森長可 情報BOX   未整理状態の情報をとりあえずここにつめておこうというページです。順次、解説などをつけて正規のページに差しこむ予定です。 


■森長可知行状(窪嶋日向守 宛て) 二通

當知行分之事、出置上者、不可有相違候、尚依忠節、重而新知宛行者也
(天正十年)卯月十一日 森勝三  長可(花押)

窪嶋日向守殿
當知行事、東條堀内(信濃埴科郡)分、参拾七貫文之通、出置候、然処、
種々以長兵御理在之事候条、於清水、東条新知五十七貫文、重而宛行者也

五月廿日  勝三 長可(花押)

窪嶋日向守殿

 この知行状の内容は『歴代古案』という文献などに掲載されていたので知っていましたが、知行状そのものも山形市内に残っていると知りました。
知行状の画像は『戦国武将墨跡展図録』(財団法人/最上義光記念館)で確認できます。
その書籍によれば『宛名の窪嶋日向守は、初め武田信玄に仕え、武田勝頼の妹菊姫が、上杉景勝にお輿入れの際、付人となった。
天正十(1582)年4月、織田方の森長可の家臣となる。その後、旧縁によって、上杉景勝の家臣となった。』
と解説されています。
武田氏滅亡後の森長可の信濃四郡支配に関わる貴重な知行状です。(また後日、詳しい解説をつけられるとよいのですが。)



『徳川実紀』の森長可登場部分

『東照宮御実紀巻三』 

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772965/31 
『聟の森武蔵守長一とともに楽田羽黒に打出で。(左下段)』から長可の名が登場。

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772965/32
『森は鬼武蔵とよばれし血気の猛将。(右上段)』を経て、森家も関係する長久手の話が続きます。

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772965/33
『…同日昼森出軍。(右上段)』までが森長可登場の部分です。


『台徳院殿御実紀 巻廿五』
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772965/326
遠山さんがらみのお話で
『…十二年長久手の戦におよび仰をうけて。森武蔵守長一が兵ども守りたる明智の城を攻落し。
首十五級切て御感を蒙る。豊臣太閤のときに明智をば森武蔵守長一にたまはりければ。
利景旧領明智を去て三州に参り。(左下段)』

徳川家の記録『徳川実紀』が、国会図書館の近代デジタルライブラリーにて画像で閲覧可能でした。
モチのロン、森家も出てきます。森長可の登場部分を抜粋しました。
機種依存文字が表示されないかもしれませんので、水準漢字にして表記しています。
◆閲覧方法:
近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/index.html
「徳川実紀」と入力して検索してください。
※「実記」ではなく、「実紀」としないと検索にひっかかりません。


『神戸信孝』書状 小里助右衛門宛 天正11(1583)年

 今度其面へ敵相動候處、堅固之由、寔以粉骨不及是非、彌忠節専一候、當城之事自上方今日使者候、何も如存分相究候間、可心易候、仍森勝三鉈尾面へ相動事候間、則人數五千餘申付差越候、加治田衆もミ合可打果候、猶以、其元之事明知勘左衛門相談、馳走肝心候也、謹言、
   (天正十一年)後正月十七日 信孝(花押)
                  小里助右衛門殿

  後日、説明追記します。とりあえず、上の情報を突っ込んでおきます。

この書状の宛名の小里助右衛門光明は、小里城(岐阜県瑞浪市)の城主です。本能寺の変後、神戸(織田)信孝と羽柴秀吉の対立が表面化し、東美濃の情勢もどちらに従うかで敵味方に別れてゆきますが、小里氏は信孝に従い、自然、秀吉に味方する金山城主の森長可とは敵対関係になっています。
 ちなみに、その後、森長可に小里城を攻め落とされ、小里助右衛門は徳川家康を頼っております。


『北条氏政書状』の徳川家康宛 天正12(1584)年

十日之御状、昨廿ニ日至于上州参着、抑於岩崎口被遂一戦、為始池田父子、森庄三、堀久太郎、三好孫七郎、一万余被討捕由、誠以目出大慶、何事歟可過之候哉、心腹更難述筆紙候、併此度之御戦功前代未聞候、先段朝弥太書状披見、則以川尻氏直申達候、猶以使可申述候、恐々謹言
 (天正十二年)卯月廿三日 氏政(花押)
徳川殿

