務 元正

森家3代に仕えた筆頭重臣。

人名 / 各務 兵庫助 元正 (かかむ ひょうごのすけ もとまさ)・清右衛門    幼名/勘次郎

出身 /美濃国

生没年 / 天文11年春-慶長5年、10月15日

法名 / 鐡梅長春禅定門・鉄梅院殿長春居士

墓所 /


天文11年に生まれた。彼が20歳の時、各務右京亮なる者と本領のことで何かあったらしい。早朝彼の家に

押し入り、討ちとっている。襲ってきた右京の家来も蹴散らし脱出、角屋町の八兵衛なる者の元で蟄居生活

をしていた。

永禄10年、森家の家臣・近松新五左衛門の仲介で金山城主・森可成にめぐりあい、勘次郎の名を清右衛門

にあらため仕官することになった。

可成が近江国宇佐山城を守ることになると、彼に付き従って宇佐山城に赴いた。

元亀元年(1565年)9月、浅井・朝倉連合軍が湖北から京をめざした。その数2万8千。宇佐山城にいた可成

軍3千がその大軍と立ち向かう事となったのだ。織田信治が2千の兵で援軍にかけつけたけど、衆寡敵せず。

それにもかかわらず、だけど可成は勇猛果敢に500の兵で城から打って出た。勇敢すぎる。積極的すぎる。

籠城の仕方知らないし。各務兵庫らを城に残し、可成は2度とは戻れぬ戦に突き進んだ。城主の戦死にもかか

わらず、放火されたにもかかわらず、各務兵庫らは信長の後詰を待って必死に城を守り抜いた。連合軍はつい

に宇佐山を落城させることができなかった。

各務兵庫は金山に帰って、若き当主・長可の補佐をする。長嶋の戦いでも、信濃の戦いでも、長可と一

緒に槍を振るって大ハッスルして信長を喜ばせている。ことに高遠城に森軍団が乗りこんだ時、各務兵庫は透

き間から中の様子を伺って敵の群集の中に飛び込んだのはよいものの、鳥の尾の指し物をしたまま、そのまま

すっ転んでいる。評定していた敵もあっけにとられたことだろう。彼の活躍に、信忠も「あれは誰だ?」と目をみは

った。「我が家の士・各務兵庫ともうすものなり。」長可の誇らしげな顔が目に浮かぶ。

大活躍に世の人に”鬼兵庫”と呼ばれた。ここに、鬼武蔵長可とのゴールデン鬼コンビが誕生。

天正10年(1582年)、森蘭丸が美濃岩村城主になると、兵庫は蘭丸の城代として岩村城を預かる。蘭ちゃ

んは信長様が手放さないからお側を離れることができなかったのですね。本能寺の変を迎え、岩村城は長

可のもちものとなり、ひきつづき兵庫が城代を勤める。その長可も帰らぬ人となり、慶長4年(1599年)長可

の跡を継いだ森忠政が信濃に転封になると彼に従って信濃へ赴く。慶長5年、10月15日に信州長沼城にて

59歳で病死。

各務家は歴代各務兵庫を名乗っているらしい、、。文献でいつまでたっても、”各務兵庫”が登場するので、同

一人物かと思って何百年生きるつもりなのだとびっくりしたけど、そういうことらしい。御墓参りにいっても、”各

務兵庫”と書かれた墓がたくさん生えていて、い、いくつ建てれば気が済むのだーっ!と思ったけど、そういうこ

とらしい。


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 お父さんの名前は各務盛正といい、母は土岐美濃守芸頼の妹”おおがみ殿”(享年90歳)。

系図をさかのぼれば、清和天皇第6皇子、貞純親王の孫、鎮守将軍正四位上左馬権頭多田満仲の子
  頼信より五代の孫、香ゝ美次郎遠光の子孫であるという。しかも、その遠光から8代くだって、兵庫頭
  正光が神のお告げをうけて、苗字を”各務”に改めたのだという。

三木城攻めの時、織田信忠の前で天晴れな働きをしたが、深手を負ってしまったので、信忠が若山とい
  う外科医をつけてやっている。森長可は毎夜彼の屋敷へお見舞いに行ったらしい。

長篠の戦いの後、長可は初めて母・妙向尼のところへ各務兵庫を連れていって、彼のことを紹介したという。

 天正10年3月、武田方の武将・武田逍遥軒が降伏してきたが、織田信忠は長可に「殺せ。」と下知した。
   長可は各務兵庫元政を使いとし、豊前采女を添えて逍遥軒の元へやった。逍遥軒は刀を膝下において離さない。
   長可の使いの2人は「武蔵守(長可)が愛する馬がおりますので、なぐさみにご覧になられませんか?」と誘った。
   みんなで庭に出たとき、各務兵庫が刀で逍遥軒をブシュ―!!!豊前采女が逍遥軒をブスッ!!!!

 信州高遠城攻めには約九尺の鳥毛の坊の指物を使ったら、織田信忠に誉められた。

 忠政が蒲生氏郷を大井宿でご馳走したが、それを各務兵庫に担当させた折、兵庫は氏郷にねだられて
   昔の武功話をしている。

 蒲生氏郷が彼を気に入り、一万五千石でトラバーユのお誘いを受けたが断った。ならば、二万石で、と再び
  トラバーユの誘いがきたところ、各務兵庫は怒って”二君に仕えず”の理を説いて、書面も見ずに使者を追い
  返した。相手が悪いよ、がもちゃん。

 豊臣秀吉に狩野の筆による鯉の掛け物をプレゼントされた。

 『兵庫覚書』なるものが残っている。(解読中だけど、ほんとに本人だけの覚書みたい・・・。この時ケガした
   とか、誰とケンカしたとか・・・。面白いけど・・・『のぶなが御帰陣の・・・。』呼び捨てかいっ!『しょうようけん
   成敗・・』。。。誰だっ!(※武田しょうようけん) 『この時も高名・・・』・・・自慢?)

 弟に”一学”という人がいた。

奥さんの命日は1月28日(年未詳)津山妙法寺に葬られる。

赤穂浪士四十七士の一人、横川勘平は元正の外孫にあたる。
   

 


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