琵琶曲2題 (2006年蘭丸供養祭より)

■ 森蘭丸  ■ 本能寺


森蘭丸    頼山陽 桃山玉園

(うたげ)も已(や)みし高閣(たかどの)は 流る夜気も静にて

欄干(おばしま)遠くきこゆるは 何処でつくか五更(ごこう)の鐘

(にわか)に揚る喊(とき)の聲(こえ) 襲(おそう)は誰(たれ)ぞ賊(ぞく)光秀

攻め来る敵は百万の 虎狼の群れを迎へうつ

必死の覚悟蘭丸の忠義の刃するどくも

飛び来る矢羽根ハ秋の野に なびくはすゝきか雷(いかづち)

敵は潮(うしお)か修羅の場(にわ) さわれ衆寡は敵しかね

嗚呼我君已(すで)に失せ給ふ 我も又数ヶ所の痛手身に負いて

万身の紅血(こうけつ)流れて止まず

玉骨(ぎょくこつ)遂に砕く奮戦場

憐れむべし紅顔の美少年

遥かに拝せば本能寺は煙となる

涙潜々(さんさん)我が事終わる

憤慨切慄(ふんがいせつりつ)腹を屠って斃る

身は死して魂魄主君を擁し

蒼天(そうてん)を睨んで死す花一輪

蒼天(そうてん)を睨んで死す花一輪


本能寺

麻と乱るゝ戦国の 人とし言えば誰もかも

馬を養ひ兵を練り 糧を収めて剣を磨す

羽柴秀吉中国より

援けの兵を請ひしかば 厳命忽ち光秀の

(こうべ)の上にぞ下りける 光秀私(ひそ)かに思ふやう

人もあらんに此の我に 羽柴が命に従へとは

あな情けなの我君やと

押へし焔むらむらと 燃ゆる思ひの光秀が

拳を握りて立上り 動く睫毛(まつげ)の間より

由々しき大事のほの見えしを 露だも知らぬ信長は

諸将を安土に留め置き 親(みづか)ら近臣百余人

引従へて京都(みやこ)なる 本能寺にぞ入りにける

時こそ来れと光秀は 一族郎党を駆り集め

暴戻無道(ぼうれいむどう)の弑逆(しいぎゃく)を 企てしこそ浅ましけれ

かくて士卒を打揃え 中国勢を援(たす)けんと

偽り向ふ大江山 心の駒も烏羽玉(うばたま)

暗路(やみじ)を急ぐばかりにて 東を指してぞ進みける

 

本能寺ノ溝ノ深サ幾尺(いくせき)ナルゾ 我レ大事ヲ成スハ今夕(こんせき)ニ在リ

我敵ハ正ニ本能寺ニ在リ 敵ハ備中ニモアリ汝能ク備エヨ

 

こゝに始めて軍勢は 漸(ようや)く二心(ふたごころ)と悟りしが

捨つるいのちは一つぞと 時しも六月二日の朝まだき

露の身の軽き軍兵(ぐんぴょう)が 本能寺を取り囲み

(とき)をつくりて攻め入りける 此の物音に信長は

寝覚の耳を欹(そばだ)つれば 紛ふ方なき人馬の聲(こえ) 

館間近く聞ゆるにぞ 枕を蹴つて立上り

(と)く見届けよとありければ 森の蘭丸かしこまり

表の方(かた)に走り出で 見越の松に走(は)せ上(のぼ)

ふりさけ見ればこは如何に 雲か霞か白旗に

染めたる桔梗の紋所 見るより蘭丸引返し

光秀謀叛と答ふるに かつと怒りて信長は

者共覚悟と呼はりて 弓矢おつ取り立向ふ

寄せ来る敵を物ともせず 瞬間(またたくま)に数十騎を

矢つぎ早に射て落し 勢ひ鋭く防ぎしも

只一と筋と信長が 頼む弓弦(ゆんずる)フッツと切れ

得たりとつけ入る豪敵を すかさず弓もて打て伏せ

とかくするうち信長は 左手(ゆんで)の腕(かいな)に痛手を負ひ

蘭丸代つて防ぐうち 宿直(とのい)の者もことごとく

茲を先途と戦へども 衆寡敵せず信長は

はや是迄とや思ひけん 自ら館に火を放ち

煙の中に飛び入りて 刃(やいば)に伏してぞ果てにける

ああ豪邁(ごうまい)の信長が 空をも覆はん大鵬(たいほう)

図南(となん)の翼の中空(なかぞら)に 燕雀(えんじゃく)のため悩まされ

終世の望み絶えたるは 獅子身中の蟲に斃れたる

(そしり)を口碑に伝へけり 続いて蘭丸を始めとし

坊丸力丸の小姓ども まだ末若(うらわか)き稚児桜

嵐の山の朝風に いとも床(ゆか)しき香を止めて

散るやちりぢり後や先 百有余人諸共に

哀れ本能寺の煙と消えにける つらつら古今を按ずるに

人に君たる王侯の 心すべきは徳にこそ

心すべきは徳にこそ

 


以上、2006年蘭丸供養祭で奉納された「森蘭丸」と「本能寺」2題でした。