 徳川家康が長久手(岩崎口)の戦いで(池田父子を始めとして、森庄三、掘…)敵を打ち破ったことに対しての戦勝祝賀の書状を、北条氏政が送ってます。もう、めでたいやら、前代未聞の戦功やらと、褒めちぎってます。
 森長可は「森庄三」と書かれています。森長可のような立派な若武者が世を去ったのに何がめでたいんだか、私には訳分かりませんが、ともかくも北条氏政も森長可の存在を認識していたのですねー。それより自分ち(北条家)にも将来的にはこの家康の軍にまで取り囲まれるんだぞ、前代未聞の包囲網がやってくるんだぞ。


徳川美術館の特別展『信長・秀吉・家康の合戦』に展示してあった書状の内容UP!(2009/09/16更新)

『森長可書状』 遠山半左衛門尉宛 天正10(1582)年

一 今日、岐阜へ押詰候事
一 昨日、加治田へ押詰、町山下相破令放火、長沼藤次兵衛を初、能々手負死人数多在之事候、此方にも少々手負候へ共不苦候、於仕合可御心易事
一 其方城ニ佐州御残候て人数悉被召連、早々御越待申候、急候間いかゝ申候、委細以使者口上ニ申候間、令省略候、恐々謹言
              以上

尚々、佐渡殿へも以別紙可令申候へ共、此由御意得理へく候、御使札畏入候、急候條則刻申候
                                         森勝蔵
    十二月廿九日         長可(花押)

遠山半左衛門尉殿
       御返報

 長可が東美濃の武将・遠山半左衛門尉に戦況報告をしています。本能寺の変後より長可は混乱に陥った東美濃をまとめるのに奔走していたようで(いや、むかつく奴はモチのロンぶっ倒しましたが)、そんな状況がこの書状からもうかがえます。
 しかし長沼藤次兵衛(かつて森可成が娘婿に望んだ人)の名をここで見るとは驚きました。
書き下し文とかは後日…。
長可の花押が観覧者から見て逆向きだったので、見えづらかったけど、見慣れない花押だったような…。 
 

 最近は色々と東美濃と森家に関わる書状などが出てきて、当時の生の状況が判って嬉しい次第です。

※※参考※※

■ 羽柴秀吉他連署状写 遠山佐渡守・遠山半左衛門宛 天正10(1582)年

 今度 三介(織田信孝)様御家督仰候へハ、令馳走候哉、御報候、付御分国諸侍不残罷出、御礼申上候、其方之儀御油断不可然候、然ハ其元之儀、森勝蔵(長可)御取次等可申上候、被仰出候処、得其意、勝蔵異見次第尤
 尚、委儀森勝(長可)可令申、恐々謹言
        羽筑 
          秀吉
極月廿一日 惟五郎左
          長秀
        池勝
          恒興

遠山佐渡守殿
同 半左衛門殿
        御宿所

 
 このページの最下段にもこれと同系の書状があって、いかに秀吉らが本能寺の変後、動揺する各地の諸将を抑えるために、「織田信長亡きあとの家督は信孝様が継ぐ」と示し、こまめに気遣いしていたかが読み取れます。
 その意を受けて森長可も遠山氏の取り次ぎ役をつとめていた訳ですが、長可の"御取次"にも関わらず、遠山父子は徳川方についてしまいました。Σ(゜□゜;カハーッ!!


■ 井伊直政書状 遠山佐渡守宛 (天正12年??)

