妙向尼逸話


■森可成との結婚

 林家は、美濃国斎藤秀就の家臣で、知勇兼備の名士であった。
林長兵衛の父を林新右衛門直重といい、彼は斎藤の女(濃姫)が織田信長に嫁いだ時、これに付随して
信長に仕え、林長兵衛の妹の”妙向”なる者を信長の媒介により森三左衛門可成に嫁がせ、六男四女を
生んだ。(『林家覚書』)

コメント:信長の仲立ちにより、この2人のロマンスが始まったというお話。信長がこの2人の結婚から、生まれてくる子供達までをずっと見守っていたのだと考えると、何だか素敵ですね。
…これに基づいて考えると、可成と妙向尼が互いを見知ったのは、早くとも濃姫が信長に輿入れした天文18年の時でしょうか。
『林家覚書』の妙向尼の生年に照らし合わせると、当時、森可成は26歳、妙向尼は13歳!!ひとまわり以上の年の差カップルですね。
時に、斎藤秀就って誰?


■母の由来?(謎の一文)

 『金山記』によると、勝寿院妙向禅尼は慶長元年8月2日に病をうけて亡くなられた。この人の画像は兼山常照寺にある。
父、佻君、母は林氏の女で信長公の別腹の妹である。

コメント:信長の別腹の妹っっ?!妙向尼は信長の姪っこ?!で、蘭丸と信長、親戚なの?Σ(゚□゚; と、うちわで話題になった一文ですが、「父は”佻君”」という古文書の解読は、正解なのか判りません。だって、この文字”佻君”だと、意味は”軽薄な人。”(泣)森家の古文書にこれを載せるのはあり得ないし、そういう方ではなかったと(想像)・・・。そして、「母は”林氏”の女」。これも、どうなんだろうと、、、。妙向尼のお父さん林常照が”林氏”なのですけど、母方の姓は明らかではありません。林という名字でも、信長公の別腹??その前に、年齢設定が狂ってくる・・・。(・・)森家の専門家の方々に尋ねてまわっても、この一文は謎のまま。この一件の他に、信長との縁戚関係を語る文章は今のところ、(管理人は)存じません。あまり根拠のないお話ですが、話の種にと解明しないまま載せちゃいます。


■蘭丸・坊丸・力丸死す_____母の涙。

 (森長可は本能寺の変の報を聴き、信濃国から命がけで金山城へ帰城した。)すぐに長可は母公の前にお出になられたが、
ただの一言も、もの言わず、ただ涙にむせぶばかりであった。母公は長可の側に寄り、鎧の袖をつかんで泣いた。
「しばらくぶりですね、武蔵どの。さてもどうしようもない事です。世の中に、武士ほどはかないものはない。元亀の初めに三
左衛門(夫・可成)殿に先立たれた時は、その事ばかりを考えていたが、あなた達兄弟5人がいること故、それを慰めにして
しばらく歳月を過ごしてきた。ここまで皆成長し、その立派な武者ぶりを見るにつけ、ああ、なんて器量ある者どもかな。我が
子に勝る者はおらぬであろう、と、人の持たざるものを持つように嬉しくて、朝夕姿を眺めて感動する時は、もはや三左衛門
殿のことも忘れ、我が子を月よ花よと思い、私はなんという果報者かと、人にも語り、自らもそう思っておりました。
蘭丸、坊丸、力丸、3人ともに信長様へ召し出され、中でも蘭丸は器量人に勝る発明ぶりは他の者を抜きん出ていると耳に
し、私は武運の久しからんことを、神にも仏にも祈り、子孫の繁栄を目にしたくて、我が身の百年の命をも祈りました。
それなのに、3人とも本能寺にて討死したというではないですか。この身のよんどころなく、共に自害をもして果てようと、千度、
と百度と思いました。
又、ある時は思い直して、主君の共をして華やかに討死するのは武士の面目と考えて忘れようとしました。
しかし朝夕、人が語るのを聴くにつけ、忘れるひまもなければ、何の因果でこの身は存命しているのかと考え、あの子達のもと
へ参ろうと、我が如来様にお暇(いとま)を申し上げ、どうかお迎えに来てくださいと、日に何度も心乱していたが、武蔵どのも、
仙千代もやがては帰って来てくれると待ちわびました。道中危険があったと聞いておりましたが、よく恙無く帰って来てくださいま
した。こうして逢うことが叶った事の嬉しさは、夢ではないでしょうか。」妙向尼のこの言葉に、長可は涙を押さえて語った。

