木右馬助重貞

森忠政の四天王のひとりで怪力の持ち主。

人名 / 高木右馬助重貞伴/ 馬之介/右馬之丞

出身 /未確認

生没年 / 未確認

法名 /未確認

墓所 /未確認 


森忠政四天王と称された人たちがいる。もちろん4人だ。

木曽四天王、明智四天王、徳川四天王、ある集団で最も有力な人達4人。あれは主君が「おまえ、と おまえと、

おまえ、それにおまえがワシの四天王ね。」と四人を選考するのか、もしくは周囲の人々が勝手に誰それが四天

王、と言い始めるのか、「オレ程の人物だと、やっぱ四天王かなってゆーかー。」と、自称し始めて既成事実にな

ってしまうのかは、私にはわからないけれど、ともかく日本人は”四天王”とつけるのが大好きだ。

『森家先代実録』によれば、森忠政の四天王とは、松本三平、高木右馬助・吉原甚五左衛門・川端又助。あるい

は吉原甚五左衛門は抜いてしまって三輪十郎左衛門。ではなくて、伴ノトヘウ(戸兵?)と井戸右衛門だろう、でも

井戸右衛門はちょっと世代が違うしね、という。結局、森家のほうでも把握できていないらしい。

しかしいずれも、剛力の持ち主であって、4人で増上寺のねり塀を押し返した事もあると綴る。

中でも高木右馬助については多くの逸話を残す。身の丈が六尺(約180cm)ヒゲが目の下から生えて胸の毛で

合流していたという、巨魁で濃い人であった。家禄500石で仕える。

彼の剛力の逸話には事欠かない。門の梁に手をかけ、足で馬をカニ挟みにしてぶら下げる事ができたほどの怪力

男だったという。また、銭を柱に押しつけて穴を開けることもできたという。(他逸話

”森の中将秘蔵にて(武野燭談))”というこの右馬助だが、よほど忠政の信頼も厚かったのだろう、忠政の息子・忠

広の付き人に頼まれた。しかしその為に人生が一変してしまった。

忠政の子・忠広は、文を修め武を極め、その容貌も瑠璃や玉(ぎょく)を欺くかの如き美男子であったという。徳

川家の覚えもめでたく、諸臣みな末頼もしく喜んでいたが、いかなる天魔外道につきまとわれたのか、寛永8,9

年頃になるといきなり酒におぼれ、女にふけり、毎日寵愛する白拍子の膝の上を枕に過ごし狂気の沙汰を見せ

始めた。父の忠政も、これでは恥も外聞もあったものではないので、根性を叩きなおそうと自分のいた江戸へ招

き、右馬助に忠広の保護監察を申し付けたのだ。

すると、右馬助は忠広を捕まえて一室に閉じ込めてしまった。部屋が窮屈で、そのうえ右馬助の扱いが荒々しす

ぎたのか、忠広は病気になってしまい寛永10年に30歳で早死にしてしまった。

森家の跡取を死なせてしまった______。もはや、津山に留まることもできない。

かくして右馬助は浪人となって、世間を徘徊した。その時も乗り物2挺をつないでくくり合わせ、それに老母と妻と

息子とを乗せ、更に具足櫃とツヅラを棒の先に結び付けて、それを一人で担いで移動していたというから、もう、

これまた尋常でない。もはやボブ・サップである。

放浪の末、高木右馬助は播州姫路藩主・本多甲斐守政朝に仕えて余生を送ったという。

(ちなみに、本多政朝の家臣には、宮本武蔵と試合をしたという東軍流の三宅軍兵衛などがいる。)


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その他逸話

■ 右馬助が友人と飲んでいたら、その友人が店の床の間にあった鹿の角が欲しいと言い出した。店の亭主は「明日、隣の家から
   ノコギリを借りてきて、切って差し上げますよ。」と快く答えたのに、友人は今夜欲しいのだとムッとしていた。右馬助は友人に「
   角の先っぽが欲しいのか?それとも枝ごと欲しいのか?」と尋ね、先っぽが欲しいのだと知ると、鹿の角先3寸(約10cm)ほど
   をさして力も出さずに軽々と指先でへし折ったという。(美作国代々領主一件)

 ある時、罪人の試し斬りをする時の事。刀の目釘穴が狭い一方、そこに差しこむべき目釘竹(柄の上から刀身の目釘穴に差し
   込んで刀身と柄を固定する竹)は倍の大きさがあったが、右馬助がそれを指で押しこむと、目釘竹は周囲が削れて、目釘穴の
   裏まで入ってしまった。金槌で打ちこんでも入るものでもないのに、彼の力の程は限りない、と友人の塚田新之助が語った。
   (森家全盛記など)

■ 紀州の藩主・松平頼宣公は武芸者を高禄で召抱えていた。そこで、「美作の侍に高木右馬助という剛力者が、浪人して京・伏見に
  徘徊しているので召抱えなされば?」と推挙する人がいたが、頼宣公は、「彼の力は誠にすぐれていて、作州では3、4人分の力を
  持つ強力者とかねて聴いているので、召抱えるべきなのだろうが、主君の為には無益な力だ。召抱えない。」とおっしゃった。森忠
  広の一件は右馬助の運が悪かったのだと納得できるが、その後右馬助が立身を心がけて世間を徘徊するのを知って、頼宣公は「
  無益だ」と言われたのだ。(武野燭談)

■ 高木右馬助が死去の節、鑓持ち一人が殉死を遂げた。その者は、以前人を切って右馬助方へかけこんで、かくまってくれるように
  頼んだので、右馬助は早速かくまって自分の鑓持ちにし、毎日お供に召し連れて歩いた。その鑓持ちが殉死した時の辞世に
  死にとむな あらしにとむな 死とむな されとも深き恩を思へば(筆のちり)


■ 参考文献: 『森家先代実録』、『森家全盛記』、『美作国代々領主一件』、『筆のちり』、『新釈陰徳太平記』ほか 

 

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