長兵衛為忠

蘭丸らの母・妙向尼の兄弟。

人名 / 林長兵衛為忠(はやし ちょうべい ためただ)・小次郎・常吉    出家して”道休”

出身 / 美濃国(『林家覚書』によれば苗木)

生没年 / 『林家覚書』によれば弘治21556)年美濃国苗木

法名 /未確認

墓所 /未確認 


森家の重臣、林新右衛門常照の嫡男として生まれる。初め小次郎と称し、後に長兵衛、出家後は”道休”と名乗る。

彼は妙向尼の兄弟であるので、蘭丸らの叔父サンである。

『林家覚書』には”同(美濃)国高野居城”とある。

森家が蓮台にいる頃から仕える家柄で、森可成に従って金山に入城。家老として活躍した。

本能寺の変の後、岐阜城の織田信孝の人質になっていた長可の弟・仙千代を救い出すべく、岐阜城にやってきて仙千代を近江櫓の窓

から外へ放り投げて助けたのが彼とする文献もある。森家の忠臣らしい卒のない働きぶりだ。

天正10年には長可が落した土岐郡高山城に、城代として入城し、慶長五(1600)年まで在城する。その時林家の菩提寺として城下に創

建(寺伝では永禄八年?!)されたのが、常照寺であり、このお寺は森忠政の川中島転封にともない金山に移された。元来一緒に川中島に

移動するはずが、時の住職が寺を他国に移すことを拒んだため、現在に至るまで金山にこの寺が残っている。彼の父、林新右衛門常照

と、妙向尼(長可、蘭丸ら母)が今もここに眠る。

森忠政に従い川中島へ移った為忠は八千石を頂戴する。しかし、この為忠も、その3年後、親戚筋であるがゆえに忠政の元を退く

運命にあった。

慶長八年、美作国(岡山県)津山に移封を命じられた忠政は、家臣をしたがえて作州院の庄に至った。この地に城を築かんとした忠政

であったが、ある大きな事件が勃発してしまう。日ごろから仲の悪かった忠政の家臣名護屋九右衛門と井戸宇右衛門とがついに殺し合い

になる。しかも、この切りあいには、井戸宇右衛門が邪魔者になった当主の忠政自身の意図がからんでいたのである。

為忠は川中島で残務処理を終えて津山に向っていた。途中、鴻の瀬という場所でこの報を知った。誰よりも驚くこともあろう、為忠の妹(

娘とする文献もある)は井戸宇右衛門の妻である。義理の弟が忠政の意図で殺されたのである。バックに主君がいる限り、名古屋一族への

仕返しもままならない。かといって、そのままにするのも自分の心が許さない。とうとう進退極まってしまった為忠は、美作の地へ入ることなく

踵を返して広島の福島正則の元へ走った。福島正則が改易になってしまったので、其の後、為忠は姫路の本多忠政に仕えた。同じ忠政に

仕えるって、イヤミ?!

後に出家し”道休”と名乗り、森忠政とは文通していたらしく、書状が今に残る。『道休覚書』という手記も残している。


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■ 長可や蘭丸の母・妙向尼の兄とする文献があるが、慶長元年時点で妙向尼が73歳。1つ年上の兄としても、この時為忠74歳。しかもこの

   計算でいくと忠政が津山に移封になった慶長八年で、すでに為忠77歳。喜寿あたりで福島家にトラバーユしているのだぞ!!!そして福島

   正則が改易になったのは元和五年(1619年)!93歳あたりで本多家にトラバーユしているのだぞ!

■ 浪人して、愛知県三河に住んでいたところ、岡崎城主に何度も乞われて6千石で仕えたという話しもある。子は五百石で馬廻り役として仕え、

   その子孫は代々三河に住み、五代目は岡崎浄専寺に葬られたという。

為忠の画像が名古屋市博物館に所蔵されている。

 


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