コメント:長文です。あんなにできた子がいれば、それは人に自慢したくもなるでしょうね。よくわかります。私の子が蘭丸のようならば、町内にスピーカーで宣伝カーを走らせます。しかし、母、暗殺されかけて疲れて帰ってきた長可どのに語り尽くしますね。長可の言葉は下に続きます。


■蘭丸・坊丸・力丸死す_____兄の涙。

 長可は、母に語る。「お嘆きなさいますな。そのようにおっしゃられても、この世は生者必滅、会者定離の習い、驚きなさることではござい
ません。殊に武士の家に生まれたならば、戦場に出て、生きて帰ろうと思う者は一人もおりません。恩賞をむさぼり、利益を願う事は、家名
をけがすのみでなく、子孫を滅ぼす事でございます。武家にお生まれになられた上は、女性であっても、その道理をご存知ないはずがござ
いませんでしょう。
お嘆きを辞め、念仏を怠らずに唱えてください。母上の回向は、今生にては、我ら仙千代の為の祈祷となし、未来にては父・可成様と
3人の者どもの為の祈祷となしてください。みな、一連の縁となりますようにとお祈りください。」そうやって長可は様々にお諌め申し上げた。

コメント:長可殿も可愛い弟の死が悲しいのですが、ここは心を鬼にして母を諌めます。しかし、投げかけられたその言葉に、母、ちょっとカチンときたもよう。更に母の言葉が続きます。


■蘭丸・坊丸・力丸死す_____母の言葉はまだまだ続きます。

 「昔の聖人である孔子も子に先立たれてお悲しみになられたと聞く。文の道の太祖でもなお、かくの如くですよ。ましてやこの濁乱の
末の世においては、子を失う事はどれほど悲しいことか。3人の最期の時に思いました。こうなる事と知っていたならば、もっと懇ろ
に子供の顔も見、暇乞いもしただろうと。
そうは致さず、信長様に召し出された嬉しさに取り紛れて、しみじみと何を為すこともなかった。他事でも悔いが残る。あの子らが討
死する10日ほど前に、3人とも文を送ってくれました。いずれも同じ事を書いていたのですよ。
”とりわけてこの頃は、母上の事を懐かしく感じます。この夏の間に上様は西へご下向なさいます。ですから3人共、しばらく暇を願い
出て、母上の元へ参ります_______。”
あの子たちに、お目にかかりましょうね、と申す嬉しさ、その日を今か今かと待つところへ、思いもよらず討死とは。3人の文を袖に入
れ、朝夕あの子らが恋しい時には、繰り返し読んでいるのですよ。」と妙向尼は語り、3人の文を袖から取り出した。
武蔵守(長可どの)はそれを読まれ、母の申す世の中の道理に感じ入り、深く嘆き嗚咽した。
武蔵守、「早く奥に入り、お心を休めてください。」といえば、女房たちが母の手を取り奥に入られた。

コメント:そして、母は出家し、妙向禅尼と名乗ったと、文は続きます。Σ(゚□゚; 二度出家?!寺伝では、夫の可成が亡くなった時に出家なされたはずが、『兼山記』では本能寺の変の後に出家なさっておいでです。


■母の嘆きやまず(妙向尼)

 本能寺で我が子、蘭丸、坊丸、力丸が討ち死にした事を妙向尼は深く嘆いて、7月7日に金山に三人の葬儀を行い沢山の
僧侶を集めて千本の卒塔婆を立てて供養した。その場所を後世中野千本卒塔婆といった。

コメント:ご存知のように吉野には中野千本桜という絶景がありますが、それをもじったような地名ですね・・・。数えられないほどの卒塔婆が立てられた風景は、子供を失った母の嘆きに似て、当時の人々の目にどう移ったのでしょうか。そんな葬儀の日に長可兄貴は喪服を脱いでそのまま隣の城を攻めている。悲しみの癒し方も人それぞれ・・・。以降の森家では出陣前はこの千本卒塔婆に陣揃えをしたそうです。


つづく・・。

ほーむ