多八蔵

長久手の合戦でやっちゃった。

人名 / 本多八蔵(ほんだ はちぞう)

出身 / 

生没年 / ?〜天正12年(1584年)6月


長可のラストバトル・長久手の合戦。井伊軍の放つ銕砲が眉間に当たり「鬼武蔵」と恐れられた長可は即死した。

その首は、誰が取ったか。一般的に伝わっている長可の死に関する話は以下の3件。

@『此鉄砲は何れかの手により打ちしと云ふに、井伊直政の手三千挺の足軽頭熊井戸半右衛門組の柏原与兵衛と
  云者の放つ鉄砲也、横合いに打つ弾当たりしと也
(小牧陣始末記)

A『長可君の御印は大久保七郎右衛門忠世か與力本多八蔵揚之、則御両刀を添て取しと也』(森家先代実録等)

B『武州(長可)馬より落ちるとひとしく、百段(長可愛馬)俄に怒りを発し、縦横無尽に敵を拒ぐ、
  此間に武州が従僕来り、主人の死骸を肩に懸けて引退く。』(朝野雑載)

他にも、長可が大鼓を打つのでその指が割れているのを手がかりに味方の者が遺骸を探し出した話などがあるが、

(御家聞伝書など)首が無いから身体の特徴で判断せざるを得なかったのだろう。

どれもが一級史料の手合いではないのでこれだ、と断定することはできない。

長可の眉間に鉄砲弾が当たり即死したことは様々な証言が残っているので、まずこれは事実であろう。

が、なぜか家康は長可の首実検をしていない。長可の首実検がなかった、ということは、長可の首が徳川方の手に落ち

なかったことを物語っているのではないか。秀吉が戦場に来るのを恐れて首実検をせずに速やかに軍を引いた話もある

が。

長可の首塚なるものが彼の郷里近く、真禅寺にある。(但し、今の場所は改葬されたもの。)長可の首はここへ家臣に

持ちかえられたという話があり、家臣たちは武士を辞めてこの地域で土を耕して暮らしたとのこと。

「武士はもう嫌だ」という長可の嘆きを引きうけて余生を過ごしたのだろうか。

あ、本多八蔵の話をするのだった。上にあるように、彼は大久保七郎右衛門忠世の与力であった。長可の首をとった、と

言ってもその話に洒落にならないオチがある。

長可が眉間に弾を受けて討死したとき森軍の従卒は必死に長可の遺体を引っ張って逃げていたようだが、井伊軍が追

い詰めてきたのだろうか、遺体を捨てて逃げてしまったという。

幸運にも長可の遺骸を手に入れた本多八蔵なのに、それが賞金首であるということを知らずに鼻だけ切りとって、

あとは長可の刀・脇差を頂戴して行ったのだった。その後、戦の見物にきていた清洲の町人・銀屋なる者が本多の持って

いる脇差を見て「それは森長可の脇差です。私が注文を受けて作ったものです。」と言い出すではないか?!Σ(゚□゚;

本多は大急ぎで「首っ、首っ!」と長可の首を探しに戻った。しかし、戦場は死体の山、もはや【ウォーリーを探せ・レベル12】

である。ましてや森軍の者が立ち戻り、長可を持って帰った可能性もある。

そこで本多はお馬鹿な小細工をしてしまった。

長可に似た人の首を拾って、持っていた鼻をつけて「首実検用長可君」とした。

しかし、織田信雄の従卒たちの中に長可を見知っているものも多く、

「それ、武蔵守(長可)の首じゃないじゃん!」と手を打って大爆笑したという。

この本多の行状に憤慨したのは徳川家康であった。

本多八蔵は恩賞を貰うこともなく、この長可首すげ替え事件を恥じて同年の小牧・長久手の戦いの中の「蟹江合戦」で敵

陣に突っ込んで討死した。


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この時に本多八蔵の分捕った、長可の御刀は『長光貮尺三寸』御脇差『了戒壱尺三寸抜作り』だった。

 本多の子孫は紀州の徳川頼宣の元にいて、この刀と脇差は本多家に伝来していたという。

 


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