■ 可成関係文書一覧 (番号をクリックすれば、詳細項目へジャンプします。) |
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番号 | 文書名 | 機能 | 年月日 | 差出人 | 宛先 | 形態 | 所蔵 | 備考 |
1 | 織田信長書状(判物) | 書簡 | 永禄9年4月 日 | (信長) | 森三郎左衛門 | 不明 | ||
2 | 森可成等連署禁制 | 禁制 | 永禄11年10月12日 | 森三左衛門尉その他 | ||||
3 | 森可成寄宿免除状 | 書簡 | 永禄12年1月18日 | 森三左衛門尉可成 | 芝薬師阿弥陀寺 | 横切紙 | 阿弥陀寺蔵 | UP |
4 | 森可成等連署禁制 | 書簡 | 永禄12年4月1日 | 森三左衛門尉可成その他 | 堺 両生惣中 | 不明 | 個人蔵 | |
5 | 可成等連署状 | 書簡 | 永禄12年10月20日 | 可成・重政・惟政 | -- | 不明 | UP | |
6 | 松井友閑等連署状 | 書簡 | 永禄12年11月4日 | 徳庵友閑その他 | 横路分 名主百姓 | 不明 | ||
7 | 森可成・坂井政尚連署状 | 書簡 | 年不明1月18日 | 森三左衛門尉可成坂井右近尉政尚 | 武芸八幡寺 | 武芸八幡宮 | ||
8 | 森可成等連署状 | 書簡 | 年不明11月3日 | 森三左衛門尉可成その他 | 清水寺□□院 | 不明 | 清水寺成就院 | |
9 | 飛鳥井雅敦書状 | 書簡 | 年不明1月24日 | 雅敦 | 森三左衛門尉その他 | 不明 | ||
10 | 森可成等連署状 | 書簡 | 年不明3月2日 | 森三左衛門尉可成その他 | 多田院 役者 | 不明 | ||
11 | 森可成等連署状 | 書簡 | 年不明2月1日 | 森三左衛門尉可成その他 | 天野山(金剛寺)沙汰所 | 不明 | ||
12 | 森可成等連署状 | 書簡 | 年不明11月28日 | 三左衛門大尉可成その他 | (長谷川三郎兵衛) | 不明 | 個人蔵 | |
13 | 森可成等連署状 | 書簡 | 年不明11月5日 | 森三左衛門可成その他 | 所々 名主百姓 | 不明 | ||
14 | 森可成書状 | 書簡 | 不明 | 森三左衛門尉可成 | 不明 | 個人蔵 | ||
15 | 森可成書状 | 書簡 | 年不明12月18日 | 森三左衛門尉可成 | 妙法院殿御門跡 日厳院殿御奉行所 |
横切紙 | 妙法院殿 | |
16 | 森可成書状 | 書簡 | 元亀元年8月12日 | 森三左衛門尉可成 | 遠藤六郎左衛門尉 (盛数)殿御宿所 |
縦4寸8分 横1尺5寸2分 |
個人蔵 | |
17 | 稲葉一鉄書状 | 書簡 | 年不明8月28日 | 一鉄 | 大徳寺御納所 | 切紙 | 大徳寺 | |
18 | 浅井長政書状 | 書簡 | 元亀元年9月22日 | 長政 | 栖雲軒 | 不明 | ||
19 | 六角承禎書状 | 書簡 | 元亀元年9月22日 | 承禎 | 市川源介殿 | 不明 | ||
20 | 朝倉義景感状 | 書簡 | 元亀元年10月8日 | 義景 | 斎藤新三郎殿 | 不明 | UP | |
山崎吉家書状写 | 書簡 | 元亀2年1月22日 | 山崎吉家 | 上杉家 | 不明 | UP | ||
詫美越後守・鳥居兵庫肋書状写 | 書簡 | 元亀2年2月10日 | 詫美越後守景徳・鳥居兵庫肋景近 | 明多斎・曽我兵庫殿 一色式部少輔殿 |
不明 | UP |
現代語訳・解説:管理人 引き続き追加予定
原文 正月十八日 森三左衛門可成 (判) 芝薬師 |
書下し文 当寺寄宿などの事、御下知の旨に任せ、御免除(に) 相違有るべからざるものなり、恐々謹言 正月十八日 森三左衛門可成 (判) 芝薬師 |
