長可HYPER                                              


もっと深くつっこみたい森長可情報どかーん!!                               HOME


一、 森長可の名称について

通称・仮名(けみょう) 勝蔵   他人が呼ぶ時に使う名前。「かつぞう」ではなく、「しょうぞう」と発音するのが正しい。勝蔵は幼名とされているが、記録や書状でもずっとこの名で呼ばれているので、とりあえず通称ともしてみた。
他人の記録には耳で聞いた「しょうぞう」の音を、「庄三」「勝三」など、別の字で書かれていることも。
実名(じつみょう) 長可   本人から名乗るべき名。他人が呼ぶことは失礼にあたるので、本人以外は親兄弟くらいしかこの名を発音しない。
  〃 長一   途中「長一」から「長可」に名前を変えたという逸話もあるが、きちんとした記録には登場しないので、恐らくは、「長可」の「可」の字が読み誤って伝えられたもの。
官名 武蔵守   本来官名は朝廷に与えられるもの。(当時の武将は勝手に自分で名乗っていた者や貴族のコネで朝廷から買っていた者もいた。)
長可は信長に”武蔵坊弁慶”の再来と呼ばれて「武蔵守」という名を与えられたともいうが、事実関係は不明。
幼名 勝蔵   元服する前の名。
異名 鬼武蔵
夜叉武蔵
  「鬼」「夜叉」は”強い”者にささげられる言葉。長可は、その強さ故にこのように呼ばれた。
異名 2 屋根葺衆   武田方の仁科盛信の守る信州高遠城を攻めた時に、長可が家臣と共に城の屋根に登ってこれをはがし、城内の敵に鉄砲を打ちこんだところから、森軍はこうあだ名された。


二、『信長公記』に登場する長可

巻七   (天正二年)七月十三日、河内長嶋御成敗として信長御父子御馬を出され、其日津嶋に御陣取、(中略)、信長天下の儀仰
付けらるゝに依つて御手透御座なく、御成敗御延引なされ、今度は諸口より取詰め、急度御対治なさるべきの御存分にて、
東は御嫡男織田菅九郎、一江口御越しなり、御伴衆、織田上野守、津田半左衛門、津田又十郎、津田市介、津田孫十郎、
斎藤新吾、簗田左衛門太郎、森勝蔵、坂井越中守。池田勝三郎・・・・
     
