森蘭丸 情報BOX   未整理状態の情報をとりあえずここにつめておこうというページです。順次、解説などをつけて正規のページに差しこむ予定です。 


『筆のちり』(2008/12/16更新)

 信長公あつちの城に御座候時、庭を作らセ御覧有ける、御庭御出有て、木に腰を掛させられて草を少御取御頭上に置給へり、小姓共是持参れと被仰付也、皆合点参らす、たたすむ所に、蘭丸早心得て御茶を進上仕也、信長奇特なりとて御感候上、金柄の御小刀拝領也。

【注】:『筆のちり』は、岡山藩池田家の家臣の著作と思われます。信長と蘭丸のやりとりが何のこっちゃと思われる方は、訳文を「いつわ」に入れておりますのでご覧ください。
『筆のちり』には、このほか、蘭丸が蔵の戸を立てる話、信長の爪を捨てる話、森家家臣の伴戸平、高木馬之助、原十兵衛の話などが出てきます。


『多田雪霜談』(2008/12/16更新)

塩川伯耆守政事淳直御褒美之事

 天正七年四月廿(にじゅう)日、多田山下龍尾城に守護しける塩川伯耆守が所へ、森乱丸、中西権兵衛尉を御使者として銀子千両被遣る、是は(信長公が摂津で)御鷹狩の時、民家に入玉ひて安否問給ひしに、老夫対て伯耆守殿こそ毎々淳直を事とし給ひて万民穏かなる事を而己(のみ)好ませられけると、信長公とも知らず、和語を申すにぞ聞召、感悦の思召あり。
かくて五月朔日信長公父子御帰陣有り、同年所々御進発是ありしとなり。

【注】:『多田雪霜談』は川西市猪名川町の方が所有されています。この文献は信憑性が薄くて史料として利用するのは適切でないけど、塩川氏のことを語るものが少ないがために、塩川氏を語る時にはこの文献の記述も引用されるようです。乱丸登場箇所を抜き出しました。原文中( )は管理人の挿入です。


『高代寺日記』(2008/12/16更新)

(天正7年)四月二十日戊申日、信長ヨリ森ノ蘭丸、中西権兵衛尉使トシ、守家作ノワキ指、銀千枚賜ル。
(塩川伯耆守の)家臣吉太夫、同右兵衛尉民部、勘十郎、出向テ受取、両人ヲ馳走ス。各(おのおの)、帷子単物二重紺青ヲ与ラルゝモテナシ両人退出。
五月五日吉太夫、勘十郎、半右衛門尉ヲシテ安土ヘ礼申サル、菅屋玖右衛門尉ト伯州儀セラレテナリ、各三人帷子二ツ銀十枚ツゝ賜テ皈国セリ。

【注】:摂津山下城主の塩川氏のことが書かれた『高代寺日記』の中に出てくる森蘭丸です。天正7年4月に信長のお使いで摂津の塩川伯耆守に銀子を持って行った時の一文です。日付や褒美にもらったもの、銀子の枚数が『信長公記』や『森家先代実録』など他の書物とは食い違って増えちゃってますが、塩川サイドから見た森蘭丸の記述というのが面白いです。
 『高代寺日記』は、塩川伯耆守の家臣が記したとされているとのことですが、それが誰なのか、いつ成立したものか、よくわからないようです。その点は残念ですけど、信長の使者として塩川氏の元に来た蘭丸を塩川氏の家臣が接待している下りは興味深いです。塩川氏サイドの記述ということを前提にお読みください。


『林家覚書』の文中で蘭丸に関する記述を要訳(もっと内容を読み込んで、時間を見つけて詳しく書きます。)(2008/12/16更新)

* 蘭丸は十五歳から信長に出仕。
* 信長は朝夕蘭丸をそばから離さず、他に人がいないかのように大事にしていた。
  理由@:信長の性格に合うから。理由A:蘭丸は日ごろの行いがよく、どんな口上も言い残しがないから。
* 蘭丸は信長に言いたい事は何でも言っていた。
* 石山本願寺との和睦:本願寺の使者(和睦の仲介をお願する)が、密かに金山にやって来て妙向尼と対面している。そのあと、蘭丸から本願寺へ向けてつぶさに指示が入る。門徒達の篭城を解き、御坊は本願寺から退出するようにとのこと。
* 石山本願寺との和睦工作は、林為忠と森蘭丸の二人で行なった。
* 本願寺はこのご恩を忘れまいと、袈裟に"舞鶴に抱え牡丹"の紋をつけた。(※鶴丸は森家の家紋)


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