現代語訳:この寺(阿弥陀寺)に兵士から寄宿などを頼まれても、(信長公)御下知の趣意のままに その義務を免除することに相違ない。
解説:今は信長や蘭丸の菩提寺となっている阿弥寺への森可成の免除状です。信長時代の当時の阿弥陀寺は、現在と違い大変な規模の寺で、寺の中に12院もあり、織田家関係者も御用達の寄宿場所となっていました。この書状は織田家関係者以外の者が「泊めてくりゃれ。」とやってきても断ってもいいよ、という書状です。VIPの寄宿となれば阿弥陀寺もその準備やもてなしに相当苦労しました。この寺の周囲の住人すら警備上の理由から他所に移らせなくてはならなかったようです。そのような苦労を減じてあげる意味でも、有り難い書状です。この免除状を楯に断れますから。また、「恐々謹言」とは手紙に使われる結びの言葉です。
原文 信長御断子細候条、先此折帋志賀郡へ可被遣候、以面可申候、 恐々謹言 十月廿日 可成(花押) 重政(花押) 惟政(花押) |
書下し文 信長御断の子細候条、先ず此の折帋(おりがみ)を志賀郡へ遣さるべく候、 面を以って申すべく候、恐々謹言 十月廿日 可成(花押) 重政(花押) 惟政(花押) |
現代語訳:信長が拒絶した、これには詳しい事情があるので、先ずはこの折紙を志賀郡に送るように。面会の時に話をする。
解説:森可成、中川重政、和田惟政の連署です。折紙とは紙の下半分を裏に折り返して用いた形態の書状。武家の間での儀礼的な文書にはこの形式で書かれました。誰に宛てたのでしょうか。
原文
首一森三左衛門討捕之、忠節神妙、弥可抽軍功者也
斎藤新三郎殿 |
書下し文
去月二十日、江州志賀郡下坂本に於いて合戦の時 首一つ(森三左衛門)之を討捕う、 忠節神妙、弥(いよいよ)軍功を抽(ぬき)んず可(べ)き者也 十月八日 義景 斎藤新三郎殿 |
現代語訳:(そなたは)去月(九月)二十日に近江国志賀郡、下坂本において合戦の時、森三左衛門の首一つを討ち取った。
朱勝な忠節である。一層、軍功を尽くしておくれ。
解説:これは「感状」と呼ばれる類の文章で合戦での功績を賞するものです。斎藤新三郎が私には誰だかよく判らないのですが、朝倉家家臣に斎藤氏っていますよね。詳しい事をご存知の方はお知らせ下さい。ただ、文献などを見ると、可成の首を討ち取ったのは、浅井方の石田十蔵という者になっていますけど・・。ま、いっか。
(追記):斎藤新三郎について、情報をちょうだいいたしました。ありがとうございます。(以下、抜粋。)
斎藤新三郎は朝倉義景の四番目の妻「小少将」の兄か弟か、つまり斎藤兵部少輔の子です。朝倉義景が自刃した後、義景の母光徳院、小少将、義景と小少将の子愛王丸と随伴していたようですが、丹羽長秀に捕われた後の動向が不明です。
※参考まで(同日に朝倉義景より家臣に発行された感状です。)
去月廿日、於江州志賀郡下坂本合戦時、首一討捕之忠節尤以神妙、弥可抽軍功者也、謹言、 十月八日 (義景花押) 小泉藤介とのへ |
去月廿日、於江州志賀郡下坂本合戦之時首討捕之忠節神妙、弥可抽軍功者也、謹言、 十月八日 (義景花押) 佐藤弥四郎殿 |
去月廿日、於江州志賀郡下坂本合戦之時首一討捕之忠節神妙、弥可抽軍功者也、恐々謹言、 十月八日 義景(花押) 三反崎八郎左衛門殿 |
原文 旧年至江州坂本御出馬、然者信長対陣之段、有無御心許之由、従上杉殿拙者迄御書御使関半五郎方海津江被相越候、其趣申上候処、御入魂御快然之旨、川豊(河田長親)迄以御直書被仰候、彼表之始末、自是雖可申入候、手前取乱、不能其儀候、信長八月中旬頃、江北表出張之間、浅井方為御合力、旁我等式被差向候、然処、信長南方辺へ進発之条、又当手衆従江北経同西路相越候処、森三左衛門尉(可成)志賀要害を被取出、下坂本相拘之由候間、拙者為先勢、九月廿日、彼口攻崩、森三、信長舎弟織田九郎を始数多討捕之、即日落居候、然者三好三人衆任堅約之旨、同廿四日京表相越、於青山、勝軍山、此方相図之煙揚之半、信長南方表引払、志賀へ打出