妙向尼HYPER


母よあなたは美しい。数少ないけど妙向尼情報!!                           HOME


一、 妙向尼の名称について

俗名 営(えい)   これは一級史料ではないものの、後世、尾張藩士によって記述された『濃陽志略』や『濃州徇行記』には”營”の名が見受けられる。今のところ、管理人が確認した文献で妙向尼の俗名が記されたものはこの2件しかないけれど、興味深いものなので特筆した。
ちなみに、位の高い夫人の名は、周囲からは俗名ではなく、その土地にちなんだ名で呼ばれるのが通例だった。お市の方は「小谷の方(小谷城にちなむ)」、茶々は「淀の方(淀城にちなむ)」だったように、妙向尼も、例えば「金山の方」などといった感じで敬意を払われ称されていただろう。
法名 釈妙向   私達が一番親しんでいるのが法名にちなむ”妙向(禅)尼”の名。「釈」とは”釈迦の弟子”の意味合いで使われている。
その他 妙好   本願寺で記された『元和日記』では妙向尼はこのような当て字で書かれていた。


二、『元和日記』に登場する妙向尼

元和六年六月一日ヨリ日次覚   七月廿八日ヨリ八月二日マテ森美作守母堂妙好廿五回忌之御法事之次第アリ
日記中外題
    一、七月廿八日ノ御太夜ヨリ八月ニ日迄、三日三夜のノ間御法事具被成御沙汰、是ハ森美作守秀家(忠政)母儀妙好廿五年忌ニ相当リ申し候故、銀子百枚上リ申候ニ付テ也
1620年7月28日の夜から8月2日まで三日三晩の間、京都・本願寺において妙向尼の25年忌の法事が執り行われた。25年忌に当たって、銀子100枚が贈られてきたことによる。
     
元和七年日次之覚   一、御堂荘厳、御影前ニ花足ソナワリ候、阿弥陀堂も同前也、去年八月森美作守殿御母儀御年忌之如御法事、北南之間もアケツケ也
お堂も荘厳になり、親鸞上人像の前にお供がされる。阿弥陀堂も同様。去年8月妙向尼の年忌法事の時、北南之間のフスマ、障子は開付だった。

《解説》
『元和日記』は、元和年間中(1615-1624年)の本願寺の日記類が、近年に入って編纂された際に名づけられた史料名。本願寺における妙向尼の死後の法要に関するもので、妙向尼は「妙好」と記されてはいるものの、元和六年の記述は、妙向尼が信長と石山本願寺の間に入って和睦に奔走した事に起因する、本願寺と森家の関係も見えてくる。



つづく・・・・・・・・。   HOME