 其表之様子急度御注進、則披露申候、仍半左衛門尉殿打死之由驚入候、御勝事千万に候、殿様一段御をしみ被成候、其方より仰越候様、一段神妙成儀に候由にて候、是以御かんし被成事候、半左衛門尉殿之儀、中々不及申候乍去定事候間不是非候、御弟子候之上、少も御無沙汰被成間敷之由被仰出候、返々右旨我々方より相心得可申入候之由候、恐々謹言

 返々、半左衛門尉殿之儀、不及是非事とは申なから御せうしにて候
御書を被遣候はんか、明日御馬を被納候間、御取紛之時分に候條、我々より申越候、なにさま遠州より重可申上候其元御存分之由、先以目出度候、以上
 
   十月十七日 直政(花押)
      遠山佐渡守殿
              御返報

 森長可が心を砕いて近況報告までしてあげていた遠山半左衛門は、結局は徳川方(井伊直政)の配下になって、森家の岩村城・明智城あたりを襲ってその時に討ち死にしているらしく(推定)、半左衛門の父・佐渡守に宛てた井伊直政のおくやみ書状がこれです。


『羽柴秀吉書状』

竹中源介(重利)口上之儀、一ゝ承届候、
一、其方御子息(元肋)先度者御女子有之、只今者御息男被上候、於茶湯ハたきりたる御茶湯を者□□も被申候事
一、勢州者、松賀嶋一城、滝川三郎兵衛尉(雄利)相籠居申候を、市場儀者不及申、惣城乗破、天守計追上、弐万余てとりまかせ置申候事
一、神戸城者、滝川左近(一益)父子弐三千て、入城被申候事
一、峯城相拵、浅野弥太夫、岡本太郎右衛門尉両人千六七百、為留守居残置申候事
一、其外五畿内、江州、越州、両国之人数共、江州て相揃、早天気次第、明日廿一目筑前も濃州池尻へ着陣可申候事             
一、池尻へ罷越侯者、其城(犬山)へ留守居堅被仰付、森武(長可)被成御同道、馬乗五騎十騎て可有御越候、懸御目談合申、可及行申候事
一、水出候者、かちわたり御座有間敷候条、船成次第犬山渡りへ、上下之船を可有御寄候、森武へも被仰候て、金山より犬山之間、舟悉御よせ尤候事
一、佐藤主計以一書如申入、諸人之為候条、如置目城ゝ留守居者、筑前かたヨリ可申付候かと、其方与州(稲葉一鉄)へ申渡候へとも、申付候て定可申入候事
一、人数備陣取以下之為にて候者、池尻て書付を雖可進之候、為御分別、又ハきの御くはりにて候ハんと存、先ゝ只今進候事
一、犬山を以手柄被取候条、動之儀者、其上早候哉と存、満足仕候儀、非一候、御礼儀不及申候、其子細者、犬山之儀も、尾州儀も過半筑前折骨、其方御一類可進候と存候条、得其方願儀候者、秀吉方へ取可申候、尚源介可申候、恐ゝ謹言、

(天正十二年)
  三月廿日 秀吉(花押)
(池田恒興)池勝入
 御返報

秀吉が池田恒興(長可の岳父)に宛てた小牧長久手合戦関連の書状です。
池田恒興に犬山城の留守仰せ付ける。森長可も同伴のこと。
森長可にも申して金山から犬山にかけての船はことごとく徴発。


『徳川家康書状』

先書具申入候処、従中途馳帰之条、重而以中河市介申来候、仍其表之様子委細彼ロ上相含候、将又羽柴日来余不儀相動付而、信雄我等申合、彼等之為可及存分、去十三日至尾州清須出馬、同十七日、尾濃之境羽黒と号所、池田紀伊守(勝入)、森武蔵守(長可)楯籠在之処、押寄即時乗崩、千余人討捕候、彼両人等敗北前代未聞之躰候、然者五畿内、紀州、西国、申国悉調略之子細数多侯条、万方按合、上洛不可有程候、
於様子可御心安候、具市助可為演説候、恐ゝ謹言、
(天正十二年)三月廿五日 家康(御判)
皆川山城守殿

家康が皆川山城守広照に宛てた小牧長久手合戦関係の書状です。
羽黒において池田勝入と森長可を敗北せしめたことを知らせています。


 

