田 作兵衛(?-1597)

本能寺の変で織田信長に一番槍をつけ、森蘭丸を討った宝蔵院流の槍の名手

人名 / 安田 作兵衛 国継 (やすだ さくべい くにつぐ) 幼名/岩福

出身 /美濃国安田村

生没年 / 不明−慶長2年 (1597年)6月2日

法名 / 善要智仙人禅定門

墓所 / 佐賀県唐津市・浄泰寺


明智光秀の家臣・斎藤利三の配下として本能寺の変に参戦。信長に障子越しに一番槍をいれ、更に深追いしようとしたが、行く手を阻んだ

森蘭丸に、杉縁から庭に突き落とされた。更に蘭丸に十文字の槍で下腹部を突かれたという。その時作兵衛、蘭丸の槍をつかみ取り、持っ

ていた刀で蘭丸を下から刺し殺した。この時、作兵衛21歳、蘭丸18歳。その後、天野源右衛門貞成と改名。後に、頬にひどい腫れ物を患い、

それがもとで自害したと言われる。享年42歳。


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作兵衛その後

本能寺の変の後、しばらくは蘭丸に負わせられたキズのために引きこもっていたけれど、その後の

半生は次から次へと主君を変え各地を渡り歩いている。その理由の多くは、信長殺しの戦犯という

事ではなく、己の性質によるものである気がする。作兵衛は天野源右衛門貞成と名を変えた。豊臣

秀長に仕えたらしい。豊臣秀勝に仕えたという文献もある。蒲生氏郷にも仕えてみたらしい。その後、

森長可に召し抱えられている!なぜ弟を討った男を召し抱える?!何故だ、兄貴!

「武功は武功だからな。」って言ったらしい。そういうものなのだろうか、、、。

しかし、長可は長久手で戦死。

「幼い仙千代に仕えて林や各務に腰をかがめているなんてまっぴらだっ!」と雑言をはいて、森家を

去り、その後作兵衛は九州へ落ちた。青い鳥症候群なのだろうか、、、。

天下が秀吉のものとなってから、捜索の対象となったのがきっかけともいう。でも、仕えてたじゃん。

九州に行って、立花家で3千石で仕えた。

立花統虎(宗茂)に従って朝鮮の役にも参戦した。『立花朝鮮記』まで執筆して、今に残る。

なんか、その後、作兵衛が原因で立花宗茂と福島正則(この人はこの人でトラブルメーカーだが・・。)が

不和になり、こんどは豊臣秀次が作兵衛を召し抱えたという。何の為に九州へ落ち延びたのだ。だんだ

ん、訳がわからなくなってきた。で、秀次が城普請を命じたら、「自分は戦奉公のために仕えたのだ」と家

臣にまで武装させてストをおこしてしまった。で、たぶん首になったんでしょう。

最終的には唐津藩8万石藩主寺沢広高の元に身を寄せる。

何でも二人は親友で、お互いどちらかが国主になったら、もう一方をその十分の一をもって家臣にしよ

うぜ、と約束していたので、広高は作兵衛を探し出し、約束を果たしたという。できればもっとさっさとひ

きとってほしかったものである。そして、8千石もらっちゃった。作兵衛はようやく友のもとに居場所を見

つけ、長い根無し草の生活を終える。

ところが、頬に酷い腫れ物を患ってしまう。腫れ物を琴の糸で縛って3度抜き取ったけど治らず、草津の

湯に湯治に行ったけど治らず、怒って自害したという。怒ると自害するのか、君は。時は奇しくも6月2日

本能寺の変の起こった日。人々は信長や蘭丸を殺した酬いだ、祟りだ、呪いだ、と噂した。髪を垂らした

信長様と蘭丸がビデオの中からでてきて、ヤシガニのように畳に爪をカリカリさせて作兵衛のほうへ這い

ずってくるシーンを想像するとちょっとだが、面白い。

唐津城には作兵衛が本能寺で使用したとされる槍が伝わっている。信長に一番槍を突いたというそれ

である。どれだけ主君を変え、生き場所を変えようとも、この槍だけは大事に持っていたのだ。

信長に一番槍をつけた一世一代の栄誉は死ぬまで手放すことができなかった。

参考文献 :

 


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安田検校(検校は僧職、もしくは盲人の官職名)と称された子どもがいた。天野作兵衛貞能という孫もい

る。調べている折に、今も九州にご子孫がいらっしゃることが判明。

 

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