ニ付而、南方衆青山、局笠山、叡山、同上坂本持続、無異義相踏候、依之、十月中旬時分、至于上坂本御進発、式部太輔殿、其外馬廻同前候、其後度々被及御合戦、数輩被討捕候、如此之条、敵種々調略候キ、十一月廿五日暁、信長人数千余堅田浦へ指入、越州通路可相止造意之処、翌日廿六早天、式太、前波被差向、敵人数不残一人、堅田地下人同意之者、彼是千五百計被討捕之、御大利候、於彼表前藤討死、無比類働、不及是非候、就其、公方様三井寺迄被移御座、一和之儀、頻而被仰出之条、極月十五日被納御馬、従信長様々誓詞在之儀候、此等之趣、自然之刻直和(直江景綱)迄御伝達肝要候、猶於様子者、関半可有演説候条、令省略候、必々当春之御慶等追而可申人候、恐惶謹言 山崎長門守 正月廿二日 吉家 |
書下し文(とりあえず森可成が出てくるくだりのみ…) 信長八月中旬頃、江北表出張の間、浅井方御合力の為、旁(かたがた)我等式差し向わされ候、然る処、信長南方辺へ進発の条、又、当手衆江北経より同西路を相越し候処、森三左衛門尉(森可成)志賀要害を取り出でられ、下坂本相拘し由候間、拙者先勢として、九月廿日、彼の口攻め崩し、森三(可成)、信長舎弟織田九郎(信治)を始め数多之を討ち捕り、即日落居候 |
解説:朝倉氏の武将・山崎吉家が元亀2年に上杉家へ書き送った元亀元年(1570)の合戦の模様のレポートです。
朝倉義景から上杉謙信の家臣・河田長親に出された書状に添えられたものだそうです。
朝倉方の目線で森可成の動きがわかります。
原文 江北横山并佐和山表陣取不被引払候ニ付而、切々申上候処ニ、毎度濃州ヘ雖被仰下候、曽不能承引、剰被加人数之旨二候、其外山門領、如近年無道不被相立候、沙汰之限存候、惣別去年一和之儀被仰出候時、前々表裏存候条、始終上下不致分別候之間、難申聞之由多重令斟酌、既三井寺被移御座候而被仰■(”口”に”愛”)上、以霊社起請文被相定候条、於此儀者少モ相違有間敷旨被仰候、殊双方何ニテモ被背上意方到(←於?)有之者、被成御成被仰付、猶於相違者、公儀御身上可被相果之旨、被仰出之由、慥二承候二付而、為申聞儀候、唯今為体公私御瑕瑾、天下之嘲哢不可過之候歟、然者上意之筋目如何可有御座候哉、憚多乍申事、義景雖不屑候、依■(”テヘン”に”卒”)正直正路之覚悟、度々合戦得大利、織田九郎・森三左衛門・堺右近以下宗徒衆悉討取、残党可討果事雖被存案之内、公儀御身上可相果旨被仰出候段、自然左様之儀候而、先節無曲様二候条、不及是非候、而応上意、被方為可遁難儀、被成撰詞、到唯今、勅命、上意可有違変段、霜台御存分不存置候、例之末々以無道如此候哉、如右佐和山表加人数、新義被相講一城之時者、従彼方被立色候間、可出人数儀二候、雖然重而、勅命、上意先被相抱儀二候、然処ニ去二日御返事到来、令拝見候、御局様其外御扱衆有御下向可被仰宛由ニ候、於事実者、乍御太儀、公私御為参、并翻以前申分、被成御発足一途只々自他可為尤候、委細蔵林坊申含候、恐々謹言、 詫美越後守 元亀二年二月十日 景徳 鳥居兵庫肋 景近 明多斎 曽我兵庫殿 一色式部少輔殿 人々御中 |
書下し文(とりあえず森可成が出てくるくだりのみ…) 憚り多き申し事ながら、義景不屑に候といえども、正直正路の覚悟をさしはさむに依りて、度々合戦に大利を得、織田九郎、森三左衛門、堺右近以下宗徒の衆悉(ことごと)く討ち取り、残党計ち果たすべき事案の内に存ぜらるといえども、公儀御身上相果つべき旨仰せ出だされ候段、自然左様の儀候て、先節曲なき様に候条、是非に及ばず候、
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解説:朝倉義景の家臣、詫美越後守景徳と鳥居兵庫肋景近が足利義昭の側近に宛てた文章。織田信長は朝倉氏と和議に及んだにもかかわらず横山城と佐和山城から撤退しないので、和議の仲介役だった足利義昭に再び協力依頼しています。その中で、朝倉が森可成らを討ち果たした話を出しています。