右衛門尉惟安

蘭丸らと本能寺で討死した家族をもつ。

人名 / 伴右衛門尉惟安(はん うえもんのじょう これやす)

出身 /甲賀国

生没年 / 未確認

法名 /未確認

墓所 /未確認 


天正10年6月2日、蘭丸とともに、伴家の一族の者も本能寺の戦場の露と消えた。伴正林・伴太郎左衛門討死。

その報は、はや三3日には近江国甲賀の伴家にもたらされた。その折、森家においては、森長可は信州川中島

にあり、その母・妙向尼と、弟・仙千代は人質として安土にいて(諸説あり)長可の手の届かないところにいた。

伴惟安は「おふたかたとも、さぞ途方にくれておいでだろう。」と、翌4日には安土に行き妙向尼と仙千代を救いだ

して甲賀にかくまったのだった。

更に惟安は、自分の館にこの母子をお移して、伴家の者で番をして、真屋真九郎と可児忠七を小小姓としてお供

につけた。

当時13歳の仙千代の趣味はドジョウすくいと蛙釣り。(森兄弟は水遊びが大好きなのだ。)

そこで仙千代おつきの小姓2人は「おせん殿、いざ蛙釣りにいきましょう。」など言った

が、小姓の親たちは驚いて「あの方は大名のお子様だけれど、事情があってこちらにおいでなのです、おせん様

と申し上げ、とにかく何事も仰せのままになさいなさい!」と叱った。

一方、長可は苦難の末、信州より金山城に帰ってきた。

そして、母と弟が安全な場所にかくまわれているとわかると胸をなでおろした。

9月1日には甲賀に迎えをよこして妙向尼と仙千代を金山に帰らせている。

これの功績がきっかけで、伴惟安・そして伴惟利の父子は翌年より森家に仕えるようになった。とくに目をかけら

れ、以降、森家の記録に何度も登場する。親切はやっておくものだ。

伴惟安とその子孫は九州島津攻め、小田原の陣、韮山の城攻め、朝鮮征伐の折の肥前名護屋城在陣、上杉討

伐、宇都宮将軍家お供、上田城攻在陣、駿府城普請、江戸城普請、大坂の陣、広島の陣、大阪城普請・・・常に

藩主・忠政につき従った。息子の惟利は津山城本丸内に屋敷を与えられ、知行は千石、忠政もちょくちょく屋敷へ

出入りしたという。


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■ 本能寺の後、伴家にかくまわれた妙向尼と仙千代は、急なことで夏の御衣服のままであった。伴家の女房たちは

   越前綿で紬を織って括(く)くし染めにして、母子へ一着づつ差し上げた。仙千代へは紫に根笹の紋を入れて進

   上したという。この後にこの小袖は妙向尼様より伴新五郎にくだされた。

   ・・・江戸時代に森藩主が伴家に尋ねたところ、どこにあるのかわからなかったらしい。か、、家宝が・・・。

 本能寺にたおれた伴正林・伴太郎左衛門は蘭丸とともに阿弥陀寺に眠る。

   伴 正林の法名:蓮誉正林

   伴 太郎左衛門の法名:高月 宗祐 

 


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