勝右衛門成正

島原に散った蘭丸のいとこ。               ・・・・・時代は下るけど、管理人の住む福岡ゆかりの人物なので特筆させてください。

人名 / 森勝右衛門成正(もり しょうゑもん なりまさ?)

出身 / 美作国

生没年 / 天正13年(1585年)−慶長8年(1638年)

法名 / 自性院殿理叟玄真居士

墓所 / 筑前国大湖山安国寺


 森蘭丸らの父・可成の弟の森可政の六男として、津山に生まれた。彼は蘭丸らとは従兄弟どうしということになるが、誕生は長可

が長久手で散った翌年であるから面識はない。彼は父・可政と黒田長政との約束で黒田家に預けられる。可政は森家を離れて徳

川家にいた時期もあるから、たしかに長政とは面識があったかもしれないが、どこまで親密だったかは想像し得ない。これは少ない

資料からの推測なので危険ではあるが、あるいは、関が原の東西の戦の折、人質として差し出すべき子どものいなかった森忠政が

徳川方の将に遣わしたのかも知れない。とにかく、黒田長政はこの成正を子孫に至るまで誠意を尽くし面倒をみるという書状を父親

の可政に送っている。成正が福岡へ引っ越したのは慶長17年、28歳のときであった。分限帳を見ると、実に千石の高禄取りとなって

おり、ましてや黒田二十四騎の船曳刑部の娘や(死別の後)野村隼人の娘を妻にもらっているので、じつに重臣クラスの異例の待遇

をされていることがわかる。天神に屋敷も拝領し、寛文9年頃には馬廻り役になった。

成正は黒田忠之の代に起こった島原の乱に従軍している。この時「討死の覚悟を相決め」たという。こうと、きめたら、こう!右にも

左にも曲がりません!定規で線を引くように、まっすぐズドン!離れていれも心身の構造は森家仕様。

彼の養子となっていた津山の兄の子・森九兵衛正利や3人の娘に遺産を分け与える書置きを認め、不帰の出陣をした。

島原城総攻めの時落城まで戦い、ついに本丸に切り入った成政は実に28箇所もの手傷を負う。宮本武蔵が一揆軍のばあちゃんに

石を投げつけられてリタイヤしていたときに、こんなにも大活躍していた。

年来の本望が叶った成政は、後はなすがまま死・・・。という気持ちであったのか。舅(しゅうと)の船曳刑部が彼を拾って、肩にかけて

陣屋へ持って帰った。驚くべきは、たくましい舅殿だ。54歳の甲冑老武者をかついだ舅はいくつなの?

ずっと討死を夢見ていた成政は、願いのまま息を引き取った。突然数奇な運命で黒田家に縁付いた自分を譜代の家臣のように慈しん

でくれた黒田長政や忠之に戦奉公して恩返しすることが、彼の森家武士としての夢だったのかもしれない・・・。

森一族の生き方だったのかも知れない。享年54歳。遺骸は福岡藩安国寺に葬られた。


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 彼は勝右衛門(しょうゑもん)と名乗っていたが、黒田長政や忠之からもらった書状には少右衛門となっていた。そのせいか、

  子孫は代々少右衛門を名乗る。 

■ 最初の妻は船曳刑部の娘。彼女が早世の後は、野村隼人の娘を妻にもらっている。この後妻は寛永11年(1634年)8月21日

   逝去。少林寺に葬られる。法号 光泉院殿紅誉清林大姉。

■ 幕末には黒田家に森惣右衛門なる人物が登場する。恐らくは彼の子孫ではないだろうか、と思う。地元の庄屋を長州に潜りこ

   ませ、長州と四カ国連合との下関での戦を報告させている文献が残っている。


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■ 島原の乱のときの逸話

寛永15年2月21日夜、黒田忠之の旗奉行の森勝右衛門は同じ藩の吉田隠岐の陣屋に夜話にやってきたが、

立去る時に「今夜は夜討があるから油断なさるな。」と言い残していった。居合せた者達は「おおかた例の武

辺自慢だろう。」と笑い話にした。しかし、その夜に本当に夜襲があった。後日彼になぜあの夜討を知ったの

かと尋ねると、「あの夜は敵方城中が騒がしく、女の鳴き声などが聞こえた。きっと兵が死を決して夜討をか

ける覚悟なのだと思ったのだ。」と答えた。

『明良洪範』に見られる逸話です。森清左衛門(しょうざえもん?)という名前ででていますが、当時の分限帳

を見ても、森といえば彼の名前しか載っていないし、勝右衛門のことなのだと思います。(強引?)

ましてや大名の黒田忠之さんのことも忠行と誤記されている・・・。


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