●●●妙向尼(1524-1596)●●●
● 勝寿院妙向禅尼
・しょうじゅいん みょうこうぜんに ※俗名は「えい」との伝承あり。 |
■■■■■■■■■■■■■■戦国の女として生きる■■■■■■■■■■■■■■ |
蘭丸着用の具足が今に伝えられる。その兜には母の筆跡を象ったとされる「南無阿弥陀 仏」の前立がついている。蘭丸は信長の前でこれを着用したのだろうか。信長に媚びることなく その母子の堂々たるや、潔いものを感じる。 妙向尼は、伝わるところでは、俗名を「えい」と言ったともいうが、はっきりした処はわから 大永4(1524)年生まれ。『森家先代実録』 天文5(1536)年苗木生まれ。『林家覚書』 生まれであったほうが、自然のように感じ、安産できそうだが、いかがだろう。 |
■■■■■■■■■■■■■馴れ初めは信長公の仲介■■■■■■■■■■■■■ |
『林家覚書』は、さらに詳しく、彼女と森可成の結婚にいたるまでの興味深い話を綴る。 彼女の実家の林家は初め斎藤家に仕えていたが、濃姫が織田家に輿入れしたときにつき従 って織田家の元へ行くことになり、信長の仲介で森可成と妙向尼が結婚するに至ったというの だ。そして、この夫婦は10人の子に恵まれる。 『森家先代実録』によると、森家の子供たち全員が彼女の子供という。10人・・・。 『林家覚書』では、男子6人全員と、女子2人(関共成室、梅)が妙向尼の子と記述されている。 それほどの子宝に恵まれた彼女であるが、同時に、夫や子を失う断腸の悲しみの時がやっ てくる。元亀元年(1570年)に長男・可隆と夫の可成が討死にする。彼女は剃髪して妙向尼と 号した。 |
■■■■■■■■■■■■■■大坂石山本願寺を救う■■■■■■■■■■■■■ |
以下、妙願寺に伝わるお話である。 天正7年(1579年)信長が宿敵石山本願寺を取り潰そうとしている事に困り果てた本願寺 は、救いを求めて蘭丸の母に白刃の矢を立てる。妙向尼に信長との仲介を依頼してきた。 妙向尼は浄土真宗に深く帰依している。この対立に心を痛めていた妙向尼は蘭丸ともども 信長に本願寺の助命嘆願をする。翌年には信長と本願寺のあいだで和議の誓詞を交わし た。双方の対立に心を傷めて病にふせっていた妙向尼は和議の話しをきいて喜んだ。一 人で喜ぶのがもったいないといわんばかりに、妙向尼は母のもとに立ち寄った蘭丸にとめど 無く語る。 「片方は3代の恩の有る主君、そしてその人の元で如来に弓引くのは私の子供たち。もう片 方は現世を助け後世を助ける如来上人。どちらが勝ってどちらが負けようとも、私はもうこれ までだと思っていたけど、有り難くもこの和議。本当に信長さまにも徳がおありになるし、如 来上人にも徳がおありになる。」と顔色もよく嬉しそうにしていたのに、純粋に喜ぶ母を見て 蘭丸は、はらはらと泣き出すではないか。 「この和議は上様のはかりごとです。一旦本願寺の軍勢を散らして後、簡単に滅ぼそうとい うお心なのです。蘭丸は仏に弓引くことへの恐れを知らないわけではないのです。しかし君 命には私心を捨てるのが武の常です。私は地獄に落ちるでしょう。母上の嘆きを見るのが辛 いのですが、これもまた仕方の無いことです。何があっても驚かないで下さい。」 蘭丸のこの言葉に驚いた妙向尼はついに信長の元へ赴いた。一身を投げ出し信長に本願 寺の助命懇願する。 「命を保ってこの憂き目を見るよりは、私は先立って浄土へ参るつもりでおります。さらに蘭 丸・坊丸・力丸3人の子供たちも此世にありて仏敵となさんよりも、生害いたさせ、私の浄土 参りの供に召し連れようと存じます。この子達にどうぞ暇をくださいませ。」 信長は妙向尼の鉄のように固い心に動かされ、ついに折れた。「可成の忠節と禅尼の信心 に免じて本願寺をそのまま置こう。」 |
■■■■■■■■■ ■■■■■■■■嘆きの母■■■■■■■■■■■■■■■ |
信心深いこの妙向尼に、仏は慈悲を施してはくださらなかった。 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変。蘭丸・坊丸・力丸の3人の子が討死にした。さらに わが子長可は信州敵中に在り。愕然とする妙向尼の元へ、頼みとする長可が敵を蹴散らし とうとう金山城へ帰りついた。妙向尼の前にやってきた長可は涙を禁じ得ず言葉もでなかっ た。妙向尼は長可にとりすがってむせび泣く。 |
■■■■■■■■■■■■■■■■逝去の日 ■■■■■■■■■■■■■■■■ |
武門の家の宿命だろうか、夫を亡くし、子供たち5人が先立った。娘の夫の討ち死にも接した。 妙向尼が願ってやまなかったこの世へのいとまごい。それが叶ったのは慶長元年(1596年) 8月2日のことだった。病になり、眠るように生涯をおえた。 妙向尼にとっては気の遠くなるような長い長い人生だっただろう。 今は兼山の常照寺に父林新右衛門とともに眠る。 |