巻十五   (天正十年)二月三日、(武田征伐のため)三位中将信忠、森勝蔵、団平八先陣として、尾州、濃州の御人数、木曽口、岩村
口両手に至つて出陣なり
    (天正十年)二月十四日、信州松尾の城主小笠原掃部太輔、御忠節仕るべきの旨、申上ぐるに付いて、妻子(=妻籠)口より
団平八、森勝蔵先陣として、晴南寺口より相働き、木曽峠打ち越し、なしの峠へ御人数打上られ候処、小笠原掃部大輔、手合
せとして所々に煙を揚げられ、御敵飯田の城に、ばんざい、星名彈正楯籠り、拘へ難く存知、二月二十四日、夜に入り廃北候なり
    (天正十年)二月十五日、森勝蔵三里ばかり懸出し、市田と云ふ所にて退後候者十騎ばかり討止め候キ
    (天正十年)二月十六日、(中略)、則、三位中将信忠卿、大嶋に御在城なされ、爰には河尻与兵衛、毛利河内守入置かれ、
又、先手飯嶋へ御移りなり。森勝蔵、団平八、松尾の城主小笠原掃部太輔、是等は先陣仰付けられ、先々より百姓共、己々
が家に火を懸け、罷出で候なり
    (天正十年)三月朔日、三位中将信忠卿、飯嶋より御人数をだされ、天竜川乗越され、貝沼原に御人数立てさせられ、松尾の
城主小笠原掃部太輔案内者として、河尻与兵衛、毛利河内守、団平八、森勝蔵、足軽に御先へ遣はされ、(中略)、其日はか
いぬま原に御陣取、高遠の城は三方さがしき山城にて、うしろは尾つづきあり、(中略)、川下に浅瀬あり、爰を松尾の小笠原
掃部大輔案内者にて、夜の間に、森勝蔵、団平八、河尻与兵衛、毛利河内、これ等の衆乗渡し、大手の口川向ひへ取詰め候
    (天正十年)三月二日、払暁に御人数寄せさせられ、中将信忠卿は尾続を搦手の口へ取りよせられ、大手の口、森勝蔵、団平
八、毛利河内、河尻与兵衛、松尾掃部大輔、此口へ切つて出で、数刻相戦ひ、数多討取り候間、(中略)討捕る頸の注文、仁科
五郎、原隼人・・
    (天正十年)三月七日、織田源三郎、団平八、森勝蔵、足軽衆仰付けられ、上野国表へ差遣はされ候処、小幡人質進上申し、
別状これなし。(中略)三月八日、信長公、岐阜より犬山迄御成り。九日金山御泊り、十日高野御陣取、十一日、岩村に至つ
て信長御着陣
    (天正十年)三月廿九日、御知行割仰出ださるゝ次第、覚(中略)、信濃国、タカイ、ミノチ、サラシナ、ハジナ四郡、森勝蔵に下
さる、川中嶋表在城、今度先陣を励粉骨に付いて、御褒美として仰付けられ、面目の至りなり、(中略)、金山よなだ嶋、森乱に
下さる。是は勝蔵忝き次第なり
    (天正十年)四月五日、森勝蔵、川中嶋海津に在城致し、稲葉彦六、飯山に張陣候の処、一揆蜂起せしめ、飯山を取巻きの由
御注進候、(中略)、四月七日、御敵長沼口へ八千ばかりにて相働き候、則、森勝蔵懸付け、見合せ、トウと切懸り、七、八里の
間、追討に千弐百余討捕り、大蔵の古城にて女、童千余切捨て、已上、頸数弐千四百五十余あり、此式に候間、飯山取詰め候
人数は勿論引払ひ飯山請取り、森勝蔵人数入置き、稲葉彦六御本陣諏訪へ帰陣、(中略)、森勝蔵山中へ日々相働き、所々の
人質固め、百姓共還住申付けられ、粉骨是非なき様躰なり

《解説》
『信長(公)記』は信長の家臣・太田牛一の著による織田信長の伝記で、その記述の正確さより第一級史料に位置づけられています。
長可は初陣とされる長嶋の一向一揆征伐に初見、武田攻めの時に先陣として大いに活躍を見せます。

天正12年3月29日
  国掟 甲・信両州
一、関役所、同駒口、取るべからざるの事
一、百姓前、本年貢外、非分の儀、申し懸くべからざる事
一、忠節人立て置く外、廉がましき侍生害させ、或ひは追失すべき事
一、公事等の儀、能々念を入れ、穿鑿せしめ、落着すべき事
一、国諸侍に懇に扱ひ、さすが油断なき様、気遣ひすべき事
一、第一慾を構ふにつきて、諸人不足たるの条、内儀籍続にをひては、皆々に支配
  せしめ、人数を抱ふべき事
一、本国より奉公望みの者これあらば、相改め、抱へ侯ものゝかたへ相届け、其
  の上において、扶持すべきの事
一、城々普請丈夫にすべきの事
一、鉄炮・玉薬・兵粮蓄ふべきの事
一、進退の郡内請取、道を作るべき事
一、堺目入組、少々領中を論ずるの間、悪の儀、これあるべからざるの事

