森忠政 情報BOX    未整理状態の情報をとりあえずここにつめておこうというページです。順次、解説などをつけて正規のページに差しこむ予定です。  


『細川家記 八(忠興二)』に登場する 森家その1

 (天正15(1587)年五月)廿八日、佐敷城御一宿、廿九日、八代御帰座、於是阿蘇宮の神主か居所、
山中険難の地なる故に百姓共楯籠の聞へあり、成敗を加らるへしとて浅野弾正、戸田民部少輔、
福島左衛門大夫、羽柴与市郎、高山右近、中川藤兵衛、羽柴忠三郎、羽柴三郎左衛門、羽柴彦六、
羽柴五郎右衛門、林長兵衛を被遣、山中の者共人質を出し御赦免を与ふ故平均す

天正15(1587)年、豊臣秀吉による九州征伐に関する下りで森家がちょい出する部分の抜粋です。
九州の国人・阿蘇氏が籠城したところに、林長兵衛(森家家老・九州征伐では忠政の陣代として秀吉に従軍)を含む層層たるメンバーの秀吉軍が向かったようですが、阿蘇氏が人質を出すことで御赦免の模様です。

でも、この文書だけで語るのは危ないので、他に裏付け資料がないか、捜査中です。ちゃんとしたことが判ればまたここに記載します。


豊臣秀吉朱印状 天正15(1587)年羽柴北庄侍従殿(堀秀政)宛て  
スペースの都合で森忠政以外のとこは究極に小さいポイントにしてます。

至九州御動座次第
一、正月廿五日 壱万五千    羽柴備前少将殿
一、二月一日  四千        宮部中務法印
           ー         南条勘兵衛尉
           ー         亀井武蔵守
           ー         木下平大夫
           ー         垣屋平右衛門尉
一、二月五日  二千        前野但馬守
           八百        明石左近
           八百        赤松左兵衛尉
           四百         別所主水頭
           千二百       福嶋左衛門大夫
           三千        中川右衛門大夫
           千三百       高山大蔵少輔
           三千         羽柴丹後侍従殿
一、二月十日   壱万五千五百  羽柴中納言殿
           千五百       羽柴伊賀侍従殿
一、二月十五日 五千         羽柴丹波少将殿
           千五百       羽柴若狭侍従殿
           八百         生駒雅楽頭
一、二月廿日   三千         羽柴越中侍従殿
           千七百       羽柴東郷侍従殿
           三千         羽柴北庄侍従殿
           千          木村常陸介
           三百        青山助兵衛尉
           千          村上次郎右衛門尉
           七百        溝□金右衛門尉
           百三十       山田喜左衛門尉
           百          大田小源五
一、二月廿五日 千七百       羽柴松嶋侍従殿
           千三百       織田三郎殿
        舟にて人数あり次第  九鬼大隅守
           百五十       岡本下野守
           干 羽        柴岐阜侍従殿

       千     森右近 林長兵衛人数つけ候て
           五百         羽柴曽祢侍従殿
一、三月一日 関白殿
                      御馬廻衆
                      御小性衆
           千         尾州大納言殿
           五百       羽柴敦賀侍従殿
           五百       羽柴陸奥侍従殿
           弐百       水野惣兵衛尉
           五百       石川出雲守
               前備
           四百       羽柴左衛門尉侍従殿
           五百       羽柴河内侍従殿
           三百五十    蜂屋大膳大大
           百五十     市橋下総守
           百五十     生駒主殿頭
           百五十     有馬刊部卿法印
           百        大部善七郎
           弐百       稲葉兵庫頭
           百        上田左太郎
           五百       津田隼人正
           百五十      松下加兵衛尉
           三百五十    瀧川義大夫
           五百       牧村兵部大夫
           百二十      勢田掃部頭
           九十       池田久左衛門尉
           百三十      古田織部頭
           百二十      柘植左京亮
               脇備
           千二百     浅野弾正少弼
           千        木下式部太輔
           千        山崎志摩守
           百六十     戸田半右衛門尉
           七十      長谷河甚兵衛尉
           七百五十   戸田民部少輔
              後備
           五百      冨田左近将監
           百五十    早川主馬首
           百二十    津田大炊頭
           弐百      寺西次郎介
           百五十    大塩与一郎
           百二十    片桐西市正
           百五十    加須屋内膳
           四百     池田備中守
           百二十    川尻肥前守
           百七十    加藤主計頭
           百五十    古田兵部少輔
           百       間嶋彦太郎
           百       丸毛三郎兵衛尉
           百五十    佐藤才次郎
           百八十    生駒仙
           百五十    青木所右衛門尉
           五百      奥山佐渡守

