森可成 情報BOX   未整理状態の情報をとりあえずここにつめておこうというページです。順次、解説などをつけて正規のページに差しこむ予定です。 


■『尾濃葉栗見聞集』享和元(1801)年 にある蓮台寺城の記述 

蓮臺寺村古城 今、田代(でんだい)と云ふ、永禄八乙丑年九月吉日、金山烏峯の城を森三左衛門可成賜ふ、依之、羽栗郡蓮臺寺村より入城す、嫡男勝蔵長一今年八歳、舎弟同二郎可政と云ふ。」


■『林家覚書』の文中で可成に関する記述を要訳(もっと内容を読み込んで、時間を見つけて詳しく書きます。)

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森可成の討死のこと:森可成は、当時、信長のお供をして福嶋にいたが、浅井朝倉が比叡山と打ち合わせて坂本へ進軍しているのを知り、宇佐山へ取って返した。その時可成は
  宇佐山城に戻れば良かったのに、直接坂本へかけ付けてしまい大群と遭遇して討死してしまった。


■遠藤六郎左衛門尉宛て森可成書状

其方上分貮百五拾貫事、申談旨、永代不可有別儀候、猶連々可申談候、恐々謹言
                          森三左衛門尉
                         元亀元 
                          八月十二日        可成(花押)
                          遠藤六郎左衛門尉
                                  御宿所

栖雲軒宛て浅井長政書状

上書「浅井備前守 栖雲軒」

御書致拝見候、仍當表之御儀、越卅衆申談、及行、織田九郎、森三左衛門尉を始、
其外数多討捕候、昨日我等式山科相働、醍醐迄放火仕候、山崎邉火手合申候、
先至而坂本居陣候、一両日中京都へ可罷上相談半候、野田、福嶋、弥堅固相聞
申候、一途程不可有御座候、御心易可被思召候、随而其表御行延之御様躰、
如何御座候御事候哉、前々被加御意筋目相違仕候、片時も早々被成御渡海
尤存候等、此等趣宜預御取成候、恐々謹言
  九月廿二日    長政(花押)
栖雲軒

浅井長政らは織田信治や森可成を攻めて討ち、坂本に陣を敷いて山科、醍醐などを焼きました。


■ 市川源介宛て六角承禎書状

 注進之趣得其意候、森三左衛門尉以下数百人討死、珍重候、就其中井清右衛門
尉為使、浅井かたへ遣候、船之事馳走可祝著候、尚以坂本之様躰可申候事
可然候、委曲栖雲可申候也、謹言
 九月廿一日  承禎(花押)
  市川源介殿

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