右定めの外、悪き扱ひにおいては、罷り上り、直に訴訟申し上ぐべく候なり。
天正十年三月 日

国掟  甲州・信州の両州
一、関所、駒口(馬や荷物に課税する関所)では通行税を取らない事
一、百姓からは本年貢以外に、非法の税を課さない事
一、忠節ある人を取り立てる他、抵抗する侍は自害させる、あるいは追放すべき事
一、訴訟や争い事については、よくよく念を入れて究明したうえで判決する事
一、国の諸侍は懇ろに扱え、しかし油断なき様、気遣いすべき事
一、支配者第一でやりたい放題にやってしまうことで、皆が不満に思うのであるから
  所領を引き継ぐ時は皆と統治し、分に応じて家臣を抱えるべき事
一、本国(金山のある美濃)から奉公を望む者がいれば、よく調べて、
その者の主人へ届け、その上で雇う事
一、城々普請を丈夫にする事
一、鉄炮・玉薬・兵粮を蓄える事
一、自領の道を整備する事
一、他領との堺目が入り組んでいる場所で、少々の土地
  で領土争いを起こして、相手に憎しみを持ってはならない。
右定めの外、不都合な事があれば参上して、直に訴訟すればよい。

コメント:甲州と信州支配に対する信長の国掟です。
     森長可の信濃支配に際して、信長から出された基本方針がよく判ります。



『多門院日記』に登場する長可

天正11年11月20日   一、坂本ノ城二居杉原ハ筑州無並仁也、近日以之外者二狂云々、又先日於瀬田、森ノ勝三濃州ヨリ上ニ、
矢兵衛衆ト喧嘩、互ニ散々、色々
アツカイ※ニテ手前ハ不苦、一段ノ物クルイナレハ勝三何二クルイアルヘキト云
々・・・」
(”口”編に”愛”という字。)

(内容)坂本城にいる杉原は羽柴筑前守秀吉の家老で並ぶ者のなき御仁である。近頃、この者は何かに狂ってしまったとのことだ。
また先日、森長可が美濃より瀬田に上ってきたところ、杉原弥兵衛の衆と喧嘩し、お互いに散々なもので、色々と仲裁が入った。
「私は仲直りに異議はない。」「そちらは一層の”キ●ガイ”のようだが長可殿は何に狂っておるのか。」等というやりとりがあったそうだ。
天正12年4月14日   一、去十二日尾州ニテ及一戦、森勝三、三好孫七郎、池田、保利久太郎以下終了、乍去筑州陣ハ無殊儀云々、
今の分ハ家康勝ニ可成歟、如何、
(内容)去る十二日に尾張で一戦におよび、森(勝三)長可、三好孫七郎(→のちの豊臣秀次)、池田、堀(久太郎)秀政以下が破れた。
     しかし、豊臣秀吉の陣は事無きを得た。このたびは徳川家康の勝ちとなるだろうか、どうだろう。

コメント:『多門院日記』は奈良・興福寺多門院筆。
当時坂本城代であった杉原家次は秀吉の側近で信頼が厚く、功績も多かったのですが、秀吉との行き違いでついにはキチ●イ呼ばわりされてしまったそうです。ここではその息子杉原矢兵衛(長房)の衆と森長可のキ●ガイなすりあいが書かれています。何をケンカしたのでしょうね。
長久手の合戦のことも記されています。「終」は「破れた」と訳しておきましたが、「死」という言葉を婉曲的に「終」と言ったのでしょうか?
(でも、秀次や久太郎は死んでいません。)


四、『家忠日記』に登場する長可

天正12年3月17日   一、甲午、犬山表へ働候、森武蔵守らもち候屋敷押破、敵敗北、三百余討捕候、家中へも十五人うち候
(内容)犬山へ出撃。森武蔵守らの屋敷を打ち破り、敵は敗北、300余りを討ち捕らえ、私の家中の者も15人を討ち取った。
天正12年4月9日   一、乙卯、岩崎筋へ働候て、敵先勢池田勝入父子、森武蔵守、其外壱萬五十余討捕候、酒左者小牧之おさへ
にて候
(内容)岩崎筋に出撃して、敵の先勢の池田勝入父子、森武蔵守、その他1万50余りを討ち捕らえた。酒井左衛門尉忠次は小牧の
おさえだった。

コメント:『家忠日記』は徳川家康の家臣で、小牧長久手の戦いにも従軍していた松平家忠の日記です。
3月17日には羽黒の古い屋敷を柵で囲んで陣取っていた森長可を敗北させたこと、4月9日には池田・森の両名を討ち取ったことを記しています。


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