         天正十五年正月一日(朱印)
          羽柴北庄侍従殿

天正15(1587)年の豊臣秀吉が大名を大量動員して行った九州征伐の時の陣立です。
『森家先代実録』によれば、この時、森(右近)忠政の陣代として家老の林長兵衛が出陣したとあるのですが、この陣立てを見ればその通りのようですね。森軍は「天正15年2月25日に林長兵衛に人数(1千人)つけ候て」九州へと出陣したことになります。
※朱印状の画像は図録『秀吉への挑戦』(大阪城天守閣)で見る事ができます。


毛利輝元直筆書状(慶長8年2月12日)吉川広家宛て

(前の文は長いし別件なので、がっつり省略)
一、二月十二日 池三左二男(池田忠継)へ備前被遣候、美作をは森右近(森忠政)被遣候、三左別
御懇意之儀候

(慶長八年)二月十二日   右馬(花押)
廣家■(参?)申給へ

 森忠政が美作国を拝領したことが毛利輝元より、吉川広家へ伝えられております。
美作も以前は毛利(小早川家)の領地でした。
忠政は関ヶ原の合戦後に徳川家康より美作を拝領し、信州川中島より美作へ赴きますが、先に家臣をやって美作を検分させたところ恐れていた小早川家遺臣の反乱もなく、忠政自身も無事に美作に入ることができました。


『山内家史料史料』の石場之覚
(慶長18(1613)年6月28日付けの相模と伊豆の石丁場報告by土佐藩石奉行)

 伊豆ノ国
一、伊豆ノ山、人不居石番者計、松平武蔵守殿
 同
一、熱海、人不居石番者計、森右近殿衆
 同
一、たか 
  人数三百人程、石切り舟にもつみ申候、羽柴左衛門大夫殿衆
  同(※以下、二文字虫喰い)
一、同所左
 仕舞にて罷上り候、鍋島信濃守衆
  同
一、網代 人数六百人程、石切り舟にもつみ申候。加藤肥後守殿衆
(以下略)

 森忠政は、徳川家の江戸城築城の石垣普請を手伝いさせられました。森家も含めた大名のいつくかは、そのための石の一部を熱海の石丁場に求めます(現:瘤木・中張窪石丁場遺跡)。
 で、それを踏まえてですが、山内家の石奉行が、石丁場の現場の帳場、大名、人足数などの詳細を報告した中に、森忠政のことが書いてあります。慶長18(1613)年6月時点では、森家の石丁場に人足などがおらずに「石番者ばかり」であったことが分かります。


北条攻めに対する豊臣秀吉の定書

 備定条々
一、家康軍勢小田原可被差向之事
一、信雄卿軍勢并細川越中守、蒲生忠三郎、中川藤兵衛、森右近太夫、韮山之城為押被残置事
一、秀忠(秀次)其日之為大将、旧臣之面々其勢五万騎而、山中之城可攻崩之旨、被仰付之事
   天正十八年三月廿八日 秀吉

 天正18(1590)年の豊臣秀吉の北条攻めに関する定書です。
森忠政は韮山城攻めに従事しました。この定書によれば、森忠政は織田信勝や細川忠興、蒲生氏郷や中川清秀とともに韮山城の押さえとして残しておくことに指示があったようです。

『韮山城取巻人数書立』(毛利家文書)

