可政(1560-1623)

兄・森可成亡き後、森家を支え。のちに津山藩家老となった人物

人名 / 森 対馬守 可政 (もり つしまのかみ よしまさ) 勝也・九一郎・惣兵衛尉

出身 /美濃国

生没年 / 永禄3年−元和9年

法名 / 紹賢

墓所 / 京都・建仁寺常光院 / 津山・寿光寺(墓石なし。位牌のみ。)



 森可政は森越後守可行の2男で、可成の弟。すなわち蘭丸の叔父さんにあたる。兄の可成とともに信長に仕えていた。そんなお兄さんも浅井・朝倉軍と激突して戦死してしまう。跡目は甥っこの長可が継いだのでその補佐をしていたと思われるが、その後、秀吉の旗本として登場する。なんでも、可政の姉さんのお鍋さんが仙千代とともに岐阜城で織田信孝の人質になっていたのに、秀吉方につくことに決めた長可が、可政に何の相談も無く、仙千代しか救出しなかったので、怒れる可政は単身馬にのり岐阜城に乗り込み、姉を助けたという。家族大事といいながら、おばさんの事を放っておいた長可も長可だが、岐阜城の守備って一体どうなっているのだ?! それ以来、長可と可政の中は険悪になってしまい、長可のもとを去ったそうだ。

 秀吉のもと旗本の1人として馬廻衆に属し、近江・坂本で警護の役にあたっていた。小牧長久手の戦い・小田原攻めにも参戦、おおいに功名を立てた。朝鮮出兵の折には肥前(佐賀県)名護屋城の守備にあたっている。
釜山にも行ったみたいだ。可政は秀吉より1千860石の知行を与えられている。

 慶長5年 (1600年)、大垣城主・池田家の計らいでようやく可政と森家は仲直りができている。16年間も険悪な仲に、周囲も見ていられなかったのかしら…。長可を秀吉方につこうと誘った池田家も責任感じていたのかも。まあ、これでめでたく関ヶ原の合戦において可政は松代城主森忠政と一緒に家康に属して戦っている。
 家康が天下人になって直臣にとりたてられ、従五位下、対馬守に任ぜられている。禄高2千300石に加増。

のち、慶長17年(1612年)、美作(岡山県)津山城主となっていた甥・森忠政の招きに応じ、禄高7千石で津山藩家老となる。忠政は叔父を津山の河辺村まで自ら出迎えに行ったという。
森可政が、ようやくいるべき場所に落ち着いたという感じだ。私もホッとした。
元和9年(1623年)6月16日、64歳で死去。

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逸話 スズキ披露延引で立腹

 ある時、春も末のことか、森可政が森忠政へ生鱸(スズキ)を差上げたところ、近習衆が
「忠政公は奥にいらっしゃるので今はご披露は難しい。」とお断りした。
 可政はおおいに立腹して「この時分は落ち目のナマモノがある。忠政殿はお出でになるべきだ。
ナマモノを披露しないのはもっての外。先年、それがしは家康公へ庭先のハシゴを差上げたところ、
御列座の衆は『あの可政は秀吉公の代には、黄母衣の御大役とて口を聞くような者であったが、庭先のハシゴをくれたのか。』と、ご機嫌よく、家康公御前へも召し上げてくださった。何を差し上げても『公儀の場よりも奥の間にいるので披露できません。』と返答した御列座の衆は徳川家にはいなかったぞ。早く、取り返してきてくだされ!」と言うので、近習衆は驚いて早々に生鱸を披露したということだ。
(『武家聞伝書』)
コメント:庭先のハシゴ…ってどういう状況になると徳川家にプレゼントするの???(@_@;)

 

 

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