多いが、確実な文献がでない限り、本当のところは謎のまま。

■■■■■■■■■■■■■■■■■わが嘆きは果てもなく■■■■■■■■■■■■■■■■

こうして長可の奥方となった彼女。長可兄貴の奥さんになれた上に、同じ屋根の下であの蘭丸らが

ほっつき歩いていて、しかも「義姉上さま♪」と言ってくれるのだと思うと、のたうちまわりたくなる

ほどうらやましくてたまらないという女性方も多いだろうが、それからの彼女には余りにも堪え難い不

幸の影がつきまとう。結婚わずか10年にして、愛しき夫は長久手の戦いで戦死してしまった。

そればかりでない。同時に父・恒興と兄弟の之助もこの戦で失ってしまう。戦国の定めといえど、彼女

にとっては世界が崩壊してしまうような悲劇だったに違いない。

悲報を告げられた彼女は、長可の弟・仙千代とともにひれ伏して泣いた。この2人の乱れようには、

周囲は目も当てられぬさまだったと言う。


「一、をんなどもは、いそぎ、大がきへ御越し候べく候。」

長可の遺書はこう語る。池田家の大垣城へ帰れ_____と。

短い一節に、自分の死後を案ずる長可の、妻への愛情が見え隠れする。

彼女にとって長可とはどんな存在であったろうか。

まず間違いなく、度肝を抜く大胆な意志と行動で常に妻をハラハラドキドキさせた富士急ハイランドの

ような夫ではあっただろうけれど、この長可が、信長の死後、森家のこれからの道を問われた時も、

徳川家と豊臣家が二分した時にも、常に池田家をたてて、妻の実家と行動を共にしたのである。

秀吉に味方したのは、決して秀吉のためではない。あいつサルだし。奥方様にとっては、最後まで池

田家に義理を尽くしてくれたそんな夫に、涙ながらに感謝していたのではないだろうか、という説希望。

彼女と長可の間には子があったか、定かではない。ただ、長可の遺書の中に、”おこう”という女性

が登場する。この女性が娘ではないかという説もあるが、やっぱりこれも本当のところはよくわから

ない。「※注1−これは私の娘」とか、「※注2−これは私の妻」とか、長可が遺書の末尾に作者注

でもいれてくれればよかったけれど、それもなく、今は全てが憶測でしか語れない。


また、伝説の域になってしまうが、男子がいた、という話もある。長可が討死にした折に、まだこの男

子があまりにも幼かったので、奥方が「まずは長可の弟・忠政どのに跡を継がせ、この子がしか

るべき年齢になってから家督相続させましょう。」と提案したけど、忠政が家督を持っていったっきり

返してくれなかなったので、仕方なく子供をつれ、人里離れたところで暮らした、という話。もしそれが

本当としたら、ここでいう奥方とは長可の側室の話かも知れない。

なぜなら、史実は、彼女は未亡人となったあと、中村式部少輔一氏と再婚して、長男・一忠を生んで

いるのだ。(後の松平伯耆守忠一)。  

■■■■■■■■■■■■■■■■ 短き余生もあるや  ■■■■■■■■■■■■■■■

一、をんなどもは、いそぎ、大がきへ御越し候べく候。

彼女はこれを実行させられたのかも知れない。森家を去って他家に再婚したということは、やはり長

可との間に子はなく、夫の死後、森家に留まる理由がなかったと考えるのが妥当なのかも知れない。

再婚自体は秀吉の命令だろうけど、忠政が家督をついで、また子供もいなかったなら、森家には居

場所がなくなってしまったことだろう。ともすれば、まわりが気遣いで、この若い未亡人が再婚できるよ

うに計らったのかもしれない。

しかし、嘆かわしい人生が彼女の命を縮めたのか、夫・中村一氏の亡くなる1年前に、関が原の大戦

を知ることなく、短い波瀾の生涯を閉じた。

慶長4年7月20日卒 。京都盛岳院にご位牌が有るとのこと。管理人は未確認ながら高野山悉地院に

もまつられているという。  法名 安養院殿春林宗茂大姉(大禅定尼とした文献もある)  

子の
伯耆守一忠は、徳川より松平の姓を許され伯耆18万石の米子城主になるも、一忠死後、継子

なき理由で一代限りで中村家は取り潰された。


しかし、彼女が森家に嫁いだことでもたらしたものは大きい。

森家と池田家とは、後世を通じて良き間柄であった。


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