『羽柴秀吉書状

近日者不申承候、仍今度家康構表裏、信雄若輩仁と申掠、普代之家老者両三人、無謂去六日於長嶋被為切腹侯条、不相届儀と存、則至伊賀、伊勢差遣人数候処、佐久間甚九郎、中川勘右衛門、林与五郎、池尻平左衛門、深井以下取出侯処、先手者及一戦、即時切崩悉討捕、岸、神戸、楠其外城ゝ、或責果、或令赦免、一国平均申付侯事
一、伊賀国之事、是又平均申付侯事       
一、尾州表儀、池田紀伊守(勝入)・森武蔵守(長可)相働、去十三日、犬山城其外数ケ所責崩、悉刎首、過半任存分候事
一、去廿二日至泉州面、根来寺、雑賀、玉木、湯川其外一揆三万計而取出候所、岸和田先番者切懸、首五千余討捕候、以其競敵城不残乗取、紀州面迄存分申付隙明候事
一、家康清須令居陣条、即出人数可押詰処、大河数ケ所有之而、多勢依難相越、舟を寄并舟橋を懸申付而遅ゝ候、明日廿七日秀吉越河、清須近辺迄可押寄候、自然家康於執出者、逐一戦可討果事案内候事
一、家康表裏無是非候、然上者向後如何様之儀候共、重而許容不可申候、定貴辺へも、毎辺可為右之分候、此時東州各被相談、御計策尤候事
一、信州木曽、越後景勝、対此方無二入魂候間、是又被仰合、可被及御行事肝要候、委細此使者口上申含候、恐惶謹言
(不正十二年)
 三月廿六日 秀吉花押
佐竹殿
参人ゝ御中

秀吉が佐竹さんに宛てた小牧長久手合戦関連の書状です。池田勝入と長可が犬山城そのほか数か所を奪い取ったことが書かれています。


『徳川家康書状』

 今日羽黒乗崩、数多討捕付而、早ゝ示給候、為悦之至候、然者甲賀之儀、皆ゝ山上御通路相止之由、弥以大慶候、尚追ゝ可蒙仰候、恐ゝ謹言、
(天正十二年)
 三月十七日 家康(花押)

[コノ文書、充所ヲ切除サル]

家康による小牧長久手合戦関係の書状です(宛先は切り取られて不明)。
羽黒において池田勝入と森長可を敗北せしめたことを知らせています。


『越登賀三州志ケンコウ餘考』

「(天正十年五月)二十三日瀧川一益、三國嶺信濃・上野・越後三國分界の地に到り、森長一大田切越後より芋川城を陥し、越後二本木に入り春日山城を襲はんと各甲兵を進むる注進あり、景勝越中に在り、之を聞きて驚き、二十七日越後へ卻(しりぞ)く。」

 信濃川中島を本拠地にした森長可が更に越後の上杉領に侵入したあたりのお話です。森長一になっちゃってますね。
※ケンコウ:「ケン」の字は「革」偏に「建」。「コウ」はもはや見たことのない字なのでどう表現して良いかわからんとです…。


『三壺記』

 信州川中嶋の森勝蔵は、越後(上杉)喜平次景勝は春日山の城を打あけて、越中へ發向すと聞くより、其跡に越後を切取らんとて、松代を打立て、善光寺より室飯、野尻、關山近所迄押よせ、所々に首塚つきて、春日山へ取かくると取さたにて、春日山の城代直江山城守より、越中へ飛脚を遣す。それゆへ引返し、景勝は森勝蔵に對陣せんと、人馬の息もつがずして、荒井をさして押行、かゝる所に、上方には信長公明智に討れ給ひ、森の亂も討死候由申來(きた)る、勝蔵聞より驚入、主君と云ひ弟も討死、かたがた忍がたくして引返し、濃州森山の城へ引入、世間を窺待居たり。

 加賀前田家の書物『三壺記』の内容です。N●K大河「天地人」では森長可は名前だけ登場という事で、森家好きには物足りなかったどころではなかったですが、この文章を読めば、大河では味わえなかった感動が味わえます。
文中「所々に首塚つきて」…その首塚は(複数)今もあるのでしょうか…。
なんか、松代は当時の呼称ではないし…直江もアレだし、森山の城(金山城のことと思う)って書いてあるし…ツッコミのいれどころはありますが、森家的にはあはれを誘う文章です。


