木 | 曽義昌 |
森長可暗殺計画に燃える!
●人名
/ 木曽義昌(きそ よしまさ)
●出身 / 信濃国
●生没年
/ ?−1595年(文禄4)
●法名
/ 調査中
●墓所
/ 下総国東漸寺(千葉県旭市)に供養塔・及び水葬跡石塔。海に水葬にされたので供養塔のみ。
『平家物語』に詳しい木曽(源)義仲の末裔とされているが、多くの研究家の方に言わせれば嘘くさいそうである。 その真偽は学者にお任せして義昌殿の話を進めよう。 信濃国木曽谷に力を得ていた木曽義康の子・義昌は、武田信玄の娘婿でもあり、武田の重臣ともなっていたが 信玄没して武田家が衰勢に傾くと、武田勝頼を離反して織田信長に通じることにした。天正10年正月・木曽義昌 は金山城主・森長可と苗木城遠山久兵衛友政に仲介を求める。木曽は美濃の国堺にあり織田の武将では金山 城主や苗木城主が地理的にも近いので、長可を頼りやすかったのだろう。信長は義昌の弟を人質に入れること を条件にこれを受け入れた。義昌の離反に腹を立てた武田勝頼は木曽義昌を攻撃したが、義昌は織田信忠軍 団を信州へ招き入れ武田軍を迎え撃った。こうして武田は滅亡し、木曽義昌は本領の他に安曇・筑摩の二郡を 加増、森長可は信濃四郡の広領を任される。長可はこのとき25歳の若さだが、山国経営に秀でた森一族にこの 地を任せれば間違いないと思っていたのだろう。しかしその数ヶ月後には本能寺の変が起き、長可は信州の領 土を放棄して美濃国金山城に馳せ戻ることになる。 その帰路を防ごうとした一味の一人が、この木曽義昌であった。恩を仇で返しおる、しかも、鬼武蔵に___。 「長可が木曽義昌の居城、木曽福島城へ立寄ったところを暗殺しよう。」と東美濃諸城主らが暗躍していたのだ ったが、しかしながらこの計画は帰路で出会った金山の町人より「なんかやってまっせ。」と長可に事前にもたら された。長可は、自分の周囲でこのように極めてずさんで悪質な陰謀が渦巻いていている事を知る。そこで一 計を案じ木曾義昌に『疲れたので明日の晩、あなたのお館で一泊させてください』という旨の手紙を出した。 木曾義昌は自分がくもの巣に引っかかっていることも知らず、陰謀をめぐらし明日を待った。ところが、その日の うちに、しかも真夜中、木戸大門をぶち壊して雷落のごとく長可が木曽の居城福島城へ乗り込んできたではない か! 長可:「夜陰にまぎれての押しかけてきた無礼はごめんくだされ。それがし金山に早く帰りたいし、この暑さで兵 馬もひどくつかれているので、夜の涼しさをこれ幸いと遠慮なく来させてもらいました。」木曾義昌は夢うつつ、そ の家中も驚きあわてふためいた。やがて、長可の家臣は義昌の子供岩松丸をつかまえてきた。 長可:「なんと立派なお子様か、私には子がまだいないので、唐突だけどこの子を私にください。養子にします。」 と言いはじめ、無理矢理に岩松丸を奪い取ると「今からおまえは鬼の若殿だ。」と話を進めてしまうではないか ?!義昌の家臣が「まだ幼少ですから」と岩松丸を連れていかせまいとしているのを、森家の家臣たちは「えーい、 見苦しい!」と言って怒り出し、とうとう長可は義昌の子供を拉致して出て行ってしまった。 義昌は事の次第を告げ、慌てて暗殺仲間の諸将に長可暗殺の中止を促す。こうしてし長可の暗殺をもくろんでい た諸将は、まんまと鼻をあかされた。 大井駅(宿駅)までやってきて、ようやくピンチの脱出を確信した長可は「この子は幼少で覚束ないから。」と岩松 丸を木曽福島城へ返している。 木曽義昌の余生だが、天正18年、木曽の領土を取り上げられて下総国網戸1万石に移封され、網戸城で過ごし た。文禄4年享年56歳でその人生を閉じる、その亡骸は椿の海へ水葬された。 |
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■ 『森家先代実録』では、「木曽が美濃堺にあるので、長可は木曽氏に親しみを感じていた」と加えられているが、そういいつつも 長可は義昌の子供を拉致している。ここでは、岩松丸は「五郎」という名ででている。 ■ 網戸は現在の千葉県旭市にある。旭市の概要(名所・史跡)のサイト[URL]を見ると、義昌は移封先のこの地では、まちづくりや ■ 義昌の子・木曽義利は素行が悪く、また叔父の義豊を殺害したかどで改易になる。 |