勝助

長可が烏帽子親となった春日周防の子。              

人名 / 森勝助(もり しょうすけ)・庄助

出身 / 信濃国

生没年 / ?−天正10年(1582年)


天正10年武田滅亡のあと___。

森長可は海津城を居城とする信濃四郡の広域の大名となったが、武田滅びてなお抵抗を繰り返す武田の残党や

土豪の衆三千人に執拗に命を狙われた。それでも、ことごとくこれを打ち滅ぼし、首三千をもあげてしまい、あとは

人質をとってこの地の勢力を押さえることに成功した。

長可は次の目標を越後の上杉景勝と定め、城を打ち出て陣を張っていた時である。天正10年6月6日早飛脚が長

可に凶報をもたらす。主君である信長、信忠の死。弟の蘭丸、坊丸、力丸の死・・・・。さしもの長可も大いに驚き、

嘆き悲しんだ。

「かくなる上は一刻も早く上方へのぼり、明智を滅ぼしてやる!」

長可はこの領土を捨て、明智討伐に奔ろうとしていた。

「それならば、あなたが取り置かれた人質をお返し下され。さもなくば兵をあげ、上洛をはばんでやる!」

信長に降伏していた旧武田方の城主や庄官の春日周防は、長可を、あの長可に恐喝した。

足元を見られたようなこの反逆に、長可が怒らぬはずもない。

「信長公の不慮に、われらを侮りおって!我を討つなら、我らは汝らを討って信長公の弔いをしてやる!」

もはや長可は意地でも人質を返さない。18日に信州を去るに当たり、長可の家臣、大塚次右衛門は手をまわして

国中の一揆を画策した春日周防を説得した。

「そのほうの嫡子・勝助はわが主人・長可が烏帽子親となり、森氏の姓もつかわし、森勝助を名乗っているのに、そ

のほうが一揆に組するとは、前代未聞の不義である。」

春日周防もこの諌めに納得し、こうして長可は手勢三千五百あまりを連れて川中島を出立し・・・・・・

たところへ、一揆軍が襲ってきた!

春日周防は実はぜんぜん納得していなかったようだ。猿ケ馬場峠で、森軍と一揆軍の戦に及び、最後には森軍が

これを切り崩す。

信州松本で、長可が捕らえていた人質を解放することになっていたが、はたして春日周防の家来が「勝助どのをお

返しくだされ。」と大塚次右衛門のもとへやってきた。虫がよすぎる。相当に虫がよすぎる。

長可が「勝助を召し連れまいれ。」と言う。中間二人が勝助の手を引いて長可の前へ連れてきた。

「おまえの親の周防めが私を討たんと謀ったものの、私は思案して以前、おまえに名をつけてやった。

大塚次右衛門の計略で金山軍は川中島を怪我なく引き取るが、おまえには今生は暇をとらす。」

そう言うと、長可は『人間無骨』の愛鑓でもって、勝助を一刺しに刺し貫いた。

「この死骸を取りかえって周防めに申し聞かせよ。」

付き従ってきた勝助の乳母はこの惨事を目の当たりにし、大塚次右衛門にすがりついて、

「私も一緒に討ってくだされ、生きて国へは帰れませぬ。」と涙ながらに訴え続けた。

森家も者たちも、この憐れな乳母の姿を見て涙を流さぬ者はいなかったという。


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