■『林家覚書』の文中で長可に関する記述を要訳(もっと内容を読み込んで、時間を見つけて詳しく書きます。)(2009/1/25更新)

*
本能寺の後、森長可は織田信孝に仕えて岐阜にいたことがあったけど、信孝にムカツクことがあり林為忠に「どうにかして(岐阜城に人質になっている弟)"おせん"を盗み出してきて。」と言って金山に帰った。
*
[高遠城攻めの時のエピソード]:森長可は字をよく書くので、腰に矢立(携帯用筆記具)をつけている。信忠さまにも自分で手紙を書いていた。
*
[高遠城攻めの時のエピソード]:信忠は長可から高遠城に攻め込んだという事後報告を受けて検分の使者を遣わしたが、使者がやって来たとき、各務兵庫は縁に座り、林為忠は石の上に座って休憩中だった。
*
[高遠城攻めの時のエピソード]:林為忠と各務兵庫が一番鑓のことで口論。決着は長可の裁断に持ちこまれる。(※詳細は逸話2の「長可の名裁き」に書きました。)
*
[高遠城攻めの時のエピソード]:合戦の途中で高遠城から降伏を申し出てきたので、信忠にそのことを話すと、信忠は「とかくも武蔵(長可)しだい。」と答えた。
*
[高遠城攻めの時のエピソード]:長可は腰から下が血に染まっていたので、信忠から「武蔵守は手負い候や」とのお言葉があった。
*[高遠城攻めの時のエピソード]:合戦後、信忠が城の中のものを武蔵にあげると言ってくれ、林為忠は、城内で『平家物語』を発見!!長可に報告すると、長可がその本を為忠にくれた。
*織田信忠が感激して川中島の林為忠の家にやって来て、狸汁(好きらしい)を食べて帰ったことがある。
*[長久手の合戦の時の記述]:森長可には子が無かった。
*
[長久手の合戦の時のエピソード]:関小十郎は長久手で先手に回っていたが、長可のことが心配に(こころもとなく思召し)なって戻ってきて討死。



■「森長可禁制」 勝善寺
(2009/1/18更新)
(http://www.city.suzaka.nagano.jp/shougai/gakusyuka/bunka/shitei/gairyaku/zai09.php)

禁制       勝善寺

一、甲乙人濫妨狼藉之事
一、伐採竹木、付放火之事
一、喧嘩口論之事
一、地下人并往還之者に手致さす事
一、判銭取へからさる上、催促する事
右条々於相背輩者、堅可加成敗者也

天正十
卯月六日 森勝三
       長可(花押)


信濃四郡の領主になってから、長可は方々に禁制や安堵状を発行
しています。こんな風に残っていると嬉しいですね。


■羽柴秀吉ら宿老連著状(2009/1/18更新)

御状拝見候、仍而此表之儀、三介様御名代ニ相究、若子様今日請取申訖供奉候、
当国不届仁を曲事ニ相臥速一篇ニ申付候条、可有其御心得候、将亦委儀、
森勝可申候、恐々謹言

極月廿一日
羽柴秀吉(花押)
惟五郎左長秀(花押)
池勝恒興(花押)

遠山佐渡殿
同半左衛門尉殿


 織田家の宿老らの連署状です。
 織田家ではトップクラスの家臣を”家老”とは言わずに”宿老”と称したそうですが、サル、丹羽長秀、池田恒興、(柴田勝家は既に仲間はずれ)ら宿老が、天正10年に起こった本能寺の変の事後処理にあたり発給した文書です。書状の中の「森勝」は、森勝蔵長可のこと。
書状の意味はだいたい「三介(信雄)様が名代に決まりましたんで、本日、織田家の家督を相続する若子様(信忠の子・秀信)を引きとって供奉いたしました。当国に不届き者がいたら、平定するよう心得ておいてよね。詳しいことは、森長可がお話ししますよ。」という感じでしょうか、森長可が、本能寺の変の事後処理にも関わっていたことがわかる書状です。
 遠山佐渡守さんは美濃の国衆。


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