 韮山城取巻衆


壱万七千人 内大臣殿(織田信雄)
   以上
三千二百人 羽柴津中将(織田信包)
四千人    羽柴松坂少将(蒲生氏郷)
千二百人   羽柴郡上侍従(稲葉貞通)
   八千四百人
二千七百人 羽柴丹後侍従(細川忠興)
二千百人   羽柴金山侍従(森忠政)
二千人    中川右衛門大夫(中川秀政)
         山崎(堅家)
二千二百人   くみ
         岡本(重政)
   以上九千人
千五百人   羽柴伊賀侍従(筒井定次)
二千二百人 生駒雅楽頭(生駒親正)
二千五百人 蜂須賀阿波守(家政)
千八百人   福嶋左衛門大夫(正則)
千七百人   戸田民部少輔(戸田勝隆)
   以上九千七百人
合四万四千百人

織田信雄を筆頭に韮山城攻めに動員された武将のリストです。森忠政は2,100の兵で韮山城攻めに従事した事がわかります。


今西家
今西家は中世より春日大社南郷目代を勤めた名家で、領主のような存在となっていた。
今西氏社家三十六代・今西春房と明智光秀との間に生まれた大蔵姫は中川家の養女として森忠政に嫁ぎ、更に大蔵姫の弟・今西宗英、道春をはじめとする一族が森忠政に仕えている。

■ 森家と関わりがある(っぽい)今西家の人物

・今西春主(社家三十一代):「婦 関小十郎左衛門尉之女」
・今西春一(社家三十四代):式部少輔。天文13年(9月6日)卒。「婦 森武蔵守之女」 
この妻なる人は森武蔵守長可の娘ではないようです。年代的に長可すら生まれてないので無理。
・今西春房(社家三十六代):左京亮。宮内少輔。文禄5年8月16日卒。「婦 美津、明智日向守之女」
・大蔵卿:今西春房の娘。初め、多田四家の山問氏へ嫁ぐ(その時の娘に妙喜と智保がいる)。後に、中川修理太夫秀成の養女として森忠政に再嫁。元和9年9月13日没。
・今西宗英:春房の子息。浅田内蔵允。浅田家の養子となる。後、森忠政に2700石で仕える。寛永6年2月13日卒。
・今西道春:春房の子息。今西掃部介。森忠政に1500石で仕える。慶長の役で森忠政のために先陣の将をつとめる。元和3年8月13日卒。
・今西春住:社家三十八代である春賀の兄弟。桜井三太夫。森忠政に従い慶長の役で戦死。
・今西春勝:社家三十八代である春賀の兄弟。次右衛門。森忠政に200石で仕える。
※それ以降の子孫も引き続き森家にも仕えています。

森忠政の内室・福寿院(大蔵姫)画像(上部)にある記述

作州前太守従三位中将
森忠政公御内室大蔵姫
元和九亥年九月十三日御逝去
作州津山城下奉葬光源寺

福寿院殿鏡空以清太夫人

今西家三十六世祖正五位下
宮内少輔春房長女
母日向守明智光秀女也

※文中の「光源寺」は、別の「松林寺由緒書」にも書かれていますが、不明。津山にはそのような寺の存在はなく、また、もしや森家菩提寺の本源寺のことかとも思いましたが、本源寺には大蔵姫に関わる墓はありません。

■今西家についてのおもな資料
・「豊中市文化財調査報告書 第57集 春日大社南郷目代今西氏屋敷」(税込価格850円)
・「春日大社南郷目代 今西家文書」(税込価格10,900円)
・「新修豊中市史」


→今西関係史跡(今西氏屋敷・松林寺)大阪府の関係史跡へ



森忠政禁制(1614年、いきなり大坂)

   禁制 石連寺村

一、当手軍勢甲乙人等濫妨狼藉之事
一、放火之事、付、竹木切取事
一、陣取免許之事
右於違背輩者、可処厳科者也
         羽柴右近
慶長拾九年     忠政(花押)
霜月六日 
禁制 石連寺村

一、当手軍勢甲乙人等濫妨狼藉の事
一、放火の事、付けたり、竹木切り取る事
一、陣取免許の事
右、違背の輩においては、厳科に処すべき者也
         羽柴右近
慶長拾九年     忠政(花押)
霜月六日 

慶長19年、合戦(大阪冬の陣)のために、森忠政は津山より大坂入りしています。その時に発給されたもののようです。
森忠政は豊臣家とはこのように敵対関係になった時期にも、実際には「羽柴姓」をしばらくの間